拝啓、雨上がりの空と共に
@Nanaknniku
第一章 雨上がりに捧ぐ手紙
この日、柳原奏太は手紙を出しに来た。
もうこの世にはいない人間にだ。
この世にはいない、つまりは亡くなっている──といっても十年ほど前の出来事である。
当時、奏太と付き合っていた麻衣という少女がそうだ。
出会った当初は、まるで世界のありとあらゆる人間を拒絶し、自分の殻に閉じこもることしか出来なかった。
だが麻衣は、まるで陽だまりの様な暖かな視界を広げてくれた。奏太にとっては大切な存在だったのだ。
屈託のない笑顔も、ハーフではないのに日の下では一際輝く茶髪も、感情の分かりやすい瞳も声も、その全てが心を刺激し、時に気持ちを高ぶらせ、そして愛していた。家族からも、友達からも、近所の人からでさえも、彼女を取り巻くすべてを愛し、愛させる魅力を放った。
だが、死んだ。太陽は雲に覆い隠され、二度と光を地上には届けない。
もう十年も経った。高校を卒業し、大学を卒業し、スキルを磨き、今は晴れて夢だった臨床心理士となって学校での児童のケアをしている。
不登校で悩んでいる児童もいるし、引きこもりの姉を持って悩んでいる児童もいる。
そもそもこの仕事を選んだのは、三回目の靭帯損傷でスポーツの道が閉ざされ、しまいには最愛の少女を失った絶望を乗り越えたからだった。
人の気持ちがわかる人間になりたかった。というより、そういう希望を維持でも見つけなければ、少なくとも生きる希望を見つけられた。部屋に閉じこもり、忽然と涙を流す無為な時間は避けられた。
そうして、お互いの利益を求めるだけの男女関係以外に、真剣に女性と付き合う機会には恵まれないが、事実は受けいれられるようになった。だが、折り合いなど到底付けられなかった。だから、ここにきている。
ここはただの田舎の平凡な寺だ。
この敷地内にある青いポストは、死んだ人間に手紙を届けてくれるらしい。
といってもこの寺の管理者がポストに溜まった手紙を年に数回、焚き上げという形で天に送るのだ。それが死んだ人間に真に気持ちが届くのかは分からない。
だが、奏太は書く。気持ちを整理するために、年に数回は足を運んでいる。簡単な近況報告と、たまに書いている最中に感情が高ぶると、愛していると付け加える。紙に書いて気持ちを整理するのは、心理的にも良いことだから。そんな免罪符を盾にして、彼女を、麻衣を忘れたくはないために、一生懸命、ここに来てしまう。
この寺も含めて、ここの近辺は麻衣が生まれ育った場所であるがために、そんな特別な場所の空気を吸いたくて来るのかもしれない。あるいは、執着を拭い切れないのかもしれない。
別に忘れられなくても構わない。忘れられるべき存在ではないとも思うし、新たに真剣な恋愛が可能とも思わない。
幼い小学生の頃、病院で出会い過ごした時間、学校が違うせいか家も遠く会えないながらも、中間地点にある公園や河川敷で遊んだ時間。中学三年生で付き合い、高校に進学して男女の仲が深まり、より積もる思い出の時間。それらの思い出を超える女性など、この世にいない。
だからいい。思い出を愛せるならそれでいい。
靭帯損傷で入院し、市内の総合病院に入院すると決まった瞬間から、この結末は定まっていた。それほど数奇な出会いでもある。
そう、あそこから始まった。
蒼太は思い出を回想しながら、出会った頃の記憶を便箋に書き綴り始めた。
清涼な空気を室内に循環させるため、看護師が窓を開けた。
そのガラス越しに梓の樹木に留まった知らない鳥の鳴き声が響く。無駄に甲高いそれと共に、涼風が退屈な病室の窓辺に吹き込み、ほのかに消毒剤の臭いを和らげる。
そこそこ栄えた市にある総合病院。入院棟の三階。
煩わしい日差しが差し込む窓際に配置された医療用ベットの上で、奏太は退屈さを押し殺して黙々と英和辞典の活字を暗唱する作業に没頭する。紙の端の方まで活字を追うと、視界には手首が映る。それには青紫色の静脈が目立つ。
そうして勉強しているうちに、軽快な足音が近づいていることに気付く。その足音が誰のものなのか、奏太には容易く想像できた。
定期的な回診の時間だ。朝の九時半ぴったりの。
新人の看護師、増村はその結った茶髪を左右に揺らして笑顔で言う。
「おはよう、奏太君。今日はいくらか顔色がいいね、良かった。じゃあ検温と、脈を測るから左腕を出して。そうだ、今朝の身体検査で月一回の血液検査もしたと思うんだけどさ、あれから気分が悪くなったりしない?多めに採ったからまだクラクラするかもね。体調悪くなったりしたら、私じゃなくてもいいから、いつでも報告してね」
今日の担当看護師でもある増村は元気溌剌とした二十代ぐらいの若い看護師だ。
新人というだけあって典型的に頑張り屋で常に笑みを絶やさず、患者の寄り添おうとする姿勢を崩さない。看護師としては理想的で、世界的に有名な医療従事者であるナイチンゲールを尊敬している。患者だけでなく、プライベートでも好かれていそうな八方美人。実際、顔が良く愛想も悪くない彼女の評判はこの大部屋でも人気が高い。
奏太個人は別に好きでも嫌いでもなかった。そういう土台で良し悪しを測るべき職種ではないし、彼女はいつも通り業務をこなすだけの、病院という医療機関でしか関わることのない赤の他人なのだから。
だから当然こちらも必要以上に従順にならず、反抗的にもならず、指示通りの動作のみ行う。左手を前に突き出し、脈診中に相槌を打つだけの世間話を挟む。彼女がわざとらしく感心した様子で「本当に顔色が良いね、血色も悪くないし」と言う。黒人と白人ほど明確でもないのに、人間の肌色の差分なんて本当に分かっているのだろうか。気を使って昨日と今日は少なくとも微小な変化があることを、取り繕った表情と嘆声で主張しているだけではないだろうか。
しかし、ここは体調を慮ってくれる相手に対して素直に礼を言うべきなので、奏太は言う。
「ありがとうございます」
増村は用紙に数値を記入し、「よし、平熱だ。心拍数はちょっと早いけど、大丈夫そうだね」と蒼太に笑いかける。曖昧な微笑みで返した。
