第2話 花冷え

『花冷え』



 祖母は毎年、花冷えの日は鬼が出ると言って僕を家から出さなかった。


 祖母は僕が六つの頃に亡くなり、僕はそんな話も忘れ、春が過ぎ、夏が過ぎ、気付けば十四歳になっていた。叔父が急死した連絡が来たのは四月一日の午前中だったので、僕は初め、冗談が好きな叔父がまたみんなを揶揄うつもりなのかと思った。それ程急な連絡だった。


「レン、制服着てね。数珠、お母さん持ってるからおばあちゃんち着いたら渡すから」


 母がそう言って、父と母と僕は三人で車に乗り込んだ。高速も使って二時間弱。祖母の家は近所に有名な桜並木があって、毎年遠くから桜を見に観光客が来る程だった。その年は例年より暖かくなるのが早く、桜は既に散り始めていた。晴れた空と舞い散る桜が余りにも綺麗だったので、僕は柄にもなく暫し見惚れていた。


 集まった親戚が叔父に最期の別れを済ませ、バタバタと忙しなく動いているが、僕たち子供らは居場所もやることもなく、かといってはしゃぐような空気でもなく、部屋の隅で邪魔にならないよう団子になっていた。


「レン、明日は寒いみたいだから、外には出ないで温かくしててね。ミワちゃんたちも」

「……花冷えだから?」

「覚えてたの?」


 僕が恐る恐る返すと、母は目を丸くしてこちらを見た。その間にも手はアルバムのページを捲っており、目線も直ぐにそちらに戻った。


「おばあちゃん、花冷えの日は外に出るなって」

「鬼が出るから、でしょ? 孫たちだけじゃなくて、お母さん達娘息子も散々言われたよ。実家にいる間は夜は絶対外出させて貰えなかったしね。まあ毎年絶対でもないし。……信じてる訳じゃないけど、まあ一応ね。習慣みたいな感じもするし」


 母は肩を竦めて苦笑し、また忙しそうにページを捲り始めた。僕と近くにいたミワは顔を見合わせて沈黙する。他の子もどこか神妙な顔をしていた。ミワと僕以外の孫は元気だった頃の祖母の事をよく知らないだろう。花冷えの話だって、親からも特にされていないかも知れない。教えるべきか迷って、僕は押し黙った。ミワは何事か考えるように黙っていたが、一番歳が近く仲の良い従姉妹のチカの所へ向かった。祖母の教えを伝えるのだろう。


 翌日、祖母の教えに従って、大人も含めて僕たちは家の中に閉じ籠って過ごした。天気予報によると明日は暖かいようで、ゲーム機も何もない家屋から出られる事を子供も大人も安心したようだった。


 その間、叔父の遺体は仏間に寝かされていた。ドライアイスが敷き詰められているので、あまり近くで深呼吸などをしないよう、葬儀屋の男性が静かに言っていた。


 その日の夕方、僕はミワとチカが連れ立って客間から出て行くのを見た。外出を禁じられているのに、彼女らは玄関に向かっている。


「どこ行くの?」

「……ちょっと散歩。レン、ママ達に黙っててね」

「今日は外出ちゃダメだよ……おばさんに言うよ」

「やだ、やめて! レンあんなの信じてるの? 別におばあちゃんしか言ってないじゃん」

「だって、親戚のみんな守ってるよ」

「みんなだって、おばあちゃん死んじゃってからは守ってないよ! いいから、ママたちには言わないでね! すぐ帰ってくるから!」


 ミワはそう言うと、フンと口で言ってそっぽを向いた。そのまま歩き出すミワの後ろを、背の低いチカが恐る恐る着いていく。


 僕は親戚のおばさん達にこの事を言おうか迷ったが、何故止めなかったんだと叱られるんじゃないかという想像が頭を過った。年下の親戚の不始末を、僕は何故か毎回責められるのだ。その時の記憶がしっかりとこびりついていたから、周囲の大人には何も言わなかった。


 それから三十分程経って、初めにチカの母親がチカの不在に気付いた。全ての部屋を回り、数人の親戚に声をかけてから、叔母は真っ青になって黙りこくった。


「レンくん、チカちゃんどこ行ったか知らない?」

「……」

「待って、ミワもいないわ」

「……」


 ミワの母親のその言葉に集まっていた親戚も揃って沈黙した。ガラス戸に嵌められたガラス越しに見る外は真っ暗で、日が落ちて随分時間が経っているとわかる。


「……探しにいくしかないだろう」


 黙りこくっていた親戚の叔父さんがそう言うと、みんなそろそろと視線を合わせて躊躇いがちに頷きあった。


「あんた達は家にいて」


 口ぐちにそう言って、母達は二人一組でペアを作り、それぞれが携帯のライトや懐中電灯などを持って家を出た。家には子供達だけが残されたが、母に「レンが一番歳が上なんだから、あんたがしっかり面倒を見てよ」と言われたので僕は必死に泣きそうな従姉妹や再従兄弟に声をかけて回った。


 ミワとチカはどこに行ったんだろう。


 こんなに大事になってしまって。実は庭にでも隠れていて、驚かすタイミングを失ってしまったんじゃないだろうか。

 僕はそう思って、縁側からサンダルをはいて庭に出た。強い風に乗って、どこか遠くから桜の花弁が運ばれてきた。本当に今日は寒い。鳥肌が立った二の腕を手のひらで摩り、庭の大きな桜の木のそばまで歩く。生垣の隅にでもいるんじゃないかと視線を下げた。


 膝を抱えて座っている人がいた。


 初め、僕はミワかと思った。ガリガリの体が子供のように見え、俯いた頬に黒髪がべったり張り付いていた。

 咄嗟の事に声も出せない僕に気づいて、その人は顔を上げて僕を見た。重たい前髪で隠れた濁った灰色の目が、まるで死んだ魚みたいだと思った。


「お、」


 声を出そうとした唇を、伸びてきた汚れた掌が力強く塞いだ。その手は生臭い何かでべたべたしている。背後の祖母の家から、母の呼ぶ声が聞こえる。僕が庭にいるのは誰も気付いていないようだった。

 

 大きく口を開いたその歯は鋭く尖っていた。祖母の言葉通り、叔父のその顔はまさしく『鬼』だった。

 

 

 

『花冷え』 終わり

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