カミーユ・モネの残像

犀川 よう

カミーユ・モネの残像

 いつぶりだっただろうか。クロード・モネの「死の床のカミーユ」という絵を思い出した。散歩帰り。なんとか歩き始めた親戚の子がわたしに抱っこを要求してきて、抱えてやった後に見上げた薄暗い空の色が、モネの妻カミーユの死にゆく顔色に似ていたからではないかと思う。刻々と夜に向かって暗くなってゆく空の悲しいまでの儚なさが、わたしの中に僅かに残された絵画の記憶というアルバムを、静かに捲らせたのかもしれない。


 同時に、わたしはそんなモネの絵のことを教えてくれた、かつての恋人を思い出した。互いに結婚も考えていながら、若くしてすい臓がんで亡くなってしまった人だ。美術に特段詳しいわけでもないのに、よく美術館や図書館にわたしを連れていっては、彼のお気に入りの画家について話をするような人だった。ルノワールから始まりゴッホやピカソなど、美術に疎いわたしでも名前は聞いたことがあるような有名な画家の作品。それらが載った雑誌や美術書を持ってきては二人で眺めていた。当時のわたしには、それらの色使いや陰影や構図にドラマがあることなどわからなかったが、彼は家に戻った後も、そのことを一所懸命に説明をしてくれた。自分のことをあまり話さない慎ましい人で、口から出てくるのは、ドラクロワの光の使い方の素晴らしさやモネが貧困に苦しんでいたことなど、絵画にまつわる話ばかりであった。


 わたしは美しく暖かな光に満たされた美術館であろうとも、闇の中で手さぐりに愛し合うベッドの中であろうとも、彼が絵画の話をするときには何か意味にがあるのだろうと思い、黙って聞いていた。彼の説明の中には彼自身を象る真実が隠されていて、きっと何かをわたしに伝えようとしているのだと思い、神よりの御言葉を受け取る気持ちで耳を傾けていた。今振り返れば、彼はこの時にすでに病に侵されていたのかもしれない。彼なりの困惑と恐怖と愛情が混ざった気持ちをわたしにうまく伝えられなくて、ずっと絵画の話をしていたのかもしれない。そう思うと、今でも胸が張り裂けそうな気持ちになる。


 彼が亡くなる数日前、彼は病室で一枚の絵画について語り始めた。それが「死の床のカミーユ」という絵で、モネの妻カミーユのを描いたものであった。そんな深刻な状況でありながらその絵は悲しみからではなく、自分の妻が死に至る際中だというのに、妻の死んでいく色合いに魅せられて描いたものであるという。当時、モネには別の女もいたようで、純然たる愛情で描いたのでないことは想像できるとしても、自分の妻の色の変化に画家としての興味を優先させたことに、当時のわたしは理解ができなかった。そんなわたしに対して、何故彼は「死の床のカミーユ」の事を話したのか。まだわたしが小説を書き始めて日も浅く、己が才能の無さに七転八倒していた頃だ。結局、彼は最後までその理由をわたしに告げることなく、この世のどこにもない灰色の絵画となってしまった。


 本当は、当時のわたしも理解していたのかもしれない。カミーユの死に際という最後の時間に対し、画家の魂と複雑な愛情を燃え上がらせたモネのように、「君も何かを表現してみたらどうだ」と言っていたのかもしれないことを。でも、わたしには無理だった。土色に沈んでいく彼を見る度に、胸がナイフで刺されたかのように痛み、彼の両親や姉の手を握りしめて悲しみを共有することしかできなかった。彼の散りゆく様を、一人の小説家として記録または表現することなど、到底できなかったのだ。カミーユのような顔色になる中、わたしは彼が静かに動かぬ絵画になっていく様を、ただ悲しんでいることしかできなかった。


 それ以来、死を軽々しく扱う小説に出会うと、カミーユの死に顔を思い出すようになった。そして、今も「死の床のカミーユ」を思い出しては、その気楽な表現に呆れ、かつ、自分はからも逃げてしまっていることに絶望するのだ。だから、死について語る小説を読むことも書くことも、わたしにとっては辛い記憶への回帰なのである。


 だけどもし、今の夫が死ぬ際にわたしが何かをしてあげられることがあるとしたら、彼の死に至る様を、言葉として、あるいは小説として、残してあげることではないかと思っている。わたしには絵を描く才能はないが、下手くそなりに言葉を紡ぐ能力がある。夫も病気で亡くなっていくのであれば、カミーユのような、彼のような、えも言われぬ土気色をしてこの世を去っていくのだろう。いつか夫に「死に際を書いてほしいか」と尋ねる日がくるかもしれない。できるだけ遠い未来のことであってほしいが、来ないという結論は存在しない。

 だから、わたしは今のうちに小説の中で泣ける程度の死を書いて、練習しておく必要があるのかもしれないと思っている。思ってはいながらも、その行為から目を逸らしている自分がいることを許していて、「死の床のカミーユ」のカミーユの顔色を思い出しては、ただ彼の残してくれた最後の愛のメッセージに、一人、泣きたくなるのであった。

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