増村が去ると、病室は途端に静寂に包まれる。朝の九時半を過ぎたばかりだというのに、大部屋の大半の人間が寝ていた。それが物足りなく感じて、意味もなく曇ったガラスの表面を指で撫でる。なめらかな音と共に、体温を刺激するひんやりとした感触が悪寒のような身震いを誘発する。
手ぶらな両手が気持ち悪く、床頭台の上に放置されている車の玩具を思い切り走らせる。すると、タイヤの部品が壊れて使えなくなった。映画を見るついでに寄ったゲームセンターで手に入れた景品だから無理もない。
だが、元々腹の底で消化し切れていない怒りと今しがた起こった気に入らない小さな悲劇で、奏太の内では沸々と衝動が渦巻く。
一度募り始めた苛立ちは中々しぶとく消えない。だから、全てを吐き出すしかない。
床頭台から、漢字の書き取り専用のノートを取り出す。筆箱からも2Bの鉛筆を選び、裏側から最初のページにこう書き殴った。
『サッカーが出来ないなんて、死にたい』
疾患名は左膝の前十字靭帯断裂というらしい。
大腿骨と脛骨を交差するように繋ぐ靭帯が、スポーツでの着地や急な方向転換などの衝撃が加わることによって切れてしまった状態。靭帯からの出血が関節の痛みを引き起こし、損傷直後は激しい痛みを伴う。
試合後、母親に連れられて近くの小さな整形外科でレントゲンを撮ってもらった。骨は折れていないが明らかに痛がり方が異常なので、神経や靭帯の問題があるのではないかとのことだった。
ここよりも大きな大学病院への紹介状を書いてもらい、MRⅠを撮った結果がそれだ。
再建手術を行い、術後二日目が現在。昨日尿道カテーテルという管を抜いたばかりなので、尻が少し痛い。
奏太は猫背のまま欠伸をする。
退屈は日差しが差し込む頃から顕著に現れる。
朝起きて顔を洗い、歯磨きをし、七時頃に朝食が運ばれてくる。それを二十分ほどで食べ終えると、途端に暇になる。
特に検査も往診もない日は車椅子や松葉杖を使って病院内の図書館や学習室へ赴くとか、売店でお菓子を買うとかはできる。その動作に使う筋肉や関節や脳や骨の負担を考えると、尻の痛みも相まってやる気がみるみると萎む。
だから普段通り昼寝をしようと奏太は布団を被る。
布団の隙間から差し込む日光を頼りに指のささくれを剥いていると、病室の扉が開く音がする。そして、ベッドに重いものを置く音。続いて足音が近づき、すぐ近くで女性の声がした。
「失礼するよ」
病室を簡素に仕切るカーテンが遠慮もなく豪快に開かれる。
看護師が来たのだろうと思い、奏太は首の後ろを擦りながら上体を起こした。が、次の一言でそれは間違いだったと気付く。
「寝ているところ、ごめんね。新しくこの病室に移ったから、ご近所巡りしようと思って」
見知らぬ女性はやけに愛想よくそう挨拶をした。女性の手の甲に浮き出る骨と血管を見て、脳が無意識に年齢を推測する。おそらく三十代半ばほどだろう。年齢を考慮しても肌はそこそこ若い。水分量が多そうな肌は張りと艶があり、蛍光灯に照らされて妙に白く輝いていた。腰まで伸ばした茶髪はコテか何かで巻かれて緩やかに波打っている。瞼に塗られたオレンジ系のアイシャドウが、その女性には変に浮くこともなく良く似合っている。
彼女とは初対面。奏太は、病院に長く居たせいか不貞腐れた子供と烙印を押されないよう、丁寧に背筋を伸ばし、挨拶を交わす。
「僕は柳原奏太です。本来ならもっと同じ年頃の患者がいる大部屋があるんですけど、床数が足りないとかでここに」
「ああ、そうなの。どうして男の子がこんな女部屋にいるのか疑問だったんだけど、納得した。私は南翔子。蒼太君は何年生かな」
「小四です」
「そう。うちの娘と同い年なのね。見舞いに来たら仲良くしてあげて」
奏太は耳を疑う。
この女性はなんて能天気なことを言うのだろう。どうして大人は子供が同じ空間に居れば勝手に仲良くなるのだろうと思っているのだろうか。
奏太はうんざりしたが、表面上は口角を上げておく。
実際、同室の患者だからといって、なにか特別な関係が気付かれるわけではない。ドラマにあるような友情は築かれず、精々今日の食事は量が多かったとか、天気の話とか、色んな検査が憂鬱だとかの世間話に留まる。そんな余計な不純物のない淡白な関係でいいと思っている。
翔子は子供に向けるような安っぽい笑顔で手を振る。
「じゃあね、他のご近所さんに挨拶しないと」
わざわざご近所さんと表すことに価値観の違いを感じる。
奏太にとって同室の患者とは、同じ境遇の他人に過ぎない。
よく、私たちは患者仲間なのだと、同室の胆のうという病気を患っている大学生の女性は言うのだが、そんな希薄な関係を仲間と呼ばないでほしい。
本来の仲間とはもっと高尚なものだ。共に活気を分かち合える、仲間。
今ではそんなものはとうに廃れてしまったが。
わずかに隙間ができる具合にカーテンを閉め、翔子は去る。
しばらくしてすぐ近くから距離から異性のやかましい話し声が上がる。女性同士での独特な盛り上がり方だ。病室内でおさまっている慎ましい声だからルールに反していないのも、また苛立ちの原因となる。
どうでもいいから、早く静かにしてほしい。今すぐ寝て気を紛らわしたい。というより、現実から顔を背けたい。
そんなことを考えていた。
土曜日はリハビリも兼ねて、病院の裏庭を散歩する。
ここは良い。正面玄関の反対方面に位置するこの場所は、入院棟が大きな日陰になって酷く陰鬱な雰囲気ではある。だが、三つほど木製のベンチが設置されていて、雑草も刈り取られ綺麗に除去した痕跡があったりと、それなりに手入れは施されている。梓の木の並木以外にこれといって装飾もないこの裏庭が、蒼太の肌に合った。
病室の消毒剤の臭いが混じった空気とも、中庭にある花壇の芳香が漂う空気とも違う。ひんやりして湿った空気が、束の間、海底に沈んでいるような安息をもたらしてくれる。さらに、騒がしい院内に比べると、はるかに静寂に包まれている。だから良い。
ベンチにはいつものように歩行補助器を傍らに置いた老人が座っている。蒼太は老人の近くではなく、喫煙所の横にぽつんと設置された錆びたベンチに腰を下ろそうとする。
