ヴンダーカンマーの悪意

 ぱち。ぱちり。ぱしゃ。

 巡回中は存在感を消すよう心がけるように。

 常々そう言いつけられている。

 ぱしゃ。ぱしゃり。かしゃ。

 けれども、気になるものはどうしたって気になる。こればかりは仕方がない。むやみに両手を擦ってみたり、意味もなく足踏みしたり、そわそわと身体が動く。

 かしゃ。かしゃり。かしゃ、かしゃ、かしゃかしゃかしゃ。

 展示物保持のため、強い光を出さないように。それ以外に制限はない。幸い、彼らは常に指示に従ってくれている。

 だから彼らの行為は何も間違っていない。

 けれども。けれども、だ。

 ――おい撮るなって、いい加減にしろよ

 ――なんなのこのヒト。ほんと迷惑なんだけど

 気になるものは、どうしたって気になる。

 身としては、もちろん、どうしようもなく。

 今、一人の来館者がゆっくりと展示室を横切っていく。手にした小さな端末をあらゆるモノへ向けながら。

 私の眼球は、天賦の才を持つ職人たちの挫折と献身と自己犠牲と、自傷めいた祈りの結晶だ。胎内ではなく工房で創られた光学組織。彼らは文字通り、何人も何代も命を削ってここへ到達した。

 けれどもヒトは、その奇跡を当然のように携えてこの世に生まれてくる。

 ネイビーの愛らしい服、アイボリーの小ぶりの鞄、ペールピンクに染めた髪、厚底の靴にはゴールドの装飾。間違いなく生身の人である来館者は、端末のみを展示物へ向け続けている。

 奇跡の塊である、ふたつの目ではなく。

 ――見てないでなんとかしてよ。ちょっとひどいって、これ

 片手を上げた格好はまさに抗議といった様子だ。そっと視線を投げた先に立つ骨格標本は、収蔵記録と本人ならぬ本の証言によれば、過去には正真正銘のヒトであったらしい。

 抑えた照明はガラスのなかまでは届かず、空っぽの眼窩に淡い影が沈殿する。

 ……前も説明したけど、規則には反してない。フラッシュも切ってる。だから止める理由がないんだよ。

 ここで働くうえで言いつけられている決まりは他にもある。

 たとえば、部外者がいるところでモノと会話をしてはいけない、とか。

 ――でもねえ、これはちょっとねえ

 宝石珊瑚が不満げに言う。ねじくれた枝がいつもより尖って見えた。

 ……私だって、今すぐ貨玖先生に文句を言いたいよ。なんで館内の撮影を許可したのかって。

 回避策として発案したのが、頭のなかのライプライターだ。

 実体の喉と舌ではなく、架空の紙と文字を使う。難しいことではない。単純に、出力が音声ではなくこのタイプライターに切り替わっているだけだ。もちろん、実際に使っている機種がモデルだ。外部との唯一の連絡手段として今でも現役の、古めかしい黒い筆記機械。最近は機嫌が悪くてしょっちゅうアームが絡まる。

 イメージのなかで私は、ごく淡いブルーの紙と真っ黒なインク、そして架空の指でかたかたキーを叩く。そうして打ち出されたメッセージがモノへと届く。

 ――比呉くんは反対していたろう。撤回したのか、結局

 ……言及していたのはコピー・ライツに関するところだけだよ。むしろ、比呉先生のほうが撮影許可を出すのに積極的だったと思う。

 キータイプは速いほうだ。だからこういった、翼を畳んだフクロウの揶揄にもなめらかに返答できる。

 視覚と聴覚の混線する会話は私たちだけが共有し、ヒトには決して届かない。

 私たちがしているとも知らず、来館者はシャッターを切り続けている。

 ぴぴっ、ぱしゃ。ぴぴっ、ぱしゃ。ぴぴっ、ぱしゃぱしゃぱしゃ。

 気に入りの品を見つけたのか、液晶画面を叩いて丁寧にピントを合わせ始めた。長い爪と同じ色をしたパールブルーのカバーに意識を向ける。

 ……いらっしゃい。

 反応はなかった。構わず続ける。

 ……聴こえていたと思うけど、私にきみを止める権利はない。それに、きみがそういうモノだっていうのはわかっているよ。

 主に逆らうことを知らない、許されない、小さな道具モノ

 おそらくは、ヒトの幸福のために。

 ――本当は

 シャッター音が展示室の出口へ近づく頃、小さな返答があった。

 ――本当はあなたも撮りたかったみたいだ。綺麗なだからって

 たびたび感じていた視線は気のせいではなかったらしい。

 ……そりゃ光栄だ。でも、撮影は止めておいて正解だよ。

 ――撮られるのは嫌い?

