【短編】竜の降る町

葦原 聖

竜の降る町

紫雨しぐれが言い出したんだよ? ここまで来ておいて、なんで帰るだなんて言うのさ」


「そうだけどさ、あんな風に言われたからムキになって……。それに見間違いだったんだよ、きっと」


 一日中走り回ったせいか溜まった疲労に重たい身体を支えながら、息も絶え絶えになって紫雨は言う。


 しかし、そんなことでふんすと鼻息を荒くしたすばるの意見を翻すことなど出来ないと分かっているが、紫雨としては口にしない訳にはいかなかった。


「ほら、行くよ。あっちに降ってきたって言ってたよね?」


「待って、昴……。もうちょっとゆっくり……」


 「ああ、もう。」と紫雨を引っ張り始める昴の姿を見て、紫雨は既に今日何度目か分からない後悔を抱き始めていた。


 ——竜だ、竜が降ってきた。


 昴の言う通り、最初にそう言い出したのは紫雨の方だった。


 おばあちゃん子だった紫雨は、祖母から色々な話を聞かされて育ってきた。そうした中で子供心に一番惹かれたのが、竜にまつわる話だった。


 祖母曰く、この町——高竜町には古くから竜が降るという伝承が伝わっているという。しかし、祖母が幼い頃には既に見られなくなってしまった現象であり、ここ数十年には目撃されたという話すら聞かなくなったと悲しそうに語っていた。


 子供心というものは単純なもので、繰り返し語り聞かせられた紫雨にとって、竜が降るというのはどこか身近なものとなっていたのだ。


 だからこそ、いつかは降る竜を見つけてやると意気込んでいたのだが、そんな中紫雨を揺るがす大事件が起きたのだった。


『——俺のじいちゃんがやっとの思いで手に入れた本物さ。この町に降ってきた竜のうろこだぜ』


 その言葉の発信源は、日頃紫雨と昴を目の敵にしているクラスメイトだった。


 普段なら紫雨も相手にしない自慢げなせせら笑いも、内容が内容だけに無視することが出来なかった。


 売り言葉に買い言葉、気が付けば紫雨は昴とともにうろこなんかじゃない本物の竜を見つけ出すことになってしまったのだった。


 しかし既に何十年と見られなくなってしまった現象だ、そうやすやすと出会えるということがあるはずもなく、一日は徒労に終わり二日目の夕方に差し掛かったところで——、


『……あれ、なんだろ?』


 紫雨が空から落ちる軌跡を見つけたのだった。


 『竜だ!』、そうどちらからともなく声を上げると、顔を見合わせ落下地点と思われる降竜山へと足を運んだ。そうしてこの瞬間に至る。


 最初はやる気に満ちていた紫雨だったが足は痛いわ、虫は湧くわ、終いには日も暮れ始めてくるわで帰りたくなってしまっていたのだが、紫雨にも意地があった。


 とりあえずは行けるところまで行ってみようと自分の中で妥協点を作っていた。


「この山だと思ったんだけどなぁ」


 ついには昴からも弱音じみた言葉が出てきた時、ほの暗くなってきた視界の中で紫雨の眼がかすかな光を捉えた。


 「あそこだ。」、直感的に紫雨はそう判断し、膝に手を付いている昴を促して茂る草木をかき分ける。


 期待に胸を膨らませる二人の目の前に広がった光景は——。





*****





 紫雨は十年ぶりに地元へと帰ってきていた。


 地元に留まっていた昴とは異なり、紫雨は中学への進学と同時に高竜町を離れていた。


 その頃にはなかったオシャレなカフェで待ち合わせをして、メニューから手ごろなものを頼んで一息ついたところだった。


「久しぶり……って言っても何だかんだ定期的に連絡はしてたし、たまに昴が遊びに来てたりもしてたからそんな気は全然しないなぁ」


「紫雨はどんだけ言ってもこっちには戻ってこなかったしね。まあ、都会の方が便利で楽しいのは否定しないけど」


 他愛もない雑談を交わしながら、長く離れていた郷愁もあってか、話題は次第に子供の頃のものへと移っていく。


「そういえば、二人で見に行ったアレ、覚えてる?」


「……アレ? 何だっけな」


 悪戯っぽく笑う昴の言葉に思い当たる節のなかった紫雨は首を傾げる。最初は「うそだぁ。」なんて揶揄っていた昴だったが、紫雨が本当に覚えていないらしいと気付き、驚いたように説明する。


