【短編】千度目の君に伝えたい
葦原 聖
千度目の君に伝えたい
——恋物語に憧れた。王子が、英雄が、剣士が、魔法使いが己の胸から湧き上がる熱い衝動でもって意中の相手を射止める。そんなキラキラとした絵空事に心を奪われた。娯楽の少ない僻地だったということの影響も少なくなかったのだろう。
憧憬が欲へと変わるのはすぐのことだった。同世代の子供たちが冒険物語を読んで奮起していたのと同じように、いつか来るその瞬間のために自分磨きを始めた。
目指すのは【王立学術院】だ。この国で一番の学術施設であり、国内外問わずあらゆる才能の募る場所。ただ、それは目的ではなく手段である。才能は宝であり、努力もまたそれを彩る装飾だ。未だ姿を見せることのない意中の相手にとって、自分とは物語の主役のように輝かしい存在でなくてはならない。王立学術院を目指すのもその一環だ。
そして十年の時が経った。恋物語に憧れ、自己研鑽こそまだまだ足りないものの、なんとか王立学術院への入学は叶った。
——しかし、未だ運命の相手とも言うべき人物とは巡り合ってはいなかった。
******
恋とは春雷のような衝撃と共に訪れる。それがアルトの認識だった。ただし、経験は皆無だが。
だとするならば、それと同じくらいに思えるこの衝撃は恋の始まりと言うことは出来るのだろうか。
「——貴方はこのクラスに、いえこの学術院にすら必要ないわ。即刻立ち去りなさい」
入学式を終えたその足で呼び出された中庭で、大勢の生徒たちに見下ろされながら、無慈悲なまでに冷酷な言葉が尻もちをついたアルトに投げ捨てられた。
「は、え……?」
「言葉が聞こえないのかしら、それとも理解する能力がないのか。わたしは同じことを二度告げてあげるほど寛大ではありません」
「まっ——!」
意味のある言葉を発する暇さえ与えずに、彼女はその場を去る。残されたのは好奇と嘲笑に晒されるアルトだけだった。
アルトの脳内は混乱という感情で満ち満ちていた。もちろん彼女とは初対面であり、初交流だ。いや、彼女だけではなくアルトは同級生ともまだ満足に会話を交わせていなかった。そんな状態で、アルトの何が気に障ったと言うのか。だが、そんな混乱よりもアルトの心を乱したのは彼女持つ独特の雰囲気だった。
学術院全体を見ても上位に食い込むであろうその整った顔立ちに、背中まで伸びる編み込みの入った綺麗な長髪。冷たいまなざしではあるが内に強い感情を宿したその瞳。端的に言って一目惚れというやつだった。
「……これが、運命」
一人取り残された中庭で、アルトはぽつりと呟く。それだけで自ずと頬は赤みを持ち、体の奥に渦巻く感情が暴れ出し、叫びたくなる衝動に駆られる。
「これが、恋——!」
我慢することなく声を上げれば、何でも出来るような全能感に身が包まれる。アルトの頭には先ほど意中の相手から掛けられた罵倒なんかとうに消え去ってしまっていた。
よし、と一つやる気を入れ、アルトは行動に移った。
*******
王立学術院では様々な学問を修めることが可能となっており、生徒の自主性が重んじられている。しかし、一年次だけは特別であり、その全員が共通教養を学ぶ必要があった。
入学式の翌日から授業は始まる。そして一日あれば入学式でのアルトの醜態がクラス中——いや、学年中に広まるのに十分だった。
教室に向かうまでの間でも、あらゆる生徒たちが含みのある視線で、中にはわざと聞こえるような声でもってアルトを揶揄する。しかしアルトはそんなもので止まるような男ではなく、その程度で鎮火するような想いでもなかった。
「まずはお友達から始めてください!」
「——」
その時に教室中の誰もが飲み込んだのは、『お前まじか』という言葉だった。明らかに前日に罵倒を受けた相手に対しての態度、言葉ではない。教室にいた全員がハラハラとワクワクがないまぜになった心中で二人の様子を見守っていた。