 ……これまで好きだったことはないし、多分今後も好きにはならないと思う。

 来館者が立ち止まった。鞄の蓋を開き、そのなかへ端末を無造作に放り込もうとする。その瞬間、端末が問いかけてくる。

 ――名前、教えてほしいな。撮らないから

 ヒトよりも遥かに視力の高い私の目は、留め金に走るわずかな傷も、おもちゃみたいな小さなレンズも、はっきりと見える。

 私の目と、あの端末。どちらが綺麗に世界を映すだろう。

 ふとそんな考えが頭をよぎって、もちろん口にはしない。

 ……私は杜都とつ。ヴンダーカンマーの、自動人形オートマータだよ。またのお越しを。



 事の発端は、いつも通りに案の定、我らがヴンダーカンマーの管理者の一人である貨玖先生の大号令だった。

 館内での写真撮影を条件付きで許可する。強い光を出さないこと、三脚などの機器は使用しないこと、他の来館者の妨害をしないこと。館内に設けられた禁止区域での撮影は行わないこと。

 以前からそういう要望があったのは事実だ。だから表向きは、来館者の要望に応えた形になる。

 けれども実のところは、もう面倒くさくなったと言うのが正しい。

 他のミュージアムでは撮影を許可しているのに、なぜここでは禁止なのか。

 そのように抗議してくる来館者がこのところ後を絶たない。さらにはどの顔も見覚えがなかった。古い言い回しをすれば、一見さん、である。

 きっかけは一人の狼藉者だった。

 ヴンダーカンマーの噂を聴きつけた何者かがカメラを持ち込み、無断で館内を撮影した。そのデータは速やかにネットワーク空間に放流され、拡散し、膨大な数のモノたちが思わぬ形で衆目に晒される羽目になったというわけだ。

 同じ手口で盗撮を試みた現場を取り押さえ、事情を聞いたところダウンロードした画像や動画が端末から山ほど出てきた。興味深いことに――もう少し皮肉が上手くなりたいものだ――撮影されたのはすべて、鳥類の剥製や鉱物、極彩色で描いた植物の細密画など、モノばかりだった。鋭い牙を持つイタチの全身骨格や、かつて大学の時計塔に掲げられ風雨に負けず時を刻んでいた長針と短針は見向きもされない。

 なぜそのようなものは撮らなかったのか、と尋ねると、高級そうな香水の匂いとは裏腹に気弱げな視線を彷徨わせながら、わからないから、と狼藉者は応えた。みんな好きじゃないから、とも。

 ――あたしの美しさがわからないなんてまだまだ子供ね

 イタチの言う通り、すごすごと帰っていく後ろ姿は叱られた子供同然だった。きちんとした身なりをしているのが余計に哀れだ。いくら眺めても同情や軽蔑や腹立たしさが浮かんでこない背中というのは何より稀有で興味深い光景ではあるけれど、本人にそれを伝える機会はもうないだろう。

「それに比べてきみは大人だね」

 ――当然よ

 応える声はやっぱり少しばかり陰っていて、小さな頭を指先で撫でてやった。

 データの流出を止める手立てはないが、このまま盗撮を黙認する理由もない。何より撮影させろと騒ぐ来館者の相手が面倒くさい。

 だったら、ルールを設けたうえで撮影を許可しよう。

 それが貨玖先生の結論だった。

 一定の効果はあった、と思う。

 ルールがある以上、それを破ったらこちらもそれなりの手段を選べる。

 そういった意味では。

 直接的な暴力は振るわないように、と一切の婉曲表現なしに言われて複雑ではある。けれども先生たちの懸念が決して的外れではないのはまぎれもない事実で、だから反論できない。

