第4話 断る


 唇が離れて、少しだけ沈黙が流れる。弘佑の頭に大きな手が乗って、「帰るぞ」のひとことを合図に歩き出す。俊亮とキスをしたのはこれで5回目だ。駅でのキスがあってから、弘佑はもう俊亮に会えないと思っていた。弘佑の予想に反して俊亮はまた女性とトラブルを起こして弘佑を呼び出した。ファミレスで俊亮の泣き言を聞いて、弘佑も学校のことを話した。暗くなってきたところで家の近くまで送ってくれたその道中、話題が途切れて少し静かになったところで俊亮にキスをされた。

 「え、なんでっすか?俺、頼んでないですよ。」

 「そういう雰囲気だから。」

 俊亮はそれ以上何も答えてくれなかった。どうやら大人には「そういう雰囲気」があるらしい。それから弘佑は、俊亮と会うたびに帰り道でキスを受け入れた。

 弘佑の気持ちはもうはっきりしていた。でも弘佑はそれを俊亮に伝えるつもりはない。駅で約束した通り、俊亮が困るようなことにならないように、好意を悟られないように気を付けている。弘佑がわからないのは、俊亮がキスをする理由だけだった。


 梅雨が近づいてくると、ぐずついた天気でも蒸し暑い。そのせいか学校内は若干静かで、昼休みになってもそれは変わらなかった。相変わらず昼食は人気の少ない廊下で弘佑は秋人と食べている。お互い多くは話さないが、少しだけ会話が多くなった。会話を続けてわかった事は、秋人に好きな人がいるということだ。

 弘佑にはその相手の検討はついていた。多分俊亮が「陽ちゃん」と呼んでいるカフェ店員だ。だけど秋人は相手の性別も言わなかったから、それについて尋ねたことはなかった。でもここ数日の秋人は様子がおかしい。時折涙をこらえているように眉間にしわを寄せていて、どこか苦しそうだった。さすがに看過できず何か声をかけたいとは思うが、どう声を掛けたらいいかわからなかった。

 「弘佑さ、最近雰囲気変わったよね。」

 秋人の方から声をかけられると思わなくて、弘佑は大げさに肩を震わせた。明らかに様子がおかしいのは秋人の方なのに、変化を指摘されたのは弘佑の方だった。

 「え?なんで?」

 「前よりしんどくなさそう。」

 確かに最近の弘佑は学校をあまり苦痛だと感じなくなっていた。自分を偽ることを「大人もやっている」と肯定してくれたり、内側に秘めた自分を受け止めてくれた俊亮がいるからだ。

 「あぁ、うん。まぁ楽しいかも。秋人は?」

 「え?」

 「秋人は最近なんか……大丈夫?」

 上手く言葉がでなくて弘佑は少し恥ずかしくなった。秋人もまさか自分が聞かれるとは思わなかったのか、ぎこちなく頷いていた。その反応を見て、弘佑は少し考えた。

 「秋人、今日は塾ある日?」

 「いや、図書室で勉強する日。」

 「じゃあ、今日それナシで。放課後空けといて。」

 弘佑の強引な誘いに、意味が分からないと秋人が首を傾げた。弘佑は「帰るなよ」と念を押して先に教室へ戻った。

 帰りのHRが終わってすぐに弘佑は秋人の席に向かって腕を掴んだ。顔をしかめて「帰らないよ」と言った秋人を弘佑はそのままグイグイと引っ張って学校を出た。途中でコンビニに寄ってコーラとスナック菓子を買い、最寄り駅の近くにある公園へ向かった。空いているベンチに座って、さっそく買ったものを広げる。

 「なんか女子会だな。」

 「やだよ弘佑と女子会とか。」

 なんとなくすぐに本題に入れず、今日の授業がどうだとかスナック菓子の味がどうだとか、どうでもいい話がしばらく続く。このままだと時間だけが過ぎていくと判断して、弘佑は自分の話から始めた。

 「俺さ、今好きな人いるんだ。その人がいるから最近学校が楽しく感じ始めてる。」

 秋人は興味なさそうに、「ふうん」と返すだけで公園で走り回る子供を眺めていた。

 「その人さ、陽ちゃん?ってカフェ店員の友達で大学生なんだよ。」

 弘佑の言葉に秋人が瞬時に振り返った。秋人の想い人について何も言うつもりはなかったが、弘佑はおせっかいだとわかっていても陽太の名前を口にした。弘佑が俊亮に自分の悩みを話すことで楽になったように、秋人にも安心してほしかった。弘佑がその安心を与える存在になれるかはわからないが、現状一人悩んでいるように見える秋人を弘佑は放っておけなかった。