腰を体に対して垂直になるまで折り曲げ、頭を下げたまま右手を差し出したその姿勢のまま、どれだけ時間が経っただろうか。恐る恐る上げた視線が捉えたのは、下唇を噛みしめながら瞳を揺らす少女の姿だった。
「——ソフィアさん!」
ソフィアの傍らにいた生徒が彼女の様子に気付き、声を上げる。それによって皆が異変に気が付いたようだった。割って入ろうとするその少女だったが、アルトはそれに待ったをかけるように言葉を発した。
「何か気に食わないことがあったのなら直す! それが無理だと、無理だと言うなら……、関わらないようにする! だから、せめて理由だけでも——」
「二度は言わないと、言いました」
眼を逸らしながら告げられたその言葉に、アルトは初恋が一日で玉砕したことを自覚した。
「二度とソフィアさんに近づくな、このストーカー男!」
ソフィア嬢の周囲からそうした言葉が飛んでくる。
真っ白になる思考の中、何とか謝罪の言葉だけを絞り出し、アルトは席に着いた。想定していた恋色の学生生活とは一転した、灰色の生活が始まりそうだった。
*****
アルトが灰になってから数か月が経った。傷心のアルトは日々の授業が全く身に入らなかったが、そこはそれ、これまで鍛えに鍛えた身体はそれでもそれなりの成績を上げていた。それに対して面白くないと思った生徒は一定数いたのか、嫌がらせのようなものを受けたこともあったが、反応のないアルトに興味をなくしたのか、すぐにそれもなくなった。
「もう、終わりだぁ……」
それだけの時間が経ってもなお、アルトは初恋の衝撃を忘れることが出来ずにいた。女々しいことだろうが、やはりどうしても視線はソフィアを追ってしまう。しかし、あれだけ言われてはアルトと言えど彼女への接触は難しいことこの上なかった。
ソフィア側からもあれ以上の接触や罵倒は一切なく、二度は言わないと明言しているだけあって一貫してアルトの存在を排したいと思っているようだった。
そんな風にアルトにとっては苦々しく進んでいた日常だったが、事態が一変したのはそれから数日後のことだった。
「【野外実習】か、確かに王立学術院卒業生の進路は騎士団が大半だし、こういう経験も必要になってくるか。はは、でも意中の相手に一言目から嫌われている僕なんかじゃ、倍率が高い騎士団は無理だからどうでもいいか……」
アルトの自己肯定感は最低まで落ち込んでしまっていた。このままでは本当に学術院を辞めそうな勢いだ。それも無理はない。十年分の熱意が根本からへし折られてしまったようなものだ。根気には自信のあったアルトでも挫折せざるを得ないほどの絶望だった。
アルトが何かをしでかしてしまったのならいい。そこから挽回するために奔走するのは何ら苦じゃないからだ。だが、取り付く島もないほどに嫌悪されているなら話は別だ。アルトに出来るのは出来るだけ存在を消すことの他になかった。
「はぁ……、もうどうすればいいのやら……」
長年の習慣で自己鍛錬だけはどのような肉体、精神状況でも呼吸をするように出来ていた。しかし、それでも身に入らないのは事実だ。いつもならばすぐに終わる筋トレも倍は時間がかかっていた。
さっさと切り替えることが出来るならばそれが一番だったが、失恋してすぐに次の恋に走れるほどアルトは器用な性格をしていなかった。
「なになに……、班別で要人警護や魔獣討伐の演習——。普段なら一緒の班になれるかどうかでドキワクが止まらないところだけど……」
今のアルトは全力でソフィアの視界に映らないようにしているところだ、上がるはずのテンションも上がらなかった。
アルトが振り分けられたのは魔獣討伐の組であり、縁が良かったのか悪かったのか、違う班ではあるもののソフィアも同じように魔獣討伐に振り分けられていた。
