愛する人

蛇蝎

愛する人

 外で子供が元気そうに話している声で目が覚めた。時刻は7時33分。アラームがなる7分前だ。僕は伸びをして目を擦る。

『あなたー!朝ごはんできてるわよー!あいちゃん服着替えよっか〜』

 リビングの方から妻、叶笑(かなえ)の声が聞こえて体を起こした。

 妻は娘の愛叶(あいか)の面倒を見てくれているようだ。


 僕は、先月に入院をして1ヶ月後に退院。

 その2日後、現在はライターの仕事に復帰し会社にも出社している。

 仕事仲間には「大変だったね」や「無理しなくていいから」などと気を使わせてしまっている。正直、まだ思うように手が動かなかったりすることも多々あるので時々助けてもらっている。

 医者によれば、まだ充分に完治していないようなので自宅で安静にしなさいと言われているが、妻と娘を養うのが僕の役目だ。これくらいのことで仕事を休んではいられない。


 朝食を摂り終えた僕は、ネクタイをしめてカバンを持つ。

「じゃ、行ってくるね。18時には帰ってくるよ」

 妻にそう言うと、彼女は微笑んだ。娘も同時に笑顔で手を振った。

 2人に行ってきますと伝えて家を出る。

 こんなにも愛おしい2人が待つ家に帰ってこられるなんて、僕は本当に恵まれているとつくづく思う。

 頭上には灰色の空が広がっているコンクリートの街。同じようにスーツを着た男女が各々の向かうべき場所へと向かっている。

 数十分歩けば会社のエントランスに到着する。出社してくる人は数え切れないほどにいるのでエレベーターはいつも満員だ。病み上がりの体では階段を登るのも億劫で、エレベーターを待つことにした。

 今日は残業なく帰れたらいいな。1秒でもはやく家に帰って妻と娘に癒されたい。そうだ、帰りに娘が好きだと言っていたチーズケーキとオレンジジュースを買って帰ろう。あと、妻お気に入りのリンゴのスパークリングワインも。