 「最近、秋人が辛そうなのってその店員さんのことでしょ?」

 「その好きな人に聞いたの?」

 秋人が怪訝な顔色で弘佑を見たが、弘佑はすぐに「違うよ」と否定した。そしてコーラを一口飲んで、秋人に向き直る。

 「俊亮さん……あ、俺の好きな人ね。俊亮さんからは何も聞いてない。ただ俺がカフェに行った時のその人の様子とか、秋人の様子とか見てたらなんとなくわかるよ。」

 「そっか。」

 弘佑は無理に聞くのも野暮だなと思って、それ以上は聞かずスナック菓子をつまむ。少しして、秋人の方から経緯を話してくれた。

 「俺、美大目指して頑張ってたけど、二年になってからビビっちゃって。四年制大にも行けるように勉強してた。でもどうしても絵をやめることが寂しくて、息抜き感覚でカフェの中で絵を描いてたんだ。」

 そこで陽太に絵を褒められて、進路を決めきれない自分に嫌気がさした秋人は陽太を冷たい一言で拒否をした。関係ない陽太に当たってしまったこと、進路を決めきれない自分、ふたつのモヤモヤを抱えたまま母親にも当たってしまった。錯乱した秋人は雨の中家を飛び出してカフェの近くを歩いていたという。

 「陽太さんに見つかっちゃって、なんか、よくわかんないんだけど安心しちゃってさ。泣いて抱き着いちゃって……。」

 「おお、やるやん。」

 「その、き、キスも……。」

 「マジかお前!」

 弘佑はまるで何かの試合を観戦しているかのように興奮して飛び上がった。「声デカいから」と秋人が宥めて、弘佑は再びベンチに座る。

 「好きになったのはその時。……で、その後もカフェに通って、絵を見てもらうようになって。前より距離感近くなったから、行けるかなって思って遊びに誘ってみたんだけど。」

 「いいじゃんいいじゃん。それで?」

 「返事もらってない。返事が欲しくて手掴んだら、振り払われちゃって。」

 弘佑はさっきまでの興奮に水をかけられたような感覚がして、何も言えなかった。気の利く言葉が思いつかず、「そっか」と情けない声で一言だけ返せるのがやっとだった。

 「よく考えればさ、客と店員だし、大人と高校生だし、うまくいくわけがなかったんだよ。」

 自嘲するように鼻で笑って、秋人はコーラを飲み干す。弘佑にはその顔や声が痛々しくて、下手に励ましの言葉をかけるのも違う気がした。秋人は、陽太を諦めるつもりなのだろうか。あのカフェにもいかなくなってしまうんだろうか。軽々しく口出しはできないとはいえ弘佑はそれが少し嫌だと思った。勝手に首を突っ込めないが、なんとなくもったいない気がしていた。

 「はい。次、弘佑の番。」

 「え?俺?」

 「ここまで話させて、自分は隠すとかナシでしょ。」

 今の秋人に自分の話をしていいものなのか躊躇っていると、秋人が弘佑の肩に軽いパンチを食らわせた。

 「いいから。俺が聞きたいの。」

 小さく頷いて、弘佑も今まで俊亮との間であったことを話した。俊亮と仲良くなったきっかけから会うたびにキスをしているところまで、すべて話し終えても秋人が何も言わないから、弘佑は恥ずかしさと気まずさで落ち着かなくなる。

 「俊亮さんは、弘佑のこと好きなんじゃないの?」

 「んー。結構女の子にモテるし遊んでるから、俺もそのうちの一人だと思う。」

 自分で言って少し悲しくなったが、俊亮に迷惑をかけないという約束もあって弘佑の方からは踏み込むつもりもなかった。キスは嫌じゃない。むしろ嬉しい。俊亮が自分に飽きるまではとりあえず関係が続くから、それだけで十分だと思っていた。

 「うーん。だめだな。それだと弘佑って都合のいい女ポジだよ。」

 「やっぱりそうだよなぁ~!でもそれでもいいって思っちゃうんだよなぁ~!」

 弘佑は頭を抱えて俯いた。俊亮と関わりをなくしたくないから、俊亮の全てを受け入れてしまいそうになる。俊亮も弘佑を受け入れてくれているから、一種の依存関係に近い。秋人のように自分から遊びに誘うことも、今まで弘佑はできなかった。