魔獣討伐と言っても騎士団がするような災害レベルや準災害レベルの魔獣と戦う訳ではなく、農村近くにいる群体を間引く程度のものだ。——ものな、はずだった。
「な、んでこんな……。っ、いかん、生徒たちに避難を——ぶ」
避難指示を出しながら引率教師の体が吹き飛んでいく。
突然の悪夢に阿鼻叫喚になりながら生徒たちは我先にと逃げ惑う。それに触発されてアルトもまた半狂乱になりまがら魔獣から背を向けようとして——特徴的な銀の編み込みが視界を横切った。
「は、は——? なん、で」
逃げる生徒たちの波に逆らうように一人、ソフィアだけが魔獣へと立ち向かっていく。その様は古文書に記される聖者のような神々しさがあった。
しかし、しかしだ。あんなもの、たかが学生が勝てるものではない。どれだけ尊い行動であっても結果が伴わなければそれは犬死でしかない。たとえ次の瞬間には命を失ってしまうとしても、生物として正しいのは尻尾を巻いて逃げるという行動だ。
引き延ばされた時間の中、アルトはそう思考しながらも、気が付けば身体はソフィアの方へと駆け出していた。そうこうしている内に魔獣はソフィアへと肉薄している。彼女の才能は学年一と言ってもいいだろう。
だが、それもあくまで素人集団の中では、というだけだ。そもそも目の前の魔獣とは体格からして隔絶している。行動一つごとに窮地に追いやられていく彼女に、アルトは気が気じゃなかった。一刻も早く彼女の元へと駆け寄らんとするアルトを目の前に、ついに均衡が崩れる時が来た。
「——くっ!?」
大質量が暴れまわった影響で地盤が崩れたのだろう、それに足を取られて姿勢を崩すソフィアの隙を当然のように魔獣は見逃すはずはない。華奢な彼女に迫る爪を、アルトは間近で視認する。
「ダメっ、あなた、どうして——!」
気が付けば腹部を魔獣の爪が貫通していた。激昂したソフィアが魔獣に攻撃する。被弾を嫌がった魔獣はアルトから爪を引き抜いて距離を取った。
「——セアァッ!!」
と、その時後ずさった魔獣に対して追い打ちがかけられる。最初に餌食になったかと思われていた引率の教官が、半身を血みどろにしながらも応戦していた。
それを見て取ったのか、ソフィアが倒れ伏すアルトへと駆け寄ってくるのを感じた。
「なんて酷い……! まずは止血、それとも患部の消毒が先……? でも、こんな怪我——」
「よかっ、君が、ぅじで……」
「ダメ、しゃべらないで! 今治療するから!」
額に汗を浮かべながら懸命に治療をするソフィア。そんな場合じゃないのだろうが、下から見上げる彼女の顔も、やはり可愛く思ってしまうアルトだった。チカチカと明滅する思考の中、さすがの手腕なのかそれとも感覚がマヒしていっているのか、痛みが和らいでいくのを感じていた。
「どうして……? どうして貴方はいつもそうなの……? あれだけ遠ざけても、何故貴方はわたしを命がけで助けるの——?」
そして何故と問われる。言葉に引っ掛かりを覚えるも、それを手繰り寄せるだけの集中力が今はなかった。だが、一つ言えることがある。アルトは次第に痛みを感じなくなりながら、治療を行う彼女の手を握った。
「君だって、そうじゃないか。あの状況で、いの一番に囮を、買って出た」
「——っ、それは、身体が勝手に……。それにわたしは、こんなところでは死なないから」
「それでも、だよ。僕だって同じだ、君が飛び出していくのを見て、気が付いたら君の前にいた。でもそれだけっていうのは、まあ、噓になる」
息も絶え絶えになりながらも、アルトは胸の奥底から湧き上がるままの感情をそのまま言葉にして吐露する。
死というものを間近に感じてしまったからだろうか。アルトには一つの欲求が芽生えていた。それはソフィアに想いを伝えたいというものだ。前回のように拒絶されてもいい、ただ何も言えずに死ぬことと比べると何を恐れることがあるだろうか。