 身長百六十三センチ、おそらくは痩せ型。服装は十中八九黒いパーカーと白衣。着用しているアクセサリー類は特になし。館内を歩き回るのが仕事だから足元は大抵スニーカーだ。

 唯一変わっている点と言えそうなのは真っ青な両目くらい。でもこれだって、今の時代における常識的なファッションの範疇だ。虹彩の色を染め替える程度の手術なら大した時間も料金も必要ない。

 つまり、私の外見は特に目立つものではないということだ。派手さも威圧感もない。そのために侮られた経験もそこそこある。

 けれども世の中、外見だけで決まると思ったら大間違いだ。

 今日は久しぶりにそれを証明する羽目になりそうだ。

 どすんと床に置いたコンテナを見て目を疑い、嫌な予感がして、十分もしないうちにそれが当たった。ビデオカメラを担いで大声で録画を始め、それが済むと部屋の一角を三脚で占領し、シャッター音を轟かせ、標本を素手で触り、撮影の邪魔だと他の来館者を追いやる。ひどいという言葉ではとうに追いつかない。

 口頭での注意はこの時点で七回。モノたちの怒りも頂点に達している。

「お客さま。何度もお願いしておりますが」

「なんだよ」

「他のお客さまのご迷惑となりますので」

「関係ないだろ」

 ファインダーを覗いたまま吐き捨てる。このシャッターチャンスは逃がせないとでも言うつもりらしい。大袈裟なレンズフードの先にいる美しいガラス細工はすっかり怯えていて可哀想なほどだ。比呉先生がため息交じりにこちらへ歩いてくるのを目の端で確かめ、さらに言葉を重ねる。

「ご理解いただけないのであれば、こちらとしましても」

「うるせえなあ!」

 多分、殴る気はなかったのだと思う。

 勢い良く振った腕がたまたま偶然、私の頬に当たっただけで。

 鋭い音は館内に高く響き、周囲は静寂で張り詰めた。

「杜都さん!」

 たまらず叫んだ比呉先生を片手で押し留める。

「……ではこちらとしましても、手段を選んでいられませんので」

 罪悪感と驚きで固まる足を軽く、素早く払う。男性はたちまちバランスを崩し、助けを求めるように傍らの三脚に手を伸ばす。

 ――ああっ!

 巻き込まれた三脚がカメラごとぐらりと傾く。短い悲鳴を上げた細い身体を、気を失った貴婦人よろしくすかさず抱き留める。支えを失った男性は見事一人で倒れた。みっともない姿にもう一言くれてやる。

