第3話 走り梅雨、一粒め
陽太が秋人にスケッチブックを返した夜から三日、陽太は今まで以上に気合を入れて働いていた。通常の業務もこなしながら、手が空けば掃除できそうなところをピカピカに磨き上げた。汚いところはないか、掃除するところはないか、とまるで秋田のなまはげが子供を探すように手を動かし続けられる場所を探し続けた。秋人にキスをされた瞬間のことを思い出すと叫び出してしまう気がするから、できるだけ考えないようにするためだった。
「いらっしゃいませ」
バンブーチャイムが来客を知らせるたびに陽太は仕事が増える喜びを感じて、いつもの倍以上に愛想よく出迎える。次の瞬間、来店してきたお客の顔を見るなり陽太の笑顔は一瞬固まった。店に入って慣れたようにオレンジジュースを注文するのは、秋人だった。キスをしてきた張本人を前にして陽太の脳内はパニック状態だった。しかし今は仕事中だ。いつものようにオレンジジュースを手渡して、「お好きな席へ」と案内した。秋人は先日のことなんて何も無かったかのように、いつも通りのテーブル席に座って勉強道具をカバンから取り出していく。
「推しくん来たじゃん。」
店長が陽太に耳打ちするが、陽太はそれに反応する余裕もなかった。できるだけ秋人の方を見ないように仕事をするが、それでも気になるものは気になる。チラッとだけ見るとちょうど秋人が伸びをしていて、目が合いそうになった瞬間、陽太は慌てて視線を逸らした。
秋人はそれからも、今までと変わらない週に二回のペースでカフェに通っている。もう来ないんじゃないかと思っていたから、店に来てくれたことには安心していたが、結局あの夜になぜキスをしてきたのかわからないままだ。きっとあの時は情緒不安定だったんだろう。そして閉店後のカフェでなんかテンションが上がって……みたいな。クールに見えても高校生だから、そういうこともある。そうやって自分を納得させることにして、陽太も努めて平然を装った。
それでもすべてが元通りになったわけではなく、変わったこともあった。今まではほぼ目を合わせなかった秋人が、陽太の目をよく見るようになった。来店時も、会計時も、退店時も、秋人は少し陽太の目をじっと見てから「ありがとうございます」と微笑む。秋人のこの態度のせいで、陽太はいつになっても気持ちまではいつも通りにならなかった。
空気がジメジメし始めて梅雨がすぐそこまで来ている頃、陽太は秋人の不思議な態度に慣れ始めていた。近づくことや見る事も気が引けていたのに、今ではまた差し入れをのサンドイッチをサービスするようになった。スケッチブックに絵を描いている秋人がいるテーブルにサンドイッチを置いて離れようとした時、陽太の手が秋人によって掴まれた。びっくりして振り返る陽太を、じっと見つめてから秋人は口を開いた。
「陽太さん。」
名前を呼ばれてさらに陽太は目を丸くする。いつどこで自分の名前を知ったのか、なぜ急に名前を呼んだのか、たくさんの疑問が陽太の頭を支配する。
「ど、どしたの?」
「今日の絵、見てくれませんか。」
「え?あ、あぁ、いいよ。」
秋人からスケッチブックを受け取るときも、絵を見ている時も、視界の端から秋人の視線を感じる。それも秋人の絵を見ているうちに気にならなくなる。それほど秋人の絵は高校生とは思えないほど上手だった。
「やっぱり綺麗だなぁ。これってうちの店の照明だよね?ガラスって鉛筆で書くとこうなるんだね。」
秋人が描いたペンダントライトは、表面に梨地仕上げが施されたモザイクガラスを使った四角形の照明だ。複雑な反射をするガラスが繊細に描き上げられていて、ただ本物がデッサンされたのとは違う温かみがあるようにも見える。
秋人にスケッチブックを返して、陽太はお礼をした。
「見せてくれてありがとう。」
「また、見てくれますか。」
すぐにそう尋ねられて、陽太は嬉しくなって頷いた。それから秋人は週二日カフェに来て、そのうちの一日は陽太に絵を見せてくれるようになった。秋人はたまに絵の反省点をいって少し不貞腐れた顔をしたり、うまく描けたのか何も言わずに期待のまなざしで陽太の感想を待つときもあった。陽太は秋人の読みにくい表情の変化がだんだんとわかるようになった。