これも一種のエゴだろう。このような状況で嫌っている人物からぶつけられる感情など迷惑でしかないことはアルトにだって分かっている。だが、伝えずにはいられない。この胸の奥から絶えず湧き出る熱いものが、外に出たいと叫んでいるのが分かる。
「……ふっ」
あれこれ考えているのが馬鹿みたいに思え、アルトは笑みを零した。
ソフィアの膝枕を受けながら、アルトは一つ深呼吸をする。一世一代の告白をする決心をしたはいいもの、アルトは今更ながら緊張に震えが止まらなった。一度断られているとは言え、いや、拒絶されたからこそまたあの絶望を味わってしまうのかと考えるだけで目の前が真っ暗になってしまいそうだった。
——しかし、しかしだ。幾分か戻った力で、アルトは上体を起こす。慌てたように胸を押して寝かせようとソフィアはしてくるのだが、アルトは明確な意思をもって彼女の手を取る。
息を吸い、そして吐く。それだけで心臓が痛いくらい跳ね、手のひらに汗が滲む。
「——君が好きです」
そしてついにアルトはその言葉を発した。最初の時とは異なり、しっかりと目線はソフィアに向けたままだ。万感胸に迫るとはよく言ったもので、この時のアルトは様々な感情で頭がぐちゃぐちゃになってしまっていた。傍から見ると目がぐるぐる回っているようにさえ見えたことだろう。
「……ふふ」
そんなアルトの耳に、鈴の音のような済んだ笑い声が聞こえてきた。こんな絶体絶命のような状況で、近くでは教官が必死に魔獣を食い止めているような場面でさえあったが、アルトもはや彼女以外見えなくなってしまっていた。生涯で一番印象に残る記憶はどれかと聞かれれば、アルトは迷いなく今この一時を選ぶと確信をもって言える。
恋はやはり物語で言うように人を盲目にさせるのだ。
「ダメね。……あぁ、今のは断ったとかじゃないわ。ただ、こんな状況なのになんだかおかしくって。こんな状況だからかしら? でも、やっぱりダメだわ。どう返答するにしても、今はここから生き残らなくちゃだから」
それは彼女なりの強がりなのか、それとも深い傷を負ったアルトへ希望を持たせるための言葉なのか。定かではないが間違いなく一つ言えることは、その言葉がアルトの火を付けたということだ。
恋の病に罹った脳はどうやらその言葉を、『魔獣を退けたら付き合ってあげる』と解釈してしまった。今こそ十年分の研鑽の力を見せつける時であると奮起してしまった。
そこからの記憶はない。だが、教官の救難信号を受けて王立学術院から派遣された援軍の話によると、『我らが駆け付けた時には、少年が準災害級の死骸の上で天へと拳を掲げていた』そうな。
******
そんなことがあって一週間後、アルトは病室で暇な時間を持て余していた。目覚めはつい先刻、勢いよく起こした上体の悲鳴は記憶に新しく、一通り看護師からの手厚いお叱りを受けたばかりのことだった。
物心ついてからまだ見ぬ己の恋愛のために絶えず研鑽を積んできたアルトにとって、今のような何も出来ないという時間はただただ苦痛でしかなかった。加えて連続している記憶の最後の辺りでは意中の相手であるところのソフィアに命懸けの告白を実行したところ、かなり色のいい答えが返ってきたような気がしている。彼女が無事であるかどうかという心配も相まって、居ても立っても居られないというのがアルトの正直な心境だった。
「——よし、抜け出そう」
決意は一瞬、そして行動に移すのもまた一瞬だった。我慢できない性格なアルトはその前科のため、半ば拘束される形になっている。だがそこはアルトのこれまでの研鑽の見せどころ、万が一のために習得しておいた縄抜けの技術をふんだんに駆使してベッドから抜け出した。
「さて、逃走ルートは——廊下は無理か、どう考えてもさっきの看護師たちが待ち構えているに決まっている。となれば」