 そんなことを考えていれば、後ろから声をかけられた。

「森下さん、おはようございます」

「あぁ、宮前くん。おはよう」

 僕の1年後輩である宮前くんだ。確か彼はまだ独身だったように思う。週2回、合コンに出向いては振られ…を繰り返している。

「昨日復帰したんですよね。大丈夫なんですか?まだ1ヶ月しか経ってないしその上完治してないとか聞いたんですけど…」

「大丈夫だよ。僕も長いこと休んではいられないからね。時々迷惑をかけるだろうし、先に謝っておくよ。すまないね」

「いやいやそんな。迷惑なんかじゃないですよ。…俺にできることがあれば言ってください!」

 元気の良い彼に申し訳なさを感じて苦笑する。

 会話の弾んだエレベーターの箱から降りて、自分のデスクへと向かう。宮前くんは、必要な書類を取りに行くと言って保管庫へ向かった。

 僕は自分のデスクに着くとカバンを降ろして必要な書類等を広げる。

「森下くん、おはよう。体調はどうかな?」

「部長、おはようございます。万全ではないですが、みなさんに迷惑をかけていられませんので…」

「うーん。どうも君は気に負いすぎる。無理をしてはいけないよ」

「はい。ですが、大切な家族のためにも頑張らないとですから」

「家族…。あー…。そうだね。本当に大変だったね…。私にもなにか手伝えることがあればいつでも言ってくれ…」

 彼は、僕が配属された日からずっと面倒を見てくれている部長だ。この人は本当に優しくて、失敗をしても褒めてくれる。とても頼れる人だ。


 愛おしい妻と娘を密かに思い浮かべていれば、時間の流れは一瞬で、終わりを知らせる部長の声が聞こえてきた。

「さ、みんなもう帰る時間だよ。残った仕事は明日すればいい」

 なんとも出来た上司だなとつくづく思う。

「森下くん。君はまだ通院しているんだよね」

 凝り固まった肩を、伸びをして解していれば部長が話しかけてきた。

「あぁ…。それが、来いとは言われてるんですが行けてなくて…。行く気にもなれなくて…」

「そうか…。一度先生に診てもらった方がいい。もしつらいなら、有給でも取ればいいさ。私たちには迷惑にならないから…」

「ですが、やはり動いている方が楽なので」

 僕がそう言うと、部長は困り顔でこう続けた。

「あまり無理はするなよ。帰ったら線香をあげて、お前はゆっくり休みなさい」

 僕は首を傾げながらも「ありがとうございます。お疲れ様でした」と言って歩みを進めた。

 1階行きのエレベーターを降りればそこには宮前くんがいた。ちょうど彼も帰るところだ。

「宮前くん、お疲れ様」

「あー!森下さん!今日も忙しかったけど、部長のおかげでなんとか定時で帰れますよ〜」

「ははっそうだね。部長も君のこと気にかけていたよ。世話のかかる子だけどよく頑張ってくれるって」

「そんなこと言ってくれてたんですか!?世話がかかるはちょっと酷いですけど、めちゃくちゃ嬉しいです…!明日も頑張りますよ!」

「そうだね。僕も頑張るよ」

 熟したブルーベリーのような空から小雨が降っていることに気づいて、ビニールの傘を広げる。

「森下さんは休んだ方がいいと思いますけどね〜。あんなことがあってよく復帰できたなと思いますよ」

「うーん。まぁ僕も大切な家族のために頑張らないとだからね」

「家族?あー、ご両親とかご兄弟ですか?ご実家に帰られてるんですね」

 彼は納得したように優しく微笑んだ。だが僕は少しの疑問を抱いてしまう。

 実家に帰ってはいないし、兄弟は海外出張中で両親は田舎でのんびり過ごしているのだ。

「今までと同じマンションで暮らしてるよ。実家にも帰ってないよ」

「じゃあ家族って…?再婚でもされたんですか…?そりゃあんなことがあったあとじゃ、誰か傍にいてほしいですもんね…」

 彼はなにを言っているのだろうか。

「あれ、君はまだ会ったことなかったかな…?そうだ、これから家にくるといいよ。どうだい?」

「え、いいんですか?じゃあお言葉に甘えて!」




 帰り道にある小さなスーパーで、娘の好物であるチーズケーキとオレンジジュース、妻の好物であるリンゴのスパークリングワインを買った。

 そう言えばと思い出し、となりの花屋で買った白いカーネーションを抱えながら、彼と他愛ない会話を続けた。

 家に着く頃には雨は激しくなり、少し肌寒くなっていた。

「ここが僕の家だよ」

「立派なマンションですね!奥様と娘さんがいるんでしたっけ?いいなぁそう言う家庭」

 彼は満面の笑みを浮かべて羨ましそうにそう言った。

「叶笑ちゃん、後輩を連れてきたよ。宮前くん、この方が僕の妻だよ」

 愛おしい妻を呼べば、娘と共に廊下へと出てきてくれる。