だが、直前で奏太は足を止めた。
躊躇したのは、草陰の間から病院のコンクリートの壁に寄りかかって蹲り、小さくすすり泣いている人間──否、女児を見つけたからだ。
年は奏太と同様の九、十歳ほど。座っているので身長は判定しにくいが、おそらく同年代に比べても低い。肩まで切りそろえた珍しく明るい茶髪で、白い半袖にチェックのミニスカートといった私服だった。分からないが、恐らく入院患者ではない。
奏太は早急にこの場から立ち去ろうか迷う。すでに近い距離にまで接近してしまっているからだ。
なぜもっと前から視認できなかったのだろう。気付かれずに立ち去ることは困難だった。そして、自分が泣いているところを人に見られた少女の気持ちを考慮すると無視するのも躊躇う。
奏太が逡巡している間に、少女は顔を上げた。
黒目がちな瞳が小動物を再起させる幼い顔立ちをしていた。
少女は奏太に気が付くと口を開けて、はにかんだ。小さく言う。
「見られちゃった」
奏太は曖昧な顔で笑みを返す。
話を切り出すべきか、黙って立ち去るべきか。またもや考えこんでいれば、少女は立ち上がりながら先に口を開き、質問をする。
「君は、ここに入院している人?」
嘘をつく必要もないので、素直に言葉を返す。
「そうだよ。見ての通り」
「私はお母さんのお見舞いに来たの。でも、駄目だった」と少女。
「駄目って?」
奏太は聞きながら、正面だと居心地が悪いので、少女の隣に腰を下ろす。勘ではあるが、これは長くなりそうだとなんとなくの雰囲気を察していた。
「お見舞いは今の状態だと難しいって。術後三日間は絶対安静にしないといけないから。本当は、知ってたんだけどね。おばあちゃんから伝えられてたはずなのに、もしかしたらひょっこり顔を合わせて笑ってくれないかなって夢見てたんだ。看護師さんに迷惑掛けちゃった」
「そっか」と奏太。
夢を見ることは奏太にもあった。少女のように結果が分かり切った馬鹿なことはしないが。ベットの上で、ピッチ上を走る自分を想像する。看護師の目が届かない時、靭帯が断裂した脚を動かしてみたりする。
だが、結果は落胆のみだ。だから最近は治療に専念している。夢を見るのは睡眠の時だけで十分だ。
少女には同情する。少女の環境を考えれば、その行動は理解できたから。何日も母親と会えない感覚は辛いだろう。
それはもちろん、善良な母親の場合だが。
奏太は母親がそんな状態になっても見舞いに来ることはないと思っていた。
教育熱心で、サッカーに熱中したせいで成績が下がり始めた小学三年生の頃から進学塾に通わせ、入院中の安静時も、息子の落ち込み様には気づかないふりをしてしつこく勉強を強要する母親。そして子供なりに反抗すると癇癪を起し、サッカー関連の私物を全てゴミ袋に詰めようとする人間。嫌な人間だった。
「君は、脚が悪いの?」
脚を支える松葉杖を見ながら、少女は会話を求める。達成するべき目的を達成できなかったのと、寂しさを適当な人間で紛らわしたいのだろうと思い、しばらくは付き合うつもりで応じる。
「そうだよ。靭帯断裂ていう」
「ジンタイ?」
少女が幼く首を傾げる。ちょっとかわいい。やはり小動物みたいだと思う。例えるならリスだ。
「脚、正確には関節を制御する靭帯って組織が悪いんだ」
「悪いって、どんな風に?」
「切れてる」
両眉を上げた少女は、包帯で固定されて地に付いていない右脚を二度見する。
「切れてるの?それって、大丈夫なの?」
「手術をしたから、一応は平気だよ。ただ、運動をするには少し時間がかかるらしい」
「そっか。大変なんだね。でも、なんともないなら良かった」
少女は何の悪気もなく柔らかい顔と声で言う。それ優しさではあると思う。
しかし、表面上にはそれを出さないが、それが無性に苛立つ。
なんともないと言えるだろうか。この状態が。限りなく不自由でこの上なく我慢の多い、この脚は。そんなわけないだろう。
「……あの、もしかして、無神経なこと言っちゃった?」
少女は上げていた眉を下げて申し訳なさそうに謝る。叱られた子供のようだ。
気を使って、奏太の気持ちを考慮したのだろう。それは少し申し訳なくなる。
ここで頷くとさらに少女に罪悪感を植え付ける可能性があるので、奏太は本音を取り繕う。
「いや、別に。……ただ、そうだね。悔しいっていうか」
「悔しい?どうして?」と興味津々な少女。
わざわざ悔しいなんて付け加えなければよかったかもしれない。子供だろうが、断固として触れられたくない部分がある。
それでも、この子になら話してもいいと楽観的にも考えている自分もいる。
普段ならば鬱陶しいと、心の内で一蹴にしていたはず。だがなぜか、そんな気持ちは消えている。初対面の彼女は今の奏太にとって、気心を知れたどんな相手よりも言葉の出入りが円滑になっている気がする。その理由が知りたくて、奏太は考えていた。
唯一、今の最低な状態を知らない、何もかもが無知な相手だからだろうか。気を使う必要がない相手、とでも言えばいい。
少々悩んだ末、至って普通に話すべき話題ではないのに、話してしまった。
「言ったよね、運動できないって。僕はサッカーをやってるんだ。五年生チームのキャプテン。幼稚園の頃から目標だった。背が低いし、無理かなって思っていたんだけどね。立候補した他の仲間は僕より体格いいし、上手いし。でも、監督は言ってくれた。上に立つ素質があるって。誰も立候補しなかったら、お前に頼むつもりだったって。すごく嬉しくて。人一倍練習頑張ったつもりだった」
「そうなんだ……。運動の禁止って、期間はどのぐらいなの?」
「半年から八か月後ぐらい。半月板ていうのも負傷していたらもっとだろうけど。もう、その頃には一年が終わっちゃうんだ。せっかくなれたのに、ろくにキャプテン出来ず終い。まぁ、五年のキャプテンなんて六年や監督のいない時に軽く号令を掛けるくらいで、責任重大ってほどでもなかったけど」
「次の年は?キャプテンになれないの?」と少女は希望を見出すように聞く。
「どうだろう、分からない。副キャプテンなら望みはあるけど、僕が続行してキャプテンを任せられる器とも思えない」