ぐるりと病室を見渡す。扉以外で外に出ることが出来そうな場所は窓しかなかった。しかし、病院の窓と言えば全開にすることが出来ないという事実をアルトは知識として知っていた。だがそこはアルトのこれまでの研鑽の見せどころ——以下略。
そうと決まれば行動あるのみだ。あたりの気配を伺い、今しかないと確信を胸に抱いて、いざ自由の空へ——。
迷いない足取りで窓際まで一直線に、そうして窓枠に片足を掛けた時のことだった。背後で扉の開く音が聞こえ、アルトはつい肩越しに背後を確認してしまう。相手が件の看護師長であれば一刻も早く窓から飛び出さないといけないからだ。しかし、そんな心配と裏腹に、入ってきたのは見慣れぬ私服を身に纏ったソフィアの姿だった。
「————」
長い様でいて短い沈黙が両者の間に広がった。痛いほどの静寂の中でお互いに相手の表情が次第に変化していくのをまざまざと目撃する。ソフィアは驚愕、それから怒りに髪を逆立て、そしてそれを目にしたアルトは焦燥から目を見開いた。
「さ、させるか——っ!」
床を踏み抜くのではないかと思ってしまうほどの踏み込みで、未だ右足を窓枠に掛けたままの体勢で惚けていたアルトの元へとソフィアが肉薄する。彼女の余りの迫力に震え上がるアルトは体勢を崩してしまうも、身体が傾くよりも前に気が付けばソフィアの胸元へと抱き寄せられていた。
「そ、そふぃ——」
「——せっかく助かった命だというのに、貴方はいったいどういうつもりなんですか!?」
頭頂から振りかけられたのはそんなアルトの安否を慮るような叱責だった。その言葉の意味を掴み切れず困惑していたが、ふとアルトは自身が今あった状況を客観視する。
「あ……」
アルトの思惑はどうあれ、折角拾った命にも拘わらず、目覚めてすぐに身投げを試みようとしている頭のおかしい男の姿がそこにはあった。どうりでソフィアも泣きそうな——いや、実際に涙を滲ませながら怒りの言葉をぶつける訳だった。
「はは」
そんな状況ではないはずなのに、アルトはつい笑みを零してしまった。ソフィアの無事を確かめることが出来たからか、それとも客観的に見た自身の間抜けさがツボにはまったのか。だが、何にせよタイミングが悪すぎた。ソフィアは涙をにじませた自分を笑われたと感じたのか、むっとしながらぐしぐしと両手で涙をぬぐい始める。
それを見て失態を悟ったアルトはわたわたと慌てた様に両手を動かし弁明する。
「や、違うくて! 君を笑った訳では決してないんだ。それに、僕は自殺をしようとしていた訳でもないんだよ」
「え? ならどうしてあんなこと……」
「——ただ君が心配で。あの時は無我夢中だったから、ちゃんと君のことを守れたのか確かめに行こうとしたんだ」
「……わたしがどこにいるのかも分からないのに?」
「う……、それはまあ何とかして、こう……」
アルトの曖昧な返答に、ソフィアはその綺麗でくりくりとした瞳を細めてジト目を作る。どうにも今日はソフィアの知らない表情をたくさん見ることが出来る日のようだ。場違いにもそう思ったアルトを責め立てるかのように、ソフィアの追撃は続く。
「それで? こうやって抱き寄せられていても痛みで震えて、しかも自分で起き上がれないような状態の貴方が一体どうして病室から出ようなんて思考になるのかしら?」
「……面目次第もございません」
彼女の圧は凄まじいもので、アルトに出来たのは全面的に降伏して謝り倒すことだけだった。そんな情けないアルトは彼女の手を借りて寝具の元へと戻る。先ほどまで動けていたのに、ソフィアが現れてからは嘘のように体が動かなくなってしまっていた。彼女の無事を確認出来たことで脱力してしまったのだろう。理想の男になるにはまだまだ鍛錬が足りなかったようだ。アルトはそう自省した。