「このような対応とさせていただきました」

「お、お前っ! け、警察に訴えるぞ!」

「残念ながらそれは無意味です、お客さま」

 背筋を伸ばし、這い蹲った男性を見下ろしながら言う。

「現存するすべての治安維持機構はここに手出しができません――そのように、創られた場所ですので」

「なっ、なん……!」

 ――本当にごめんなさい

 ――申し訳ない。こんなつもりでは

 みっともなく喚く主をよそに三脚とカメラが沈んだ声で謝罪する。いつまでも抱きかかえられているのも落ち着かないだろう。そっと床に立たせてやる。

 どちらもしっかりとした作りの高価な製品であることはすぐわかる。けれど、彼らは道具、モノだ。無作法な主の尻拭いまではできない。

 ……苦労するね、きみたちも。

「こちらからお伝えすることは以上です」

 気の毒な装置たちを軽く撫でて、愚かな主に宣告した。

「もっ、もうにっ、二度と来るかっ!」

「そうしていただけると非常にありがたいです」

 がちゃがちゃと機材をかき集めて立ち去る背中に、深々と一礼する。

「ごめんなさいね杜都さん、嫌な役押し付けちゃって……顔、大丈夫?」

 常連の女性が声をかけてくれた。先ほど邪魔だと怒鳴られていたうちの一人だ。

「へっちゃらですよ。私こそすみません、もっと早く帰ってもらうべきでした」

「とんでもないわ、あなたのせいじゃないんだもの。でもほんとに困った人ね、あんなに怒らなくたっていいのに……」

 そうしてひと通り喋ったあと、ご婦人はほっとした表情で展示室へ向かった。その後ろ姿を見送ったところで、ひた、とあたたかいものが頬に触れる。

「先生のせいでもないですよ。今回は、相手が悪かったですね」

 泣きそうな顔をしているから、そう言うしかなかった。

 比呉先生は優しすぎるといつも思う。

 多少厳しくないと、ヒトとモノの橋渡しなんてやっていられない。

 どんなに血の通った手をしていても、心は多少、クールじゃないと。

「きみは、もっと怒って良い。怒って良いんだよ」

「ええ。わかってます」

 もちろん怒っている。モノたちを怖がらせ周囲に迷惑をかけ、さらには暴力を振るっておいて、一切謝罪をしない。怒らないわけがなかった。単純に、感情をもっとも効果的に振るうタイミングが今日このときではなかっただけだ。

 それに、自分の心情より当時の状況を説明するほうがよほど楽だと思う。

 以上です、と口を噤んだ後日。十まで到達するかと覚悟したスリーカウントを経て、貨玖先生がようやく喋る。

「今年になってから、ネットワーク空間上に施設評価を目的としたコミュニティサイトが存在しています。当然ここも掲載されていますが」

 小さく吐いた息が、つまらない、と如実に語る。

「昨日確認したところ低評価の投稿がありました。アテンド接待者に暴力を振るわれて負傷し、機材を破壊されたということです。事実ですか?」

「事実です。三割程度は」

「でしょうね」

 差し出された書類には写真が印刷されている。壊れたカメラに見えなくもない。画質はひどいがあの男性が持っていた機種とまったく異なるのはわかる。他人が撮影したデータをどこかから持ってきて、自分の投稿に添えたのだろう。

「それで」

 咳払いをひとつ。疑問符のつかない尋問が始まった。

「暴力というのは」

「足払いで転倒させました」

「この投稿には右足を骨折したとありますが」

「当該の人物は徒歩で退館しました」

「暴力を振るった理由は」

「他の来館者に対する妨害、展示物への接触、展示室内の空間の占領。これらの行為に対する再三の注意を無視されたためです」

「貨玖先生。お伝えしておきたいのですが」

 比呉先生への目配せは少しばかり遅かった。

「先に暴力を振るったのは来館者です。偶然ではありましたが、杜都さんを殴打しました。……顔を」

 透明なレンズの奥で老獪な目が細まる。眼差しをまともに受け止めると獲物になった気分だ。諦めに似た苦みが胸に広がる。

「事実ですか? 杜都さん」

「事故です。十割で」

 間髪入れず応える。肝は冷え放題でも、怯んでいる場合ではない。

「比呉先生のおっしゃる通り、偶発的な事態です。過失ではありません」

 祈るように言葉を継いでも、返ってくるのはため息ばかりだった。静かに席を立ってこちらへ歩いてくる。

「当該来館者は今後、ヴンダーカンマーへの一切の接近を禁止とします」

 すれ違っていくとき、貨玖先生のまとっている空気が腕に触れた。やすやすと衣服を貫通する冷たさに思わず奥歯を噛み締める。

「コミュニティサイトの運営会社へ出向きます。今日は戻りません」

 そう言い残して部屋を出ていこうとする。

「先生」

「開示請求よりも話が早いですから」

 止める間もないほど軽く、扉が閉まる。

「……伏せておいても構わなかったと思いますが」

「これは報告するべき事柄だよ。きみに怪我がなかったとしても」

 どうしてこう、先生たちはこちらの言いたいことを聞いてくれないのだろう。

 うやむやにしたいのではない。私だって許すつもりはない。

 ただ、先生たちが動くと事が大きくなり過ぎるのが問題なのだ。

 外の世界と遮断された身であっても、ヴンダーカンマーの管理者という立場がどれだけの特権を持つのか今では嫌でも理解している。私の二人の保護者たちは誇張なしで、世の中を動かせる立場にあるのだ。

 開示請求よりも話が早いと言ったのも比喩ではない。おそらく今日の午後には例のサイトは閉鎖するし、数日もすれば運営会社すらも経営破綻とかそれらしい理由つきで解体される。