「……そっか。凄いね。そんな大役、私にはできない」
少女はしみじみと尊敬の眼差しを向けた。そんな大層な感情を受け取れるほど今の奏太に余裕はないので、弁明して逃げ道を作ることしかできなかった。
「大したことじゃない。僕の掛け声で皆が気合を入れながらピッチに向かうのがすごい好きなんだ。そういうのも含めてキャプテンの役に拘ってた」
奏太にとって、あの瞬間は本気で好きだった。円陣を組んで、活を入れるために掛け声を発する。それに呼応して、チームの全員が一体化したような、真剣な顔付きになる。あの野心的な目も好きだ。あそこが鋭くなればなるほど、点が取れる予感がする。
少女が時折、質問を挟みながら熱心に話に耳を傾けるから、つい饒舌になりすぎてしまった。友達にさえ話さなかった本音まで、ほぼ初対面の子に話すとは。奏太は自分に驚いていた。
この少女には話すというより、話を聞く素質がある気がする。人に温かく寄り添う、そんな優しさを秘めている。そういうのは好意的に思うし、皆からも思われているんだろう。
奏太はここで、少女の名前を訪ねていなかったことを思い返した。
「そういえば、君、名前は?」
少女は微笑みながら答えた。
「南、麻衣。だよ」
「……南?」
同室の、茶髪の女性の患者を思い出す。南という名字自体は珍しくはない。まさかとは思い、尋ねる。
「君のお母さんの名前、翔子だったりしない?」
楓は驚いて、その黒目がちな瞳を見開く。
「どうして分かったの?」
「同室に南翔子っていう患者が来て、それで」
少女はその大きな瞳を見開いて、次に細めた。
「お母さん、元気そうだった?」
「うん。若々しくて、病気って感じはあんまりしなかったかな」
「……良かったぁ」
酷く安心して麻衣は呟く。その顔を見て、蒼太は不思議な感覚を覚える。出会って間もないが、楓は明るい性格だと思う一方で、どこかガラス細工のように脆く、弱く、壊れてしまいそうな貧弱さをその瞳に秘めている。不思議な子、ではあった。
ここで、奏太は疑問に思っていたことを尋ねる。
「ところで、お母さんの病名は?」
麻衣はあっさりと言う。
「大腸がん」
奏太は耳を疑った。聞きなれていながら、実際に想像することができない言葉。
「……がんだって?」
「そう。しかもけっこう進行してるの」
「嘘だろう」
「本当だよ。腫瘍が去年の五月に再発して、もう何回目かの入院。こっちの病院の方が組織的に連携のとれた良い病院だから移ったの。もう、何日も家に帰ってない」
麻衣が最初に泣いていたことを思い出して、奏太は途端に心配になった。
「大丈夫?君も、お母さんも」
「平気。母子家庭だからお父さんはいないけど、おばあちゃんが面倒見てくれてるから。以前も検査入院とか短い期間の入院は、実家に預けられてたし」
強い光には強い影があるものなのか。奏太はそう感慨深く思った。
「色々と大変なんだね、君も」
「そう?」
「母親がそれって。しかも、そんな深刻な」
「いつか死んじゃうかもしれないって?」
奏太は焦り、急いで首を振る。本当にそんなことは思っていなかった。
「いや、別に」
「冗談だよ。確かにね、怖かった。お母さんが何時間も手術した日、終わった後呼び出されて、ベットで笑いながら、腹膜播種が何か所もあるから、ステージ四らしいよって。余命は二年半くらいかなって。凄く普通の言い方だったから、それが怖くてその時も泣いちゃった。今はね、むしろ、お母さんが家に帰って来ることの方が怖いんだ」
「どうして?」
「治療をやめて、自宅療養で最期まで看取るかもしれないから」
看取る。母親を。何なんだ、それは。分からない。
蒼太は、つい先ほど漫画やゲームといった娯楽や着替え、日用品を持ってきた母親の顔を思い浮かべた。
誕生日に新しいスパイクを買ってくれた。入院が決まった時、毎晩電話すると言ってくれた。キャプテンがつらい時、頑張らなくていいよ、やめたってかまわないといってくれた。そんな母親が、死ぬ。
「強いね」と奏太はぽつりと呟いた。
「急に、どうしたの」
「僕だったら耐えられないなって」
麻衣は瞳を揺らし、少し感情の色を変えて口を開く。
「……私だって耐えられないよ。お母さんね、普段は飄々としてるけど、一度だけ、本音っていうのかな。ぽつりって、そんな感じで漏らしたことがあって。抗がん剤治療も辛いし、検査費や手術費、入院費は窓口で減額されてもそこそこ払わなきゃで、生きてるだけで迷惑掛けっぱなしだねって。──日本に安楽死制度があったらいいのになあって言ってた」
「子供の前で言えちゃうんだ」
「言えちゃうんだよ、案外」
変な出会いから一通りお互いの状況を告白し、秘密を共有したことで、奏太は変な仲間意識を覚える。記憶の仲間とはベクトルが違う、より強い意識で結ばれている。
そんな得体のしれない錯覚に奏太が眉をひそめていると、弾んだ笑顔で楓が尋ねる。
「ねぇ、君の名前は?」
「……柳原奏太」
「奏太君と話すの楽しい。ねえ、暇だったら、もっと私とお話しして?」
可愛らしい上目遣いで懇願され、素直に了承しようとしたところを奏太は寸前で踏み止まる。
外ではないと不便だから装着していた腕時計を確認すると、定期的な脚のリハビリの時間まで、ほんの数十分だった。戻る時間を考慮すれば今話を続けるのは危ない。
でもそんなことより、目の前の麻衣の要望に応えてあげる方が先決な気がした。麻衣は頼められれば断れない、そうしてあげるべきという感情を不思議と掻き立てられる新しい種類の人間だった。魔性とは少し違う、その人の素質と言うべきか。
もし遅れてしまった場合、戻るときに転んで少し手間取ったとか、適当なことを言えばいい。
奏太はそう考え、楓に頷いた。
喫煙所近くの自販機でホットココアを買う。
奏太はもう松葉杖を必要とせず、自立歩行が可能となっていた。
その日は平日で、もしかしたら学校にいるかと思い、期待は薄かった。三時のおやつにゼリーを食べた後、少し昼寝をして、例の裏庭方面へ向かう。すると、見慣れた姿の子供がいた。
今日の麻衣はカチューシャを付け、ベルト式のワンピースを着ていた。奏太に気が付くと、少しはにかんだ。