そうしてアルトは寝具の上、ソフィアは傍らの丸椅子に腰かけ互いに一息を吐く。ソフィアはそれで一応怒りの波は過ぎ去ったのか、いつも学術院で見かける時のような澄ました表情へと戻ってしまっていた。そのことに若干のもの惜しさを感じつつも、とりあえずは怒りを収めてくれたことに対して安堵を胸に抱く。
すると現金なもので、アルトは意中な相手がすぐ近くにいるという事実に今更ながら鼓動が高鳴るのを自覚した。加えて先ほどは動揺と混乱から流してしまったが、ソフィアに抱き留められもしたのだ。それを意識した瞬間、アルトの顔が火照っていく。そんなアルトの様子に気付いているのかいないのか、ソフィアは見舞いの品と称していくつかの果物の詰め合わせを取り出した。
「それで、あの時の話、なんですが……」
そこからしばらくは雑談に花を咲かせた。看護師もあの日の出来事についてはある程度のことしか知らなかったようで、それらを埋める形でソフィアから色々と話を聞いた。
幸い——と言ってもいいのか、死者は引率を務めてくれた騎士団員一人だけであり、生徒たちは数人心身の疲弊から体調を崩した者たちが居はしたが、全体で見ると準災害級との突発的な遭遇例と比較するとかなり被害が少ない部類だということだった。
正直あの魔物は準災害級に分類される大物だったのか、だとかなんでそんなものがあの場所に、だとか色々と疑問は残ったが、最後に彼女が少し言いづらそうに口を開いたことでそれらは脳裏から完璧と言っていいほどに吹き飛んでいった。
ソフィアは【あの時の話】とそう言った。それはすなわちアルトが魔獣と対峙する直前にソフィアに告白した時のことで間違いないだろう。正直な話、アルトもその件に触れたかったため、ソフィアから切り出されたのはまさに渡りに船だった。
彼女の様子を見て、アルトは瞬間的に体が熱くなるのを自覚した。その始まりは最悪からだった。訳も分からないままに拒絶され燃え尽きていたアルトだったが、死を目前にした時にこのままでは死んでも死にきれないと、告白さえ出来ないままではあの日灯った情熱が冷めやらないと奮起した。その末で、アルトの想いはソフィアに届き、いつか見た本懐を遂げることが出来て——。
「——わたしはまだ貴方のことを何も知らないし、今はまだ色々と考えなきゃいけないことがあるから」
「……は?」
なんだ、その、まるで告白に対する断り文句のような文字列は。アルトは数秒の間耳に届く音の連なりを言語として処理することが出来なかった。アルトにとってあの時の告白は成功していた。あの状況を乗り越えることが出来れば、ソフィアとの一緒に日々を過ごすことが出来ると本気でそう思っていた。
思い込みが激しい、それがアルトの美点であり欠点でもあったのだ。
思考を埋め尽くす何故という言葉の群れの裏で、冷静な部分があの時の状況を再現する。『どう返答するにせよ』と彼女はそう言っていた。瀕死という極限状況の中で、普段とは違う柔らかな雰囲気のソフィアを前にして、アルトの脳は正常に働かなかったのだ。その結果、アルトが考える一番都合のいい方向に錯覚してしまった。
——気持ちが悪かった。客観視した自分を、アルトはそう分析した。恋は盲目とはよく言ったものだ。本来であれば、恋する相手の欠点が見えなくなってしまうという意味合いを持つその言葉だったが、アルトの場合は目ではなく耳であったようだが。
そこまで冷静に思考をしてしまったことで、アルトはその場から逃げ出してしまいたいという強い欲求に駆られていた。ソフィアからの言葉をそれ以上聞きたくはなかったからだ。もし仮に彼女から今以上の決定的な拒絶の言葉を聞いてしまったらと考えると、初めて彼女と出会ったときを思い出してしまうだろう。あの時のことは十分すぎるほどに深い傷跡を残していた。
「ご、ごめん。やっぱりまだ体調が優れないみたいだから、今日はちょっと……」