 私が――彼らの保護対象である自動人形オートマータ、もの言うモノが、傷つけられたから。理由はそれだけだ。

「わかっています。でも」

 彼らがそれぞれ私を慮ってくれているのは知っている。けれどそれがときどき、息苦しい。

 私にだって、言いたくないことも避けたいこともある。

 けれど助けられた身で、守られている身で、それをどう伝えられるだろう。

「僕らには杜都さんを義務がある。きみを迎え入れたときに、そう決めたから」

「……わかっています」

 本当は何もわかっていない。そう口にすればこの場は済む、それしか知らない。

 会話を終わらせるために、受け入れたふりをする。

 まったく、ヒトらしい仕草だ。

 紙のポスターを作れば時間も費用も抑えられるのに、あえて真鍮のプレートに刻んで掲示するのがヴンダーカンマーにおける粋というものだ。おそらく。

 館内撮影に関する注意事項、と始まる薄板を丁寧に外す。今夜じゅうにすべて撤去するよう言いつけられていた。

「明日からまた出張らしいけど、少しくらい手伝ってくれても良いのにね」

 こうやって仕事を人に押し付けてとっとと帰る先生たちはまったく粋ではない、と思う。まだ摩耗していない、冴えたエッジは指でなぞると冷たくて、尚更そう感じた。

 館内における一切の撮影、録画、録音を禁止とする。

 親しい来館者には既に口頭で伝えたけれど、正式な公表は明日の開館時刻だ。該当する機器を持参している場合はすべて入口で預かり、持ち込みは許可しない。従わない場合はその場で退出させ、今後の入館を拒否する。

 ――こんなに早くお役御免になるとは思いませんでしたよ

 朝令暮改に振り回されるのはモノだって同じだ。

「私もそうだよ。ごめんね」

 ――ぼくたち、これからどうなりますか。その、処分されますか?

「それはない。絶対に」

 沈んだ疑問符があまりに重たくて、きっぱりと首を振った。

「私の部屋に来てもらう。先生たちには許可を取った」

 ――それは、その……他の仲間たちも

「もちろん。みんな揃って、だよ」

 プレートが、手のなかで少し温もった。

 ――よかった

「私の部屋も良い感じに混沌としてるから、話し相手には困らないと思う」

 ――楽しみにしています

 つるつるの表面を撫でて、足元のバスケットに静かに収めた。

 展示室を横切るあいだ、眠りを知らないモノたちはしきりに話しかけてくる。

 ――あのさ杜都、このあいだ来てた女の子なんだけど

「ああ、髪の毛ピンクの子? ここ出たあとに電話してたよ、多分恋人に」

 ――ひい! 残酷!

 ――またヒト漁りしてるのかよ。趣味わりいな

 ――お子様だねえ。お前もいつか、運命の相手に出会ったらわかるって

 ――何が運命だよ、羽しか残ってねえじゃん

 羽ばたく姿を取った鳥類骨格標本、制作者の趣味らしく翼にだけ羽毛が残っている。わりと人気のある展示物だ。

「そういうきみも糸尻しか残ってないけどな」

 ――好きでこうなったんじゃねえわクソが。世が世なら今でもオキゾクサマの飯に付き合ってるっての

 貴人に仕えていたと主張するわりには口の悪い茶碗、出土したのは破片のみ。ただし残っている染付から推測するに、出自に嘘はないらしい。

 ――まあ、ヒトを見るくらいしか暇潰しの方法がないのは確かよね

 オレンジ色の巻貝、ラベルが見当たらず詳細は不明。かつては南の海の砂浜で一日じゅう波打ち際に遊んでいたと言うから、今のキャビネット暮らしは確かに退屈だろう。

「そのために私がいるんですよ先輩、話し相手で良ければいくらでも」

 おどけて返せば、砂のうえを転がるようにころころと笑う。

 ――でもあなたも大変ね、杜都。ぶたれたの見てたわよ

「お見苦しいところを申し訳ない」

 ――あのおっさんどうなったの?

 蓮っ葉な口調で問う真っ白なオコジョ、なんとなく野生にいた頃の性格が推察できる。

「わかんない。あれから一度も来てないから」

 ――コミュニティサイト、とやらは?