その日の閉店後の店内で、閉め作業中に店長が陽太に尋ねた。
「最近推しくんと距離近いじゃん。なんかあったの?」
その声色はカップルをおだてるようなもので、陽太は「特にないですよ」と笑った。店長はその後もふざけておだて続けていたが、急に声のトーンを落とした。
「陽太は、あの子のこと好きなの?推しじゃなく、一人の男として。」
「え?」
店長はいつになく真剣な表情で陽太を見つめる。陽太はすぐには答えられなかった。秋人が絵を見せてくれたこと、だんだんと秋人の表情が意外に豊かだったと知っていくことは嬉しかった。でも成人した陽太が、高校生の秋人を好きになるのは気が引ける。それに、陽太は自分が秋人と釣り合うとは思えなかった。
「言っちゃうけど、たぶんあの子は陽太のことが好きだよ。それに応えられないなら、思わせぶりな態度はやめな。」
言い方こそ普段と変わらないが、どこか釘をさすように店長は言った。
また秋人が来店した日、いつものように店が空いて手が空いたタイミングで秋人の絵を見に行く。秋人からスケッチブックを受け取り今日の絵を見ようとした時、陽太は絶句した。いつもはデッサン絵が描かれる白い画用紙には何も描かれてなくて、代わりに小さな文字でメッセージが書かれていた。
「今度シフトがない日に、一緒に出掛けませんか。」
いつもは陽太が感想を述べるまでじっと陽太を見る秋人が、肘をついて視線を逸らしている。正直嬉しくないと言ったら嘘になる。でも陽太の頭の中には店長の言葉が浮かんでいた。もし店長の言うことが本当だとして、秋人のこの誘いを受けてしまったら、それこそ思わせぶりな態度になって秋人を傷つけてしまうかもしれない。
どう答えるかグルグル考えているうちに、来客を知らせるチャイムが鳴った。陽太はスケッチブックをテーブルに置いて、対応するために席から離れようとする。それを阻止するように右手を掴まれて、振り返れば秋人が陽太を見ている。罪悪感で痛む胸を無視して陽太はその手を振り払った。
自宅のドアを開けて部屋の電気をつけて、寝室に辿り着いたところで陽太はスイッチが切れたようにベッドへ倒れ込んだ。疲れでそのまま目を閉じそうになるのをなんとか堪えて、雑に服を脱いでシャワーを浴びる。
脱衣所を出てスマホを見ると何件か不在着信の通知が来ていた。どれも俊亮からかかってきたもので、かけ直さずにドライヤーを手に取った瞬間、着信音が鳴った。陽太は深いため息をついて電話に出ると、たいそうご機嫌そうな俊亮の声が聞こえた。
「もしもし~?陽ちゃぁん、今日泊めて~?」
「ヤダ。」
「なんでよぉ、明日休みでしょ~?」
「何で知ってるんだよ。」
どれくらい飲んだのかわからないが、家に上げたら絶対面倒くさいということだけはわかる。陽太は断固として俊亮の申し出にNOを出し続ける。
「今日、銀行が休みだったんだよぉ……交通費がないんだよ……。何でもするからさ……。」
急に弱々しい声で言う俊亮に、陽太は頭を乱暴に掻いてから渋々了承した。
「ただし、静かにすること。大声出したらすぐにそこらへんに捨てるからね。」
つくづく自分は押しに弱いなと思い知る。陽太は冷蔵庫に残っている酒を確認してから、改めて髪を乾かした。
しばらくしてインターホンが鳴り、玄関のドアを開けると先程の通話時よりは落ち着いた俊亮が「よっ」と手を上げる。部屋に招き入れると俊亮はレジ袋から缶チューハイを何本か取り出した。陽太はそれを見て苛立ちを覚え、「お前」と低い声で俊亮に声をかける。
「あ、違うんだよ。これは宅飲みしてた奴らが押し付けてきたの。これ買って交通費なくしたわけじゃないから。」
「あ、そう。」
俊亮の口から繰り返される感謝と謝罪の言葉を適当に流して、陽太はロング缶二本だけを残して残りのチューハイを冷蔵庫にしまった。ミニテーブルを挟んで俊亮と向かい合って座り、オレンジサワーの缶を開ける。
「え、陽ちゃん飲むの?」
「飲んじゃダメなの?」
「いやダメじゃないけど。」