アルトが選んだのは逃避という選択だった。眼を逸らし、震える声でそう告げたアルトに、ソフィアはどう感じたのだろうか。彼女と目を合わせることすらままならないアルトでは確かめようもない。元々アルトの勘違いでしかなかったのだ、これで元の生活に戻るだけ。元の、好意を寄せる相手に拒絶される、そんな生活——。
「分かりました……、と言いたいところだけど、目を覚ましてすぐあんな危ない真似をするような人を一人になんて出来ません」
凛としたその言葉に顔を上げればソフィアの探るような眼がそこにはあった。その鋭さに自身の浅ましさが見透かされているように感じ、アルトはぐっと息を呑んだ。
「貴方がどう考えているのかはわたしには分かりません。ですが、貴方に命を助けられたわたしだからこそ、貴方に告げます」
吸い込まれる。その綺麗な翡翠の瞳から目が離せなくなる。
「わたしを助けてくれて、ありがとう」
「——っ」
アルトは何も言えなかった。
あまりにも純粋なソフィアを鏡として、不純に塗れた自分を見せつけられたようなそんな心地だった。
それからソフィアは看護師を呼び出し、後を託すようにして病室を去った。
慌てて駆け付けた看護師長に、滂沱の涙を流して枕に突っ伏す姿を見られたことでまたひと悶着があったのはまた別の話だった。
*****
「うーん、ずいぶんなまった気がするなぁ」
日頃から身体を鍛えていたおかげか、アルトは驚くほど早く退院することが出来ていた。
幸か不幸か、あれ以来ソフィアが見舞いに来るというイベントが起こることはなかった。
加えて先の一件は王立学術院創設以来の大事件として取り上げられ、一時的に休校扱いとなっていたため、もやもやを抱えたままソフィアと対面するということは避けられていた。
そんな背景もあって、アルトは今秘密の鍛練場2にいた。1は故郷に置いてきた。
今までも何か悩みがあると鍛練がてら通っていた、誰も知らないアルトだけの特等席だった。
「それにしても、一歩前進したと言えばしたが」
考えるのはソフィアのことだった。最後に会った病室で、彼女から感謝を伝えられた。同じだけ怒られた気もするが、そこはそれ、初対面から何故か蛇蝎のごとく嫌われていたことを鑑みると一歩どころか十歩は前進出来たと言っていい。
問題は今のアルトの気持ちだった。
「思い込みが激しいっていうのは今までも言われたことがあったけど」
それにしても限度というものがある。確かに結果だけ見ると、アルトの勘違いによって絶体絶命な状況を切り抜けることが出来た。だが、それはそれとしても制御出来ない恋心ほど危険なものがないということもまた事実なのだ。
今になってアルトは自分の気持ちが怖くなってしまっていた。まるで幾重にも積み重なった激情が行き場をなくしているかのようだった。
「ようし、ここはすぱっとソフィア嬢に——」
「あら、わたしに何か用だったかしら?」
「——!?」
アルトしか知らないはずの鍛練場にさも当然であるかのように現れたのは件のソフィアだった。
「何度来てもここの惨状は凄まじいですね……、どれだけの鍛練を行えばこれだけの場を作り出せるのか」
勝手知ったるなんとやら、ソフィアはアルトの驚愕を置き去りにしてそこかしこを興味深そうに眺めていた。
その気恥ずかしさたるや、知人の女性を自室に招いたようなもの。これがそうなのか——。
「じゃなくて、ど、どうしてソフィア嬢がここに!?」
「それはもちろん貴方に会いに。誰かさんの要望によって面会が禁止になっていたようだったので、こうしてはるばる会いに来たというだけの話です」
「確かに看護師さんに怒られてから誰にも会わないようにして、とは言ったけど……」
それでもやはり腑に落ちないことはあったが、ソフィアがわざわざアルトに会いに来たという事実だけで頭がいっぱいになってしまっていた。