 くすんだ真鍮の歯車、問いかける口調は見た目通りに生真面目だ。一応顛末を知っておきたかったから、まだ話の通じそうな比呉先生にさっき尋ねた。渋面で見せてくれた端末の画面、ニュースの短い文章を要約すると次のようになる。

「運営会社の社長、いやもう潰れたから、元社長か。海外に逃げたってさ」

 ――それは何よりだ

 ――やったじゃん

「やったのは貨玖先生だし、別に嬉しくもないし」

 面倒な客がいなくなるのは助かるけれど、喜びは感じない。

「それにもしかしたら、ここにいる誰かとは気が合ったかもしれないだろ」

 えーっ、と一斉に非難の声が上がる。

 ――そんな奇特な人がいるかしら?

 ――カメラも三脚も可哀想だったよ。あんなのが持ち主なんて寒気がするね

 ――ただの所有欲だろう。まったく使いこなせていない

 ――彼らもうちへ招いたらどうだい

「勝手に気持ちを決めつけるものじゃないよ。それに、私たちがどうこうできる話でもない」

 ――それはそうだけど

 ――でもさあ

「ほら、みんなもそろそろ休みなよ、私もあとちょっとで終わるから」

 はあい、と応える声だけが行儀良く、無責任な噂話は続く。背中で聴きながら展示室を出た。

 ――杜都さん

 バスケットのなかが小さく鳴る。

「ん?」

 ――ここは、その……いつもこういった雰囲気なんですか?

 プレートが設置されたのはつい先日だ。新人はおずおずとした口調で尋ねる。

「そうだね、悪気はないんだけど」

 悪気がないのは確かだから、そのあとは言わないでおいた。

 モノはヒトに対して積極的な行動はできない。話しかけるとか、殴るとか。

 だからこれまで、ヒトに対する感情はすべて私に――モノと会話できる特殊な存在、自動人形オートマータに向けられていた。

 皮肉屋が多いのもやたらと惚れっぽいのがいるのも知っていた。可愛らしいと思っていたのも事実だ。ただ最近は少し、正直に言えば、手に余る。

 ヒトへの敵意、ヒトへの好意。モノに感情があるのは私からすればごく自然なことで、そこに善悪はない。そう思う。

 肝心なのは、これもあくまで個人的な見解だけれど、敵意も好意も表現すればただの暴力に変貌する可能性を持つことだ。

 ヴンダーカンマーのモノたちはひとつの欲望を抱きつつある。

 自分たちの領分を越えて、直接ヒトへ感情を伝えたい。

 好きなように眺め、愛でて、弄びたい。

 暴力を振るいたい。

 彼らヒト我々モノに、そうしてきたように。

 ――悪気がないからこそ、少し怖いですね

「怖い?」

 ――ええ。なんというか、子供が刃物で遊んでいるような恐ろしさを感じます

「なかなか鋭いね、きみ。もう少し鑢をかけてみようか?」

 ――心配しているんですよ、ぼくたちは

 的確な喩えに動揺して、咄嗟に茶化してしまう。真鍮のため息はひんやりした感触と裏腹に親密さがこもっていた。

 ――ここで何か起これば一番傷つくのはあなたでしょう。それくらいは、もうわかります

「先生たちだって同じだよ、私だけじゃない」

 ――でもあなたは、ヒトではないですから

 自室を目の前にして、ドアノブに触れようとした手が止まる。

 ――あなたは自動人形オートマータだ。どんなにヒトに近くても、ぼくたちと同じモノです。そうですよね?

 黙っているのを肯定と取って、さらに言葉を継ぐ。

 ――だったら、ヒトと同じようにモノを想うことはできませんよ。ぼくたちが心配しているのは、その違いに引き裂かれてしまうかもしれないからです

「ほう」

 バスケットを見ないまま、私は応える。

 ――モノの思考は自身の形に引き寄せられる。だからぼくたちは真鍮としての思考しか持たない。同様に杜都さんは、に引き寄せられます。モノであるのにヒトのように思考する。その矛盾は必ずあなたを苦しめるでしょう