「当たりだ」
何が当たりなのかは聞かず、奏太は黙って隣に腰を下ろした。
「学校は?」と開口一番に訊ね、
「水曜日だから、五時間目までなの。だから、早く来れちゃった」と楓が答える。
そういえばそうだったなと思い返す。久しく病院内で過ごしているので、規範的で当たり前だった知識が抜け落ちていた。
「わざわざ、待ってたの」
「うん。暇だったから。家に帰っても、お祖母ちゃんは農作業で家を空けてるし、近くに住んでる友達も、近々ある祭りで披露する太鼓の練習で忙しいし。つまらないの」
「僕との会話も、大して面白くないと思うけど。ずっと病院に押し込まれているわけだし」
「そんなことない。昨日、奏太君と喋っていて、久しぶりにたくさん笑ったもん」
そうして、やはり屈託のない笑顔で笑う。その笑顔は作っているような不自然さも、社交辞令的な含みもないように思えた。それで本心に悪意があるなら麻衣は相当卓越しているが、彼女にそんな高等な技術があるようにも思えなかった。
今日が、奏太が念願の退院を果たす前日の日だ。
麻衣は寂しそうに笑う。
「帰っちゃうんだね、奏太。ううん、退院できるぐらい脚が回復したのは喜ばしいことなんだけど、ちょっと寂しい。私、この時間はまた一人になっちゃうな」
靭帯損傷の再建術後、およそ二週間。
脚の状態はかなり回復し、リハビリも順調だ。手術前に決めた退院日通りに、蒼太はこの病院から去る。
完全復帰とまではいかないが、徐々に日常にも戻る予兆を感じ始めている。
明日は朝九時に母親が車で迎えに来て、入院時に使った日用品などの荷物を全てまとめる。引っ越し作業のようなものだ。
平日だから楓に別れを言う暇もなく、家に戻る。
翔子はまだ長らく病院にいるらしい。
大腸がんというのは中々退院できないのだと、前に楓が零していた。翔子は蒼太より前に病院にいるというのに、退院できないのはそういうことだろう。
抗がん剤治療という名前は知っているし、がんという単語が入っているだけで病気として強者のような印象がある。そして、それに対抗する薬。当然、強い敵には強い力と忍耐力が必要なのだから、長期間、病気と闘っているのだろう。
想像するだけで、治ったはずの靭帯がまた切れてしまうのではと錯覚する。一足先に戦場から舞い戻るような、罪悪感を伴う痛みが胸で疼いている。
麻衣は知ってか知らずか、突拍子もなく無邪気な声で言う。
「退院しても、また話そうね。いつか」
「そうだね。ちゃんと電話するよ」
奏太がそう宣言したことで安心したのか、楓は重い腰を持ち上げる。ゴミ箱がないので、空の缶をバックの側面に備え付けられた小さなポケットに入れる。病院に行くだけなのに、何をそんなに詰め込む必要があるのかという具合にはち切れそうな肩掛けバックを持ち直し、麻衣は手を振る。
「またね」
「うん、また」
さようなら、とは言わない。そういえば、これまでもそうだったと思う。自然と次があることが確約されているような言葉を投げかけていた。奏太は無意識だったが、麻衣は意図的なのか自然体によるものだったのか分からない。でも麻衣の積極的な性格なら、十分に意図的だった可能性はありうる。
腕時計を見る。いつものように五時前を差している。麻衣と話し込んでいれば一時間は余裕で過ぎた。今日は少し早いくらいだ。
夕食後にナースステーションで受話器を借りて、早速電話しよう。どうせ暇だし、病院で外の人間と話すということをしたくなった。
その方が、多分良い時間になるだろうから。
一風変わった蹴り方に挑戦したくて、つま先でボールを打ち上げたのが間違いだった。ボールが宙に浮いた後右脚で受け止めるつもりが見当違いな方向へ飛んでいってしまい、地表に着地する。
四回目のリフティングの合計回数は二十一回。怪我をする前と比べて減っているのが明確に分かる。以前は五十回など余裕で超えていた。
それでも術後から長期間経過した脚の状態は大分良くなった。これも一歩前進だと思い込ませる。
スカートを砂や土で汚しながら地べたに座って、オオイヌノフグリなどの草花を弄っていた麻衣は、飛んできたボールを拾って投げる。それは蒼太の足元でバウンドしたので、一歩前に出てキャッチする。
麻衣は力加減の操作が苦手だからと理由をつけて、奏太の自主練をいつもみているだけだ。代わりに花や虫を観察しながら遊んでいる。
時々、奏太の巧みなコントロールを羨望するように見つめ、堪らなくなって一度挑戦するが、ことごとく失敗して拗ねる。
一緒にいるのに別のことをしているのは、奏太にとってなんだか不思議な気がした。それでも、交流は続ける。頻度が少なくても、優先度が低くても、互いが暇だったら会う。そんな関係値だ。例えとしては、いとこの距離感に近い。必須ではないが、いた方が楽しい。そんな感じだった。
少し前から遊び場としている、奏太の自宅に近いこの河川敷は、人気が多く、近くに大型の総合グラウンドもあって特に喧騒が大きい。程近い距離で散歩する柴犬の鳴き声が聞こえたり、浅瀬の方で低学年くらいの子供が笑いながら川遊びをしている騒がしい声が耳に響く場所だ。
虫食いや変色のしていない綺麗な白詰草を集めながら、麻衣は呟く。
「なんだか不思議な感じ」
奏太は五回目のリフティングに挑戦しながら言う。
「何が?」
「ここの河川敷は沢山の人で賑わってるんだもん。私の家の近くにも河川敷はあるけど、釣り人のおじさんがたまにいるくらいで、すごく寂しいの。少し下流に行っただけで、こんなに賑わうんだね」
「近くに娯楽施設も充実しているから。そもそも住む人の数が違うと思うよ」
実際、麻衣の住む山の方の集落と比べても、この辺りはそこそこ充実している。食料品店もコンビニも多いし、居酒屋やショッピングセンターもある。個人経営の内科や歯科、耳鼻科も沢山あるから医療にも困らないし、子供が遊べるような公園もある。住みやすい町だとは思う。
「同じ町でも、見える景色はこんなに違うんだなって。この町の外にはもっと色んなものがあるのかな」
と麻衣はしみじみ呟く。
