第4話 赤い服
始まりは小学生の低学年頃の時だった。
ふと目を覚ますと、家の中は無人だった。母は既にスナックへ仕事に向かっており、小学生になったばかりの私は真っ暗な部屋を見回して震えた。まだ子供だった私は、一人の夜が訳もなく怖かった。強風で古い窓がガタガタと嫌な音をたてて、そんな耳慣れた音にすら怯える始末だった。
――ダン!
玄関の方から突然大きな音が鳴った。物が倒れた時とは違う、明らかにドアを叩いたとわかる音だ。それも、殴ったと表現するかのような、乱暴な音だった。
一人の時は、絶対に玄関のドアを開けてはいけない。
母が仕事に行く時、繰り返し私に言う言葉を思い出した。
――ダン! ダンダン‼︎
続けざまに何度もドアを殴られ、その大きな音が恐ろしく、思わず首を竦めた。
恐る恐る廊下へ顔だけを出すと、直線上に玄関のドアが見える。
引き戸になっているそれは全面に曇りガラスが貼られ、外の景色は薄らとしか見えない。
曇りガラスの向こうには赤い色が見えた。どうやら戸の向こうには赤い服の人物が立っているようだった。それも、その長い裾からいってワンピースを着た、恐らく女性。
私は怯えながらも両の掌で口元をしっかりと覆い、気配すらも殺した。
暫く静止していたその何者かは、住人が一向に出てくる気配がないのを察すると、諦めたようだった。
暫しの静寂の後、背を向けて家を後にしたのが硝子越しに見えた。
私は安心し、もう一度眠る為にそっと布団に戻った。けれど緊張か、或いは興奮状態にあったのか。どれだけ眠ろうとしても、頭がどくどくと激しく疼くようで眠れない。
そのまま三十分は経っただろうか。
遠くからサイレンが聞こえてきた。
どんどんと近付いてきたそれは、常ならば通り過ぎて離れていく筈だった。けれど、今日はむしろ近付いてきているようだった。
突然鳴りやんだその音に、私は恐々と窓を開けて外を見た。道路を挟んだ向かいの空き地に、消防車が停まっているのが見えた。
帰宅した母に消防車の話をすると、母も誰かから小耳に挟んだのか「近所で火事があったらしい」という話をしてくれた。
夜中にきた人物については、母には言えず、そのまま話は終わった。
小学校高学年になった頃になり、家を引っ越した。
以前住んでいた長屋を壊す事になり、あまり離れていないアパートに引っ越す事になった。
それと同時に、母はスナックを辞めて近所の工場で働き出した。夜も家にいてくれるようになったので、嬉しく思ったのを覚えている。
夕食後、母と二人で再放送された古い映画を見ていると、不意にチャイムが鳴った。
母は交友関係が広く、夜中に突然人が訪ねてくる事がままあった為、突然の来訪である事も、私は特に不思議には思わなかった。
「ちょっと出て。お母さんテレビ気になるから」
「えー……はいはーい」
そのあまりの真剣な表情に、私は呆れて答えた。短い廊下を歩いて、散乱している靴を脚で適当に退かしながらドアノブに手をかける。
「はーい、どちらさ、……ま」
語尾が掠れた。
目の前が真っ赤になった。
そう錯覚する程近い距離に赤色があり、思わず驚いて仰反ると、どうやらそれは服の色のようだった。
刮目したまま目線だけを上げていくと、やっと赤以外の色が見えた。長い黒髪が真っ直ぐに胸下まで落ちている。ゆっくりと、それを辿るように顔を上げていく。
鎖骨。顎。
「誰だったー?」
「‼︎」
突然すぐ後ろから母の大きな声がして、私は勢いよく振り返った。
硬直して目を見開いている私を不思議そうに見て、母は首を傾げた。
「なんだ、……誰もいないじゃん」
「……え?」
拍子抜けしたようにそう言って、母はリビングに戻っていく。
その言葉と態度に驚いて、私は恐る恐る顔をドアへと戻した。
確かに先程までそこにいた、赤い服の女は煙のように消えていた。
「お、お母さん……今女の人が」
「映画終わっちゃった……あれ、火事?」
遠くからサイレンの音が聞こえ、母が訝しげに窓を開けた。
「随分近いんじゃない?」
と言って、顔を顰める。窓の外からは焦げ臭い臭いまでした。
その瞬間、私はあの日の事を思い出した。
あの赤い服の人物が、以前も訪ねてきた事。その日、近所で火事があった事を。
火事は私と母が住むアパートのゴミ捨て場で、不始末の煙草が原因だった。直ぐに発覚し、周囲には燃え移らなかったのは不幸中の幸いだったと、後になって母は言った。
その夜は上手く寝付けなかった。
あの女が来ると、火事が起きる。そして、それは近付いてきているのではないか。
そう思った私は、学校や親戚にその日の話や、同じ事が以前もあったという話をしたが、同じ体験をした人は一人もいなかった。
私は何年も、もやもやとその事を覚えており、インターネットの使い方を覚えてからは同様の体験談がないか検索したりもした。
けれど、結局同じ体験をした人はネットの海にもいなかった。
そんな事を繰り返している間に、私も大人になり、恐ろしい幼少期の体験の事は次第に記憶から薄れていった。
大学を卒業すると、親元を離れて一人暮らしを始めた。女の一人暮らしなので、高いけれどきちんとオートロックのあるマンションを選んだ。
毎日会社と家の往復で嫌になるが、平和に過ごしている。日課になったビールを飲みながらのドラマ観賞も悪くない。
――ピンポーン。
インターホンが鳴り響いた。
先程アプリで頼んだデリバリーの夕飯だろうと当たりをつけ、インターホンのカメラもろくに確認しないままマイクに向かって「いま行きまーす」と雑に告げた。エントランスのオートロックを解除する。
適当なカーディガンを羽織り、ドアへと向かっている途中で、再度インターホンが鳴った。
先程エントランスからエレベーターで上がってきたにしては、随分早いな。
一瞬だけそう思ったが、たまにはそれくらいタイミングが良い事もあるのかも知れない。インターホンで応答する事はせず、不用心にもドアに手をかけた。
ガチャリ。
重たい音を発ててドアを開けると、女が立っていた。
ゆっくりと視線を上に移動させる。とてつもない既視感を覚える。脳内でサイレンが鳴っている。消防車のサイレンだ。
ゆっくりと目線を上げていく、その仕草は奇しくも小学生の頃と丸切り同じだった。違うのは私の視線のスタートラインだけ。
大人になった私は、もう仰け反らなくても女の顔が見えた。
長い黒髪が胸下まで落ちている。真っ白な顎を通り過ぎ。
女の顔を見た。
何処を見ているのかわからない真っ黒な瞳を見た。
女の唇がゆっくりと笑みの形に歪んでいく。その顔を見ながら、頭の片隅で思った。
今日、火事が起きるのは、どこなんだろう。
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