 「弘佑、一回さ、そのチュー断ってみてよ。」

 「は?」

 弘佑が顔を上げると秋人が悪い顔をしてニヤニヤと笑っていた。弘佑は初めて見る秋人の表情に軽く恐怖を覚えた。まさか陽太と上手くいかなかったからって道連れにするつもりかと疑ったが、秋人の提案にはまだ続きがあった。

 「だって、チューするための関係じゃないでしょ?もし弘佑がチューを断っても別に問題はないじゃん。」

 「でも、それで会えなくなったらどうするんだよ。それに俺は俊亮さんが好きだから、チューされ続けた方が嬉しいし。」

 「だから一回だけ断ればいいんだよ。」

 弘佑には秋人の言っていることの意味が分からなかった。一度だけ断るってどんな言い訳をして断ればいいかわからないし、なぜ一度だけなのかもわからない。どれだけ考えても、それに何の意味があるのか全く分からなかった。

 「いいからやってみてよ。もし向こうがもう会わない素振りを見せたら、口内炎だったって後から言えばいいから。それでもだめだったら俺が陽太さんに高校生をたぶらかしてるってチクるし。」

 なぜそこまで秋人がいうのかわからなかったが、とりあえず弘佑は頷いてみた。しかしその瞬間に弘佑はハッとして秋人の頭をぐしゃぐしゃと乱す。

 「秋人……お前、そうやって陽太さんと会う口実を作ろうとしてるだろ!このやろ!」

 「待って待って!ちがうよ!」

 逃げ出した秋人を追いかけて、公園を二人で走り回った。もう暗くなり始めて弘佑と秋人以外誰もいない公園の外まで二人の笑い声が響いている。変なテンションが二人をおかしくしているのか、ただの追いかけっこが辞められなくていつまでも走り回っている。弘佑が俊亮以外の人とこんなに笑ったのは小学生ぶりだった。体力の限界を迎えた頃にノロノロとベンチに戻り、弘佑はもうぬるくなったコーラを飲んだ。息を切らす秋人に弘佑は「ありがとう」と伝えた。

 「お礼に俺も秋人にアドバイスするわ。」

 「絶対ろくな事言わなさそう。」

 「お前がそれ言う!?」

 弘佑が声を上げると、秋人は「もう笑わせないで」と腹を押さえて息苦しそうに言った。秋人の笑いが落ち着くまで待ってから秋人の呼吸が整ったところで、弘佑は口を開いた。

 「城を落とすならまずは外堀からだ。あのカフェって店長いたよな?あの店長に陽太さんのことを聞くしかない。」

 「……まともじゃん。」

 「失礼だなお前。」

 広げたスナック菓子のごみを片付けてその日は解散になった。ギリギリまでお互い憎まれ口をたたきながらも笑って別れた。同級生の友達ってこんな感じなのかな、なんて弘佑は考えながら帰路についた。


 数日後、俊亮と会う日がついに来た。放課後に駅前で待ち合わせて、カラオケ店へ行くことにした。とはいえ二人とも特に好きなアーティストがいるわけでもないせいで、いつも通り話すことがメインになってしまう。

 「俺って色んな女の子と遊びはするけど、付き合うときはちゃんと一途なんだよ?それをさぁ、元カノたちがね、交際時期が被ってるって勝手に言い出して詰めて来たんだよ!酷くね!?」

 相も変わらず女性に関する愚痴が次から次へと俊亮の口から飛び出すのを、弘佑は右から左へ受け流す。俊亮はひとつのエピソードを話し終える度に、一昔前のラブソングを熱唱する。顔とタッパがよくて、そこそこいい大学に通っていて、ファッションセンスがいいだけでもモテる要素がありすぎるくらいなのに、更には歌も上手い俊亮に弘佑はムカついた。しかし、それ以上に単純にそこが魅力的に感じる。俊亮が落としてきた女性と同じような単純な自分が弘佑は癪だったが、それほどどっぷり惚れているのも事実だ。

 「俊亮さん、もしかしてカラオケで女の子落としたことあります?」

 「え?まぁ、カラオケから持ち帰ったことはあるかも。」

 「はぁ……。くそハイスペックがよ……。」

 その後も俊亮の歌と愚痴を交互に聞いて、弘佑も俊亮からの無茶ぶりで少し歌って、二時間が経ったところで帰ることになった。カラオケ店を出るころには俊亮の声が若干枯れていて、明日にはガラガラになっているかもしれない。