「さあね。隣町の方が明らかに栄えているとは思うけど」
何しろ立派な総合病院があり、大型ショッピングモールもあり、小規模だが人で賑わう歓楽街がある。駅に近いので交通便も申し分ない。田舎寄りの都会だ。
と、ここで麻衣はさらりと言う。
「羨ましいな。こんな町、なくなっちゃえばいいのに」
奏太は十八回目でボールを落とす。今日の、いや、ここ数年の最低記録。
奏太は麻衣に視線を向ける。麻衣は作ったばかりの白詰草の花冠を見つめている。それに黒いてんとう虫が止まっていた。
奏太は足元に転がり落ちたボールを拾いながら言う。
「大人になったらどこにでも町から出ればいいじゃないか。地元に留まる理由なんてないのに」
「うん。でも、少し怖くて。山の向こうには、臨海合宿以外では行ったことがないし。それに、この町にすごく安心感を覚えているの。町から出ることがすごくいけないことのような気がして」
そう言いながら俯く。町に囚われるその感覚が分からなくて奏太は首を傾げる。
山の向こうにはまた当然のように別の町があるし、さらにそこを超えれば海がある。
二回ほど、愛知の海水浴場に家族と行ったことがあるから知っていた。向こうには山がないから空が広い気がする。そして、海辺の町も潮風が吹き込み、地平線から顔を覗かせる美しい日が昇る。海は漁船で賑わい、その近くでは漁業を営む者が朝から魚を捌いていたりする。
この町と少し変わった住人の生活が見られるだけだ。期待するようなものは町の外にはないと思う。
麻衣は外の世界に憧れを抱きすぎていると思う。町を出た瞬間から人格も見た目も変わり、夢見ていた生活を送れると信じている気がする。町の外は珍しいものに溢れていて、毎日が輝かしい。そんな世界があるのだと。それが窮屈な町で生きてきた麻衣の本質なのだろう。
その認識は早いうちに正すべきだ。奏太はそう考え込み、そして言った。
「それなら、僕が連れて行ってあげようか」
「え?」
麻衣は黒目を驚きで小さくしながら声を上げた。奏太は頷く。
「町の外だよ。どこでも好きな所。そうだね、電車に乗れば市内でもそこそこ楽しい場所には行けるかな。駅から近いところだとショッピングモールがあるし、確か近くに国立公園もあったはず。どこに行きたい?」
麻衣はまだ驚きで固まっている。室内で飼われていた鳥が突然に籠から出され、突然に解放されたような、そんな急展開を目の当たりにした反応だ。相当大事に育てられたんだろう。
「どこって……。そんな急に言われても」
目を泳がせて麻衣は小さく答えた。奏太は少し考えて口を開く。
「じゃあ適当に歩こう。歩いているだけで楽しいと思う。電車賃は数百円あれば十分だし、何か買うならその分お金を持ってくればいい。いつ行こうか」
「一緒に行ってくれるの?」
「麻衣がいいなら」
町の外を知らない麻衣に、色んなものを見せる。とても良い日になりそうだ。今月は部活での大会の日に向けての練習でチームは忙しい上に、自分は怪我で練習に参加できないので暇だった。だから麻衣と遊ぶ。丁度いいと思った。
そして、麻衣が目新しいものに目を輝かせて笑う。その顔を見るのも悪くないと思った。恐らくこっちが本心だった。
麻衣は口角を上げてにんまりと笑っている。立ち上がって奏太に近づくと、手にしていた白詰草の花冠を頭に被せる。虫も土も付いたままなのに、わずらわしいと振り払うことすら忘れる。
「似合ってるよ」と麻衣が悪戯っぽく言う。
頭の感触に違和感があってすぐに外そうとするが、止める。代わりに麻衣に呆れた笑みを返す。白詰草には花らしい香りがせず、青々しい草の匂いがする。
屈頭から白詰草の花冠を外し、屈託のない笑顔で笑う麻衣に、それを被せた。
入院病棟へと向かう。いつも運動になるからと他所では極力階段を使うのだが、この時ばかりはエレベーターに頼る。
奏太は目的の一室へと向かう。
この病院の北病棟に足を運ぶ機会も多い。今日唯一異なる点は、楓麻衣が不在だということ。
麻衣の母親、翔子の見舞いには、付き合いを始めて数回足を運んでいた。それ以前にも、麻衣の祖母の自宅──実家の方には長期休みなどに訪れたことがある。
当時はまだ友達に過ぎなかった。受験生となり、電話で告白して付き合い始めてからは、母親とも交流が多くなった。
元々、翔子のことは今では素直に人の好い人と感じるので、特に恥じらいも少なかった。
だが、最近の翔子は寝たきりだからと麻衣に遠慮されていたのだ。時々、麻衣の言伝に近況報告を受けるのみで、十月の頭ごろからめっきり顔も合わせていなかった。
翔子から携帯に通話が掛かってきたのが昨夜の七時。勉強していたため、電源を切っていて気付かなかった。慌てて折り返しの電話を掛けた。すると、翔子はこう言った。
「明日以降、いつでもいいから病院に来てほしいんだ。麻衣は連れて来ないで」
久しく耳にした翔子の声は酷く掠れていた。一度目では聞き取れず、二度目でようやく理解できた。麻衣はこのことを言っていなかった。その変貌ぶりに、すでに一抹の不安が奏太の頭を過ぎっていた。
翌日は日曜日だったので、直ぐに電車で病院を訪れた。すでに買い物に行く約束をしていた麻衣には悪かったが、虚偽の体調不良を口にすればすんなり引き下がった。
翔子の部屋は昔から個室だ。名札を確認し、ノックをして扉を開ける。
「失礼します、翔子さん。僕です、奏太です」
翔子は寝ていた。
いや、横たわってはいるのだが、目は開いていて、どこか宙を虚ろに見つめていた。奏太に気が付くと、やんわりと微笑んで上体を起こそうとしたので、慌てて制した。
「いいです、そのままで」
そしてリュックからあるものを取り出す。
「造花ですけど、これ差し上げます」
雑貨屋で買ったポピーの造花を見せた。
翔子はまたも目を細めて、まじまじと編み籠に咲く造花に手を伸ばした。花びらを指先で撫でながら、小さく口を開いた。
「ポピーは私の好きな花だ。花はね、彩度が高いから、病室が華やかになってとても嬉しい。ありがとう。せっかくの日曜日なのに、呼びつけちゃってごめんなさいね」
「いえ。電話の時より声が元気そうで、安心しました」