「少しばかりわたしとお話をしましょう。今度は逃げないでくださいね?」
そんなアルトの心を見透かしたかのように、ソフィアは柔らかく微笑んだ。
「僕としては……、願ったり叶ったりなんだけど、ソフィア嬢はいいの? その……」
「わたしが貴方を拒絶していた件について、ですか? そうですわね、まずはそのことについて謝罪をさせてください。本来なら先日に病室で伝えられたら良かったのですが」
そう返したソフィアは、呆気に取られたアルトを置き去りに腰を折る。意味が分からなかった。
「今更言い繕ったところで過去は変わらず、無様な言い訳に聞こえてしまうかもしれません。それでもわたしにはあの時にはあの選択しかなかったのです」
「そ、そんなに畏まらないで。たぶんだけど、僕が何かしでかしたんだろ? 悲しくはあったけど、それに今はこうして話をしてくれるってことは、今は違うってことでいいんだよね?」
「——わたしには使命があります」
ソフィアは質問には答えることはなく、唐突にそう告げる。
本題はこの先ということなのだろう、先ほどまでの柔らかな雰囲気を消し去りきりりとした表情でソフィアは口を開いた。
「今はまだその全貌を言うことは出来ませんが、わたし一人だけではこなすことは出来ません。そう思っていました、ほんの少し前までは」
ソフィアは胸に手を当て、遠くを見るように目を細めた。
「初めに言っておきます。これは打算です。ズルい人だと罵ってもらっても構いません。そうした上で貴方に伝えたい言葉があります」
——胸が高鳴っていた。
予感がした。特段鋭いとも、鈍感であるとも思っていないがソフィアが求めていることがアルトには直感的に理解出来た。
「——わたしの手伝いをしてくださりませんか?」
「喜んで」
一世一代の交渉事のつもりで臨んだであろうソフィアに対し、アルトの返答は簡潔かつ素早いものだった。
「……そんなに二つ返事で引き受けて、後悔しても知りませんよ。協力者としてわたしの秘密を共有しようと考えているのですが、これを聞いてしまったらもう引き返すことは出来ませんからね」
思っていた反応と違ったことに口を尖らせるソフィアだったが、アルトにしてみると当然のことだった。
「好きな人に手伝ってって言われて嫌になる人なんていないさ——あっ」
それが全てだった。本心だったがためについ零れてしまったその言葉にあたふたとするアルトだったが、一度言葉にしてしまったものを撤回するのもカッコ悪いと思い直す。
「ソフィア嬢が好きで、もっと一緒にいたいので手伝わせてください」
なので素直にそう言葉にする。
「まぁ、いいでしょう。今のわたしは誰かと一緒になることなど考えられないので、そうですね、最初に貴方から掛けられた言葉への返答として、友達から始めましょう」
ほんの少しだけ頬を赤らめたソフィアはそう言って右手を差し出す。
慌ててアルトはその手を取ろうとして、鍛練で汚れていることに気が付き手を拭いた後に改めて握手した。
じいんとした充実感に包まれたアルトだったが、その余韻も冷めやらない内にぐいっと握った手を引き寄せられる。
「——さぁ、わたしの秘密を共有してもらいますよ。もちろんわたしたち以外には口外禁止ですし、今更逃げることも出来ませんからね」
「お、お手柔らかに……」
可愛く凄んで見せるという器用さを見せるソフィアに、アルトはそう返す他なかったのだった。
***
——この出来事から五年後にかけて、王国に未曽有の災害が降り注ぎ続ける。
国が一つ滅んでもおかしくない出来事の数々を解決に導いたのは、いつも同じ二人の男女だったという。
【短編】千度目の君に伝えたい 葦原 聖 @sho_ashihara
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