 弘佑の家まであと数百メートルというところで、ふと話題が途切れて少しの静寂が訪れた。俊亮が弘佑を呼び止めて、距離を詰めてくる。いつものキスをする流れだ。弘佑は唇が触れるギリギリで顔を背けた。俊亮はピタッと動きを止めて弘佑から離れる。気まずい沈黙が二人の間に流れた。

 「嫌だった?」

 沈黙を破った俊亮の落ち着いた声に、弘佑はビクッと肩を震わせて俯いた。別に悪いことをしているわけじゃないが、弘佑はまるで親に嘘を見抜かれたときのような心持ちだった。弘佑がどう答えようか考えあぐねていると、いつもキスをした後の動作と同じように弘佑の頭に大きな手が置かれる。

 「帰ろ。ごめんね。」

 弘佑に笑いかける俊亮の顔は優しいものなのに、弘佑はその笑顔が怖くてしょうがなかった。もう会わない、困らせないからと言われているような気がして、何か言わなければと弘佑は焦った。必死に繋ぎ止める為の言葉を考える弘佑の頭の中に、秋人の言葉が蘇った。

 「あ、あの!」

 弘佑が帰ろうとする俊亮を上ずった声で引き留めた。そして俊亮の背中に向かって続けた。

 「いつもはできるんです。今日が難しいだけでいつも嬉しいです。会えるのも、その、キッ、キスも……。」

 弘佑は自分の言ったことが恥ずかしくなって俯いた。俊亮からは何も返事がなくて、弘佑にはこの静寂が長く苦しく感じる。しばらくして、俊亮が立っている方向から足音が聞こえて弘佑も数歩後ずさる。しかしすぐに腕を掴まれて俊亮の身体の方へ引き寄せられ、苦しいくらいの強い力で抱きしめられた。

 「はぁ……びっくりした。」

 自分より若干高く感じる体温に包まれて、耳の近くで俊亮の息遣いと声が聞こえる。いつものキスの時よりも鼓動が激しく鳴るあべこべな感情に思考が追い付かなかった。両腕ごと包まれているせいで身動きが取れなくて、背中に手を回すこともできない。

 「なんで今日だけダメなの?」

 少し掠れた声が耳元に響いて、身体が勝手に小さく跳ねる。好意を寄せている相手に密着されて、うまく声が出ない。状況を理解すればするほどパニックに陥っていく。

 「今日は……その……。えっと、」

 「俺ね、陽ちゃんに言われたの。弘佑のこと好きなんじゃない?って。あんまりピンと来なかったんだよね。」

 人の話を遮って自分の話をするのは俊亮の困ったところで、それでも弘佑が好きなところだ。少し自己本位でいてくれることで、弘佑も素を曝け出して話せるからだ。しかし俊亮が話す内容は明らかに自分への好意がないというもので、弘佑は拳を固く握りしめた。

 「でもこの前、弘佑が同級生と楽しそうに笑ってるところを見て、なんかちょっとムカついた。俺以外にもお前の作り物じゃない笑顔を見せてるんだって思うとなんか嫌でさ。それでさっきチューも拒否されたから、俺すっげー焦った。もう会えないかと思った。」

 「俺も、思いました。」

 「会えるのが嬉しいって言われて、今すげー安心してる。それで……うん、好きだと思う。」

 俊亮が言い終わると同時にパッと身体を離したせいで弘佑は一瞬バランスを崩した。何とか踏ん張って顔を上げると、耳を真っ赤にした俊亮が背中を向けて両手で顔を覆っている。乙女かよ、なんて心の中でツッコみながら、弘佑はその背中に向かって話した。

 「俺、俊亮さんが落としてきた女の子と違って簡単に離れてあげられませんよ。」

 「ウン。」

 ぎこちない返事をする俊亮の声さえも可愛く感じて、思わず笑いが零れる。

 「俊亮さんが、やっぱり女の子がいいとか他の子がいいってなっても離れてあげられないです。」

 「ウン。」

 「ちゃんと嫉妬もしますし、めんどくさいですよ。」

 「ウン。」

 「それでも、俊亮さんがいいならまた会ってキスしてくれますか。」

 こらえていた涙が流れているのに、弘佑は嬉しくてたまらなくて笑顔も零れていた。少し間をあけて「ウン」と変わらずぎこちない返事をする俊亮の背中に、弘佑は思いきり飛びついた。

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アイリスが咲く空 鈴木茉莉 @mariSZK

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