「そう。昨日はとても酷かったの。看護師さんとは、ほとんど筆談でやり取りして。麻衣はどう?元気かな」
「ええ」
奏太は小さな自信を持って頷いた。心の方はともかく、麻衣は表面上ではいつも明るくしている。
翔子は麻衣とよく似た、優しい笑顔を見せる。
「それはとても良かった。ああ、立たせたままじゃ悪いから、そこのソフアーにでも遠慮せずに座って」
促されるままにソファーに腰を預ける。
窓際にほぼ密着する配置だったので、陽光が頭部のつむじ付近を中心にじりじりと照り付ける。寒くなる季節の変わり目だというのにカーテンが全開で、窓が半開きだ。だが、風はないので寒くはない。その性格と同じく温かい雰囲気が好きなのか、タオルケットやティッシュケースといった小物も明るい色が多かった。
「寒かったら、閉めていいからね」
そう言いながら、翔子は介護ベットの背上げ機能で上体を起こす。軽く背伸びをして、奏太に笑いかけた。
そして言う。
「私、そろそろ家に帰ろうと思うんだ」
「……え」
奏太はその笑顔を真正面から凝視した。それが快方に向かったからではないことに、子供ながら薄々気付いていた。
奏太は恐る恐る口を開く。
「止めるんですか。治療を」
「うん。というか、八月の終わりごろには抗がん剤もとっくにしてなかったんだよね。緩和ケア内科に相談して、私は強く自宅での最期を希望したの。そしたら、医者も私の願いを尊重してくれて。早ければ明日から、家に帰ろうと思う」
「麻衣は、その話を?」
「ううん、まだ伝えてない。伝えるつもりもないけれど」
そこまで一息に言い放って、恐らくはウィッグであろう茶髪を忙しなく撫でながら深く息を吸う。
奏太は圧倒されて沈黙した。目の前に死を覚悟した人間がいるのにどこか疎外感があって、どこか他人事のように呆けていた。
翔子が、まるで死とは無縁そうにずっと幸せそうな笑みを浮かべているからだろう。
何か喋らねばと、重い口を開く。
「どうして、その話を先に僕に?」
「うん、それは、後でゆっくり説明するから。ちょっと、そこの二番目の引き出しを開けてくれる?オレンジ色のアルバムが入っていると思うから」
言う通りに頷き、引き出しを開ける。比較的、浅型のそこに、手帳や便箋に混じって小さな両手ほどの大きさのアルバムが収まっていた。取り出して表紙を見れば、四角く切り取られた枠に笑った赤子の写真が貼り付けられている。
「中を見て」
翔子が言い、表紙をめくった。
写真だ。
白い丸テーブルにワイングラスが置かれていて、美しく生けられたバラが中央を彩り、その奥で着飾った男女が笑っている。二枚目には面白おかしくポーズをとった写真も貼られていた。
奏太は翔子の方を見る。
「結婚式の、披露宴の時の写真ね。黄色い花柄のドレスを着たのが私で、隣の男が元夫」
赤いバラの花束を持ち、茶髪を高く結い上げた女性をまじまじと見つめる。その屈託のない笑顔は、やはり麻衣の面影を感じざるを得ない。
隣の男を見る。黒髪をかきあげ、紺のタキシードを着たメガネの男が僅かに口角を上げて笑っていた。こちらはあまり楓に似ていない。娘は父親に似るというが、麻衣の場合は母親似なのか。
「今までの家族写真をそこに保存してあるの。表紙の写真は楓だよ。生まれたばかりの、一か月ちょいくらいのね」
なぜこれを、と言いたい気持ちを飲み込んで、アルバムを次々と捲っていく。
結婚式での写真はもちろん、母子手帳を持つ翔子が嬉しそうに笑う写真、自宅の前で家族と並んで立つ写真、十枚目からは、その殆どのページを麻衣が占領していた。そして、楓の七五三の写真から、元夫の姿は忽然と消えた。離婚した時期がここなのだろう。
全てを見終わり、翔子に手渡す。だが、翔子は受け取ることを拒んだ。見向きもしない。
「お母さんに実家から持ってきてもらったのはいいけど、やっぱり、見たら泣いちゃうんだよね。昔を懐かしんで、苦しくなって。離婚したの、丁度今頃の時期なの。奏太君、離婚の原因は麻衣から何か聞いてる?」
奏太は首を振る。
「いえ。そもそも、彼女からは父親の話を聞いたことがありません」
「そう。まぁ、そうよね。当たり前かも」
翔子はバツの悪い顔で黙り込み、息を長く吐いて言い放った。
「……実はね、離婚したのは、元夫が麻衣に暴力を振るったからなの」
「……暴力?」
アルバムを落としそうになり、驚きで身体の力が抜ける。
翔子は大きく頷いていた。
「私が検査入院して、家で二人きりの時に。私のお母さん……麻衣の祖母が家で泣きながら蹲ってた楓を見つけて。発見して保護した時は酷い姿だったらしいんだ。全身痣だらけ、顔は打撲で腫れてるし、右手の親指なんて骨折していて。幸い、痕は残らなかったけど、当然、許容できることじゃないでしょ?すぐ警察呼んで、まあ逮捕されて。でも私も治療で忙しくて、起訴とか、裁判沙汰にはしたくなくて。不起訴処分にして、離婚の手続きだけして、接触禁止令の書類に捺印してもらったの。それっきり、もう十年くらい顔を見てないかな。もちろん見なくていいんだけどね」
穏やかな日差しの降り注ぐ病室にはあまりにも場違いな重苦しい話に、奏太は当然、絶句した。
再びアルバムの幸せ溢れる写真に目を落とす。写真に現像された元夫は、いかにも奥ゆかしそうな男だ。色白で、華奢で、真面目かつ、文学青年らしい知的な雰囲気を感じ取れる。暴力とは無縁そうなその印象に、話を信じきれない面もあった。
だが、様変わりした翔子の暗く荒んだ目を見れば分かる。この男は見かけによらず、恐ろしい残虐性を秘めていたのだと。妻であった翔子が一番想定外であったに違いない。元夫が愛娘に暴力を振るって、どれだけ怒り悲しんだか。その横顔を一目見れば一目瞭然だ。
奏太はこの写真の数々が苦い幸せの後味を含んだ禍々しいものに思えて、即座にアルバムを閉じる。表紙のまだ幼い麻衣を見つめながら、翔子に問いた。
「つまり、これからの話はその元夫に関することなんですね」
翔子は自虐的な微笑を作り頷いた。
「そう。さすが、頭が冴えてるね。家から近いって理由で適当な商業高校に通ってた私とは大違いだ」