「…え?あの…」

「そしてこっちが娘の愛叶。かわいいだろう?まだ3歳なんだ」

「あの、森下さん…」

 彼は小声で僕に呼びかけた。

「妻は僕の1つ下で、高校のときの後輩なんだ。笑顔が素敵な人なんだよ」

 僕は淡々と言葉を連ねていく。

「娘はこの間、保育園に入ったばかりなんだ。毎日、今日もみんなと遊ぶんだって楽しそうに行ってるよ」

「あの!森下さん…!」

 そこで宮前くんは大きな声で僕を呼んだ。

「森下さん…」

「なに?どうしたんだい。そんな大声をだして。娘がびっくりして…」

「森下さん。娘さん、どこにいるんですか」

「え?何を言って…」

「さっきから奥さんとか娘さんとか、何言ってるんですか。壁の方指差して。そこには誰もいませんよ」

 大きな雨音が静かな部屋に響いた。



「部長」

「あぁ、宮前くんか」

 後日、宮前は出社と同時に部長の元へと駆けつけた。昨夜のことを端的に説明すれば、少しの間その場には沈黙が広がった。

「…そうか…。そうだったのか…。彼には、亡くなったはずの奥さんと娘の幻覚が見えてたのか。そうか…」

 部長は椅子に座り、ゆっくりと頭を抱えた。

 昨夜、森下と宮前しかいない部屋の中で、森下は壁の方を指差し、妻と娘の紹介を宮前にし始めた。だが、もちろん妻の叶笑も娘の愛叶もそこにはいなかった。


 1ヶ月半前。春の爽やかな風がゆったりと吹く午後での出来事。森下と叶笑と愛叶の3人で人気のない近所のカフェまで歩いて出かけていたその帰り。

「あいちゃん、喉乾いたか。叶笑、ちょっとジュース買ってくるよ」

「分かった。じゃあここで待ってるね」

 太陽が照りつける下、愛叶は喉が渇いたと駄々をこね始めた。

「あ!ママ見て!ちょうちょ!黄色のちょうちょ!」

「ほんとだね〜。かわいいね〜。あ、こら手放しちゃダメよ。危ないから追いかけちゃダメ」

 愛叶に叶笑の言葉は届かず、黄色い蝶々をおぼつかない足取りで追いかける。

「ちょうちょ、まって!ちょうちょ!」

「愛叶、まって」

 爽やかな風は愛叶と叶笑の服や髪を緩やかになでる。

「きゃはは!」

「あ、愛叶!だめ!待って!止まって!」

 止まってと言われると止まりたくなくなる。これは幼児の性なのだろう。

「やだぁ!ママ追いかけてー!」

「ダメ!ダメよ!そっちは行っちゃダメ!お願いだから止まって!」

 愛叶がいるその向こう側に見えるのは、たくさんの菜の花を両脇に置いた線路だ。

「ん?止まったよ。ママはやく来てー!」

 自身の止まった場所がどれだけ危ない場所かは、幼い愛叶には分からなかったようだ。

「ダメダメダメ!そこで止まっちゃダメよ!」

 愛叶が止まった線路の上。遠くの方で電車の音が聞こえる。

 ガタンゴトン

 その音は瞬く間に近くに聞こえ、もうすぐ側まで来ていた。

「あいか!」

 叶笑は走って愛叶のところまで行き、抱きかかえて線路から立ち去ろうとした。

 神はなんて悪戯好きなんだろうか。履いていた薄いサンダルで線路につまずき、叶笑は横転した。

 ガタンゴトン

 カンカンカン

 転んだ拍子に足首を捻り、立てなくなっていた叶笑に電車はどんどん近づいていった。

 森下は、待ってると言われた場所に2人がいないことに気づいて探し回っていた。やっとの思いで見つけた頃には、妻と娘が電車に轢かれていた。

 春の爽やかな風は、妻と娘の血腥い臭いと花の甘い香りを混ぜながら森下の服と髪をそっと撫でた。


「森下は、奥さんと娘を電車の人身事故で亡くしたんだ。それが相当ショックだったんだろう。娘が最近、保育園に行き始めたって嬉しそうだったのに…」

 部長は1ヶ月半前の出来事を宮前に話した。

「そうだったんですね…」

「あぁ。事故があった数日後に、森下は自殺を計ったんだ。家のベランダから飛び降りたらしいんだがそれも未遂に終わり、手と足を骨折して入院したんだ。その間も精神科のカウンセリングは受けてたらしいが…」

「確か退院してからは行ってなかったんですよね…」

 2人は深くため息をついて、もっとはやくに気づいてやればよかったと自分を悔やんだ。

 森下が買っていたチーズケーキやスパークリングワインなどは、森下と一緒にいた宮前の手によって妻と娘の仏壇に供えられた。

 森下はそのとなりで静かに泣いていた。





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愛する人 蛇蝎 @dakatsumiki

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