花と嵐

瑞崎はる

春雷や 花の息吹に 鳴くわたし

 春の空は移ろいやすい。


 今年、咲いた桜は開花宣言を聞いた三日後に、激しい雨に見舞われて散った。昨今の地球温暖化の影響なのか、夏でも秋でもないのに今日は昼過ぎから雷鳴を伴う激しい豪雨となった。


「ミドリ先生。こんなドシャ降りの中、患者さん来ませんよ」


「そうね、今日は早めに閉めちゃいましょうか」


 みどりファミリークリニックの女医ミドリは、看護師のチハルの声に苦笑しながらうなずく。みどりファミリークリニックは地域密着型の診療所で、来院患者の年齢層は比較的高めだ。どうしても通院難しい数名の患者については訪問診療も行っているくらいなので、天候不良や寒かったり暑かったりで、来院人数が大きく変わる。

 診療時間はあと一時間残していたが、今日のような大雨の日は来院者がパッタリ来ないということもよくあることだった。

 ミドリが受付のキミカとミズキに相談すると、二人とも「そうですね」と、同意した。


「雷も怖いですし、外出は控えた方がいいですね、きっと」


 キミカが言うと、ミズキが「帰り、電車動いてなかったらどうしよう…」と、困った顔で呟いた。


「心配しないで。私がみんなを送るわ」


 車通勤のミドリが言うと、全員が顔を上げて、ミドリに視線を向けた。クリニックの近所に住むチハルはともかく、最寄り駅から電車で通勤するミズキと、隣町から自転車で来ているキミカはどうやって帰るかが気がかりだったようだ。


「ほんと助かります。ミドリ先生ありがとうございます」


 ホッとしたようにミズキが言うと、キミカとチハルも同様に頭を下げた。こんな暴風雨の中、びしょ濡れで帰りたくないのは誰も同じだ。


「いいのよ。みんなにはいつも助けてもらってるし、どうせ私も車で帰るんだから」


 外から低い地響きのようなゴロゴロという音が聞こえる。稲光が走ったらしく、一瞬、窓が明るくなった。

 ミドリはスタッフに帰り支度をするように伝え、その日の診療は終了した。



 ――――翌日は晴天だった。



 昨日のドシャ降りが嘘のように空は青く澄み渡っている。


 …今日は春らしい陽気になりそうね。


 昨日の雨で来れなかった患者が来るかもしれないし、大型連休も近いので、今日は来院者が多くなるかもしれない。ミドリがそんなことを考えながら出勤準備をしていると、不意にスマホの呼び出し音が鳴った。


 …こんな時間に誰だろう?


 スマホの画面を確かめると発信者は受付のミズキだった。こんな出勤前に電話してくるとなると、急な欠勤の連絡しか考えられない。ミドリは急いで電話に出た。


「せ、先生すみません…」


「どうしたの?」


 ミズキは喘鳴混じりの苦しげな様子だった。ゼーゼーと息を荒げて、途切れ途切れに言葉を絞り出す。


「今…駅、なんですけど…電車に、乗ろうと、したら…急に息苦しく、なってきて…」


 ミズキは本当に具合が悪そうだった。昨日までは元気そうにしていたので、わけがわからない。


「大丈夫?」


「だいじょ…ぶ、じゃない、です」


 そう言ったミズキは激しく咳き込んだ。ヒューヒューという独特の呼吸音が混じる。


「ミズキさん、喘息の既往はあった?」


「ない、です」


 ミズキが毎年花粉症に悩まされていたのは知っていたものの喘息があったとは聞いていない。何らかのアレルギーでアナフィラキシーショックを起こしているとなると、急速に喉が腫れて、空気が通らなくなったり、血圧低下が起こって、死に至ることもある。


「症状がおさまらなかったらお休みしてね。酷いようなら救急車を呼んだ方がいいと思う」


「…はい」


 ミズキはゼーゼーと苦しげな喘鳴を残し、電話を切った。


 …良くなるといいけど。


 ミドリが何となく嫌な予感を抱えながら、みどりファミリークリニックに向かうと、クリニックの前に数名の患者が並んでいた。先に着いていたらしい受付のキミカが「先生、三十分早いですけど、入ってもらいますか?」と、困惑した表情で尋ねてきた。


「そうね。とりあえず、中に入ってもらいましょう」


 並んでいる患者は全員、苦しそうに咳き込んでおり、顔色が悪かった。


 …喘息?こんな一斉に?


 パッと見たところ、喘息で通院していると思われる患者はいない。年齢も性別もバラバラで、共通点は思い当たらなかった。まもなく、看護師のチハルも到着したので、いつもより早く診察を開始する。


 開始から15分。

 患者の列はどんどん長くなり、すでにクリニックに入りきらなくなっていた。どう考えても異常な事態が起こっていることは明白だった。


「救急車を呼びましょう」


 診療している間にも、みどりファミリークリニックにはひっきりなしに電話がかかってきている。相談内容は皆同じで、【咳が止まらない】【息苦しい】という内容だった。押し寄せる来院者の症状とも完全に一致する。どうしたことか、突発的に喘息患者が増加しているようだった。

 ミドリは一息つく間もなく、次々とアレルギーを抑える薬を出し、症状緩和の治療にあたったが、クリニックに入って来た女性患者の一人が、大きく咳き込んだ直後、意識を失って倒れた。


一時間後。

その患者は搬送先の病院で亡くなった。



―――それは【雷雨喘息】というものらしい。


 機序はハッキリしていないのだが、豪雨の後には喘息患者が多くなることがある。

 花粉は通常は粒が大きく、吸い込んでも目や鼻、喉の粘膜に引っ付き、【花粉症】の症状でおさまる。しかし、花粉飛散の時期に雷雨になると、水を含んで膨張した花粉が雷に撃たれるなどして破裂し、粉々になる可能性が指摘されている。破裂して粒子が細かくなった花粉が、空気中を舞い上がって吸い込まれると、喉を通り過ぎて、肺に続く気管支に付着し、気管支喘息を引き起こしてしまう。


 ――――気管支が完全に閉塞すると窒息死することも。


 ここ数日の花粉飛散量は例年に比べて、非常に多かった。さらに、春には珍しい激しい雷雨が起こってしまったことで、喘息患者の大規模発生に繋がってしまったのだと考えられているらしい。


 この日、みどりファミリークリニックを来院した女性患者を含む、五人の方が急速に進む喘息の悪化で亡くなった。


 その日、欠勤となった受付のミズキも危なかったそうだ。

 偶然、駅に居合わせた医師と、気管支喘息の息子を連れていて、たまたま喘息の吸入薬を持ち歩いていた母親のおかげで、緊急治療を行うことが出来た。

 救急車は早朝から全車両が稼働していて、呼ばれっぱなしだったため、すぐに到着することは難しかったという。



 ―――――花と嵐。



 たかが花粉。されど、花粉。

 偶然が重なることもある。

 花粉の季節の雷雨後には気をつけよう。


 自然の脅威は案外、鼻の先にあるのかもしれないぞ、と。


(ハ、ハクシュン)

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花と嵐 瑞崎はる @zuizui5963

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