意外だと言いたげな俊亮の顔を横目に、頬が膨らむくらい大きなひとくちの酒を含んだ。そして何回かに分けて飲み込む。オレンジの甘みなんてすぐ消えて、アルコールの独特な苦みだけが口の中に残ってまずい。大人になってもこんなのを好き好んで飲む理由はわからないままだ。
俊亮とふたりで飲みながら、お互いの近況を報告したり過去のバカ話に声を必死に抑えて笑ったりしているうちに、陽太は秋人の名前を伏せながら俊亮に最近の出来事を話した。
「カフェに常連を雨宿りさせたことがあって、そこでその……キスされたんだよ。それから結構話すようになちゃって、でも店長に思わせぶりはやめろと釘を刺されて俺もその通りだなって思ったんだ。だから今日、出かけないかって誘われたんだけど、結構冷たく断っちゃってさ……。」
すべてを話し終えて、陽太は自嘲気味に呟いた。
「まぁ、いずれ俺が酷い人間だってわかるんだし、早い方がいいよな。」
俊亮は腕を組んで難しそうな顔をしたまま動かない。いつも適当なことばかり言う俊亮がこんな話に考え込むのは意外で、陽太は「話したかっただけ」と言って話題を変えようとした。
「なぁ、相手って男子高校生?」
「は?え?なんで?」
「もしかして秋人ってやつ?」
隠していたはずの名前を出されて陽太は思わず「はぁ!?」と大声を出した。俊亮が慌てたように口元に人差し指を当てて陽太を見る。陽太も焦って手で口を押えた。座り直して俊亮に向き合い、「説明しろ」と圧を送る。
「いや、話したら長いんだけどさ。」
俊亮が言うには、出禁になったきっかけである弘佑を怒らせた翌日に、下校中の弘佑を待ち伏せて謝罪したらしい。そこで弘佑からの提案で連絡先を交換して、後日俊亮がテーマパークへ誘い、実際に行って来たそうだ。問題はその日のことだ。
「それで帰り道でキスせがまれちゃって、自分の気持ち確かめたいからって。それで……。」
「待ってお前、もしかして。」
「しちゃった……。」
陽太は口をあんぐり開けて固まった。バカだとは思っていたが、まさか未成年に手を出すとは。衝撃で何も言えない陽太をよそに、俊亮は止まらなくなっていた。
「結局あいつが俺のことどう思ってんのかわかんないけど、それから会うたびにその、チューするようになっちゃって。でも俺もどうしたらいいからわかんなくて、そうやって会ってるときに秋人くんとお前の話聞いてたんだよ。詳しくはわからないけど、陽ちゃんに会ってから秋人くんの様子がおかしいって聞いてる。」
「ちょ、ちょっと待ってね。ちょっと考えさせて。」
秋人のことを俊亮が知っていることよりも、未成年に手を出した俊亮の方が大問題だ。考えを整理しようとすればするほど、余計に分からない。
「しゅん、お前相手が未成年だってわかってる?」
「わかってるよ。わかってるんだけど、俺もまんざらじゃないから悩んでるんだよ。」
「いや何やってるんだよ。」
「お前もチューしてるじゃん。」
「あれは、不可抗力だもん。」
言い合っていると少しだけ冷静になって、陽太は缶チューハイをあおった。陽太が持っている俊亮への印象は、女性を落とすまでは早くて振られてから落ち込むような恋愛のスタイルだった。あの弘佑と仲良くなったことは流石だなと感心したが、まだはっきりとした関係になる前に悩んでいるところを見るのは初めてだ。
「でもそれって、しゅんも弘佑くんのこと好きじゃん。」
「それを言うなら、お前もだろ。」
「え?」
「久我くんが言う、思わせぶりな行動って陽ちゃんの気持ちが伴ってなかったらって話でしょ?でもこんだけ悩むってことは、少なくとも秋人に気持ちがないわけじゃないじゃん。ならお互いを知ることくらいはしても問題ないと思うけど。」
陽太は考え込んだ。自分の気持ちが秋人に向いているかもしれない。秋人の言葉や行動が忘れられないのも、秋人が気になっているからかもしれない。でも陽太はどうしても、秋人の気持ちに応えられない理由があった。
「好きかもしれないけど、でも無理だよ。ふさわしくないもん。」
陽太は空き缶を握って軽く潰し、自分に言い聞かせるようにそう言った。
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