奏太と翔子の前髪が微かに揺れる。風が出てきたらしく、窓越しに白い粒が地上に舞い降りる姿が確認できる。確か今朝のテレビの天気予報では、朝の十時から雪が降る予定だったはずだ。冷風が吹き込んできたので奏太は窓を閉めた。振り返ると同時に、翔子が言う。
「元夫が、お見舞いに来たの」
「……え」と奏太は驚く。
翔子は冷静に話を続けた。
「昨日の、二時ぐらいかな。確か、そのぐらいに大雪警報があったでしょ。風の音で目が覚めて、ふと気配を感じて横を見たの。そしたら、あの人が何食わぬ顔で病室の入り口に立っていて。すごく驚いた。追い出してもらおうとしたけど、私、その時は声が出なくて。咄嗟のことでナースコールも押せなくて、困ってたら、あの人が食い気味に開口一番、ごめんって言った」
「謝りに来たって、ことですか?」
それもおかしな話だとは思う。そもそも、接触禁止が出ている話ではなかったのだろうか。
翔子は呆れるように言った。
「かもね。でもあの人、もう律儀に頭を下げてきて。笑いそうなくらい。それで拍子抜けしちゃってね。でも許してなかったから、取り敢えず、なるべく冷静に帰るように促したの。でも、引き下がらなかった。悩んで、でも問題を起こされたら怖いじゃない?暴れられたり、危害を加えられたり。だから、話だけ聞いてあげることにしたの。我ながら甘いよね」
「話したんですか」
「そう。近況報告かな。あの人は郵便局で夜勤の仕事しているみたい。郵便物を届ける仕事って、なんだか、あの人らしいなって」
「そんな楽観的な」
仮にも娘がとんでもない危害を加えられたというのに。この時ばかりは、少し苛立った。
翔子は諭すように強く言う。
「ううん、楽観的じゃないよ。私はそのあとすぐナースコールを押して、あの人を追い出してもらった」
「なんでですか?」と奏太。
「どうしてだと思う?きっと驚くよ」と翔子。
「物語の展開を予測するんじゃないんですから」
「そうだね。真面目にしよう。あの人は、麻衣を引き取りたいんだって」
これには開いた口が塞がらないほど呆れる。
「どの口が?」
「あの口が。なんだろう、私、一瞬この人は何を言ってるんだろうって不思議に思って、言葉を理解したら、体中の血液が逆流するみたいになって、怒鳴りつけちゃって。慌てて看護師さんが駆けつけてきて、半ば強制的に退出してもらったって感じかな」
「それでよかったと思います。万が一危害を加えられたら、ひとたまりもない」
「それは大丈夫。──あの人は、絶対に私に危害を加えてこない。臆病な人だから」
「……え?」
翔子の不敵な笑みに、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。言葉を失っていると、翔子は何事もなかったように飄々としながら言う。
「まぁ、要するに、警察にも相談してあるけれど、元夫の過激な行動が目立つから、君には麻衣を少し気にかけてあげてほしい。私が家に戻れば少しは目利きが効くけれど、行動範囲も限られているし、それなら一緒にいる君に任せた方が早い。もちろん、そこまで気負わなくていいよ。最近変なことあった?とか、そんなところでいい。君も勉強や部活があるだろうし」
「そのぐらいなら、かまいませんけど、翔子さん」
奏太は改めて翔子に向き直った。
「なに?」
「本当に、家に帰るんですか」
翔子はまだ迷っている様子でゆるゆると頷く。
「もちろん。介護ベットでの侘しい生活になるだろうけど、最期くらい、家族と一緒にいたい。そりゃあ、迷ったよ。今家に帰ったら、自分が死ぬことを認めているんじゃないかって。死が近づいていることを実感して、頭がおかしくなってしまうんじゃないかって。でも、辛いんだ。治療。辛いから、止めたい。それだけだよ」
「……分かりました」
奏太は静かに頷き、携帯の時計を見てから荷物を持った。軽く一礼してから翔子の病室を後にする。
家に帰って郵便受けを覗くと、水道料金の請求書と回覧版があったので、キッチンに持っていく。食卓に置き、蒼太は二階の自室に向かう。荷物をベッドに置き、携帯にメールや着信がないかを確認する。
麻衣から、件名のないメールが届いていた。
『今日、お母さんに会ったでしょ』
奏太は少し逡巡して、こう返す。
『楓、知ったでしょ。翔子さんのこと』
いくら楽観的な麻衣とはいえ、翔子の変わり様を察知していないはずがない。そこには四年分の信頼がある。
十五分ほどして、再び麻衣からメールが届く。やはり件名はない。
『今日、お祖母ちゃんからお母さんのことについて聞いたの。本当は口留めされていたらしいけど、麻衣のためにならないからって、本当のことを話してくれた。お母さんは一週間もつか分からないって。お母さんは抗がん剤治療を止めて、自宅で看取られるために帰って来るんだって。私は嘘をつかれていたんだと思った。少し前に話したお母さんは血色もよくて、髪も綺麗で、元気そうだったから。お母さんは私を騙すためにウィッグを被って、化粧をして、自分の虚弱さを押し殺してた。実を言うと、お祖母ちゃんに言われる前から私は見抜いてた。なんとなく、お母さんは無理をしているんじゃないかって。そんなに酷い状態とまでは思いたくなかったけれど、お母さんは嘘が下手。鈍い私でも分かっちゃった。私はしばらく学校を休んで、お母さんの傍にいる。だから一週間くらいは会えないかも。奏太は、沢山お母さんのお見舞いに付き合ってくれた。試合後で疲れているのに、無理して付いてきてくれた。本当にありがとう』
文を確認し、携帯を枕の上に放る。それは跳ねて床に落ち、衝撃音が一階まで響く。
正直、麻衣にばれていて内心ほっとしていた。翔子の選択は奏太から見ても間違いであると思ったし、心の準備ができていないまま母親を看取る麻衣の姿を見るなんて、嫌だったから。
正直、どちらが正しいとか正しくないとか、奏太にだって今だによくわからないのだが。
拝啓、雨上がりの空と共に @Nanaknniku
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