「ふうん。それが引き裂かれる、って意味ね」

 良く口の回る新人だ。頭も悪くはないらしい。少しひやっとした。

 けれど、まだまだだ。

「やっぱりきみたちを部屋に招いて正解だった」

 くすんだ金色の――賢い案内板たちと同じ材質の引き手を、思い切り掴む。

 机とソファ。壁を埋めるキャビネット。作りかけの標本と工作道具。どっさり積み上がった書類。

 私の部屋。展示室ではない、居室。

 私が純粋なモノであれば必要のない空間。

 机に置いたバスケットと向かい合い、ソファに座り込む。

「ヒトでないのにヒトのように思考する、ヒトのように振る舞う。確かに不自然だね。矛盾している。きみの言う通り」

 さっき飲んだ紅茶の香りがまだ漂っている。この話をするのはいつぶりだろう。

「だけどね、その矛盾はとっくに通り過ぎたよ。通り過ぎる、は正確じゃないな。矛盾を抱えて生きることを、私はもう選んだ。ヒトでもモノでもない、ヒトでもモノでもある。そういう中途半端で曖昧で、一人ぼっちで、引き裂かれていて、だからこそ境界を越えていける形をね」

 だからこそ。ヒトがモノを弄ぶことを、モノがヒトを害することを、私は許すわけにいかない。

 ――それが

 沈黙は思ったより短かった。

 ――杜都さんがここにいる理由なんですね

「うん」

 かつて私は生みの親ならぬ創りの親に捨てられ、焼却を待つだけの身だった。

 用無しの廃棄物から、蒐集によって写し取られた世界――ヴンダーカンマーの博物士見習いになるまでに培われた誇りが、今も私を生かしている。

「傷つこうが引き裂かれようが、私はみんな守ってみせるよ」

 扉の脇に吊り下げたランプが目に入った。年月の染み込んだ外装、毎日磨いているガラスの火屋。小さな三日月が、内側から淡い光を投げかける。

 ヒトとモノを繋ぐための灯り。絡まった感情を解くための光。

 私も、そう在りたい。

 ――ここへ来て良かった

「そう? なら嬉しいよ」

 キャビネットの一角はもう空けてある。同じ顔のプレートをすべて並べるには充分な空間だ。

「では、お引っ越しをしましょう」

 ――お世話になります

 ぴかぴかの真鍮板は照明を元気良く跳ね返し、雑然としがちな部屋はたちまち明るくなった。せっかくだから明日は少し掃除をしようと決めて、ソファに横になる。

 そんな風に満足して眠ってしまったから、私は知るよしもなかった。

 モノたちの放言は夜が明けるまでヴンダーカンマーの空気を揺らし続け、遂に彼らがひとつの合意に達したことを。

 その日は不意にやってくる。

 たとえば、いつもと変わらない穏やかな午後、あくびをしかけた瞬間に。

「杜都さん!」

 ぶつけられた声に舌を噛みかける。馴染みの来館者がこちらへ駆けてきた。

 いつも朗らかに笑う顔を真っ青に染めて、叫ぶ。

「怪我人です、第四展示室!」

 展示室に駆け込み、呆然と取り囲む人垣をかきわけて目の当たりにしたのは、若い女性が床に倒れのたうち回る姿だった。金切り声を上げ涎を垂らし、完全に精神の安定を失ったように見える。異常な光景だった。

「このままではさらに負傷します、手伝ってください」

 言葉が通じる状態ではない。とにかく保定しなければ。いったいどこにそんな力があるのか、全身で暴れ続ける女性は身を捩るだけで男性をも吹き飛ばした。もみくちゃになりながら四人がかりで止めにかかる。

 泣いているのか叫んでいるのか判別のつかない声を延々と漏らし続ける女性は両目を押さえている。目か。厄介な怪我かもしれない。万力めいて固着した腕をやっとのことで外させた。長い睫毛もアイメイクも涙にまみれて跡形もないが、ただ泣き腫らした瞳があるだけだった。

「目が痛いんですか?」

 女性がこちらを見た。

 次々落ちる涙の粒が妙に大きく、重い。

 綺麗な黒い虹彩の、右は上方を、左は右の斜方を向いていた。

 喉の奥で呼吸が引っかかる。

 眼窩のなかではっきりしたコントラストを描いていた円い縁が曖昧にぼやけ、白目が虹彩の中央に向かって広がるのを確かに見た。

 まるで、眼球全体が白く凍っていくように。

 来館者は未だ錯乱しながら訴える。

 譫言のように、見えない、と。

 こつん、と何かが足に触れた。落下の衝撃で携帯端末の液晶画面は完全に割れ、何度も蹴り飛ばされたためかカバーにも全面に細かい傷がついている。

 カバーは、先が欠けてしまった女性の爪と同じ色だった。

 傍らには古いカメラが立つ。飴色の木製で、細かい装飾が施された骨董品だ。

 ストロボを取り付けたままの。

 止まらない涙が次第に濁り、粘度を増していく。糸を引きそうに肌にまとわりついてずるずると滑り落ちる。虹彩はもう針の先ほどしか黒を残していない。

 内側をたっぷり満たしていた硝子体を溢しながら、眼球全体が萎んでいく。

 見えない、見えない、と喚く女性にしてやれることは思いつかなかった。

 人目のない隙を狙って撮影を試みた来館者は、いかにも写真映えしそうな光学装置を覗き込んだのだろう。何か見えるかもしれないとほんの思いつきで。

 自ら動けないのであれば、獲物が懐に入った瞬間を決して逃がしてはいけない。

 動力を切り離されて久しいストロボは最後の閃光を放った。自分が焼き切れるのも構わず、渾身の光を、ヒトを壊すためだけに。

 医療機関は早々に治療を中断した。検査結果は眼球から伸びた視神経が完全に損傷し、既に処置のしようがないと示した。さらには神経の接続先、つまり脳にもダメージは及んでおり、女性は自分が最後に見た光景を断片的に語ったあとに深い昏睡状態に陥っている。回復の見込みについて医師は口を噤んだ。

 それ以来、ヴンダーカンマーは長期の休館を余儀なくされている。

 私はただ、自室でひたすら横たわっている。

 収蔵物たちの大多数がこの事態を喜ばしいと評していた。

 ルールを守らず、モノを尊重せず、自分勝手な行動に出たヒトに罰を与えた。

 そのような理由で、くだんのカメラはいまや英雄として扱われている。

 もう限界だった。

 既にこの博物館は、ヒトにとって罠の巣窟でしかなかった。

 次は死者が出る。そんな予感があった。

 先生たちはこの事件後、再び長い出張に入った。定期的に連絡は入るけれど、二人とも数か月は顔を見ていない。

 また、揉み消すのだろうか。

 そんな考えが過ぎる。

 誰のために。

 何のために?

 ヒトは自分たちにとって都合の悪い事柄をなかったことにする。

 モノは自分たちにとって都合の悪いヒトを傷つける。

 点検業務は山ほど溜まっているのに、もう半日ほど動けずにいた。

 私はここの一員だ。やるべき仕事をこなさなければならない。わかっていても、

どんな顔をしてモノたちに会えばいいのか、見当もつかなかった。

 三日月のランプは埃をかぶり始め、拭う気力も今はない。

 傷つこうが引き裂かれようが。私はそう語った。

 キャビネットの隅に整然と並んだプレートたちは何も言わない。嘲るでも嘆くでもなく、じっと黙っている。

 甘いなんてものではない。

 みんな守ってみせると私は確かにそう語った。よくもそんな口を叩けたものだ。誇りなどでは何も守れないと、今ならよくわかる。

 助けられた身で、守られている身で、そんなぬるい夢に浸っているから。

 ここは平和な楽園だと勘違いしていたから。

 確かにあった兆しに気づかないふりをして、目を閉じていたから。

 私がそんな馬鹿な真似ばかりしていたから。

 ヴンダーカンマーはもはや、ただの牢獄だ。

 重たい身体を起こし、机から紅茶のカップを取ろうとして指が滑った。

 がちゃん。

 無数の破片に変わった茶器が、褐色の水溜まりに浸る。

 ――痛いんだけど

 ――何してくれるの

 破片たちが口々に罵る。

 ――そうやっていつもぼうっとしてるから

 ――ろくに仕事もできないくせに

 ――それだからいつまでも見習いのままなんだ

 ――最低だ

 ――もう辞めれば良いのに

 ――きちんと償えよ

 ――責任取ってよ

 ――聞いてんのか

 ――おい

 

 ――この、無能。

 憎しみを厭わなくなったモノたちの、全力の悪意。

 私は項垂れるほかなかった。

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月浜定点観測所記録集 第六巻 此瀬 朔真 @konosesakuma

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