「竜だよ、竜。この町の唯一と言ってもいいくらいの名物だったじゃん」


「——竜」


 確かにそう言われればそうだったよな、と思い至る。


 小学生の頃、祖母の影響であれほど焦がれていたものだったばっかりに、「どうして今まで忘れてしまっていたんだろう。」と愕然とした気持ちに苛まれる。


 そんな紫雨を気遣ってか、雰囲気を変えるようにちょうどそのタイミングで運ばれてきたスイーツを大げさなまでに喜んで見せた。


「まあ、紫雨も都会に行って忙しかったんだろうし、そんなにおかしなことでもないけどね。そうだ、竜と言えばそれで思い出したんだけどだ、——くんのこと覚えてる?」


 懐かしい名前だった。小学生の頃、紫雨たちのことを良く思っていなかったクラスメイトだ。昴がその名前を出したのは、彼が竜を見たと吹聴していたからだった。


「そんなこともあったなぁ、今思い出してみると、お互い幼稚だったなぁ」


「そうそう、あの人ももう結婚して子供もいるんだよー? びっくりだよねー」


「結婚——子供!? い、いや別に驚くような歳でもないか……。それにしても、そうか……」


 予想外の方向から飛んできた事実に若干思うところがあるものの、久しぶりに聞く面々の近況は懐かしさも相まって話に花を咲かせていた。


 そうして三つ目のデザートが口の中へと消え去ってしまった頃、ふと思い出したかのように昴が切り出した。


「そうだ、高竜山に行かない?」


「また突然な……。そんな急に言われても、今から山に入れるような恰好じゃ……ないこともないけど」


 幸いなことに紫雨も、言い出した昴もラフな服装をしていたため、このまま山に入れと言われても「ちょっと面倒だな。」、なんて気持ちが湧いてくるくらいだった。


「せっかくだしいいじゃん。竜、見に行こうよ」


 昴のそんな言葉を皮切りにカフェを切り上げ、あまり気の乗らない紫雨は昴に追い立てられるまま車に乗り込んだ。


 紫雨も免許を持ってはいるが、いまいち使う機会がないまま数年経ってしまっていたため、運転席には昴が座る。

 「運転してみる?」と冗談交じりに提案されたものの、冗談じゃない結果になりそうだったため丁重にお断りしたのだった。


「……この辺りも本当に懐かしいな。でも、やっぱり結構街並みも変わってる」


「そうだねー、住んでても気が付いたら店が無くなったりしてびっくりすることもあるくらいだし、紫雨だともっとだよね」


 自分が育った街並みが時間と共に移り変わっていく、当然なこととは言えどこか物寂しさを感じずにはいられなかった。


 いくらか車を走らせると、紫雨と昴は目的の高竜山に辿り着いた。


 子供の頃にはこれほど大きな山は他にないだろうと思えた高竜山も、今になってみるとそれほどの標高もなく、ハイキングにうってつけと言った具合だ。


「どうせなら足で登る?」


「せっかくここまで来たしね。そんなに暑くもないし」


 そんな風な会話を交わしながら二人は山道を歩く。スニーカーが土を踏みしめる音がひどく懐かしい。どこからか聞こえてくる虫の声も、風にそよぐ木々の囁きも、地元を離れてからはほとんど感じられなくなっていたものだ。


 久しぶりな感覚に知らずきょろきょろと視線を巡らせる紫雨とは異なり、昴は楽しそうな表情を浮かべるのみだ。


「昴はあれからこの山には来たの?」


 ふと思い立ち、紫雨はそう尋ねる。


「……一回だけね、でも竜のところまでは行けなかったんだよね」


「ふーん?」


 どこか含みのある言い方に引っ掛かる部分はあるものの、長年の経験でその態度には拒絶の意を多分に含んでいると見て取った紫雨はそれ以上突っ込むような真似はせず、しばし二人の間に沈黙が流れる。


 この十年で紫雨が色々な経験をしたように、昴もまた酸いや甘いをその身をもって味わってきた、そういうことなのだろう。


 記憶というのは不思議なもので、忘れ去ってしまっていたと思う事柄であっても、副次的なもの——例えば五感に関わる情報によっていともたやすく想起されるのである。


「——ここ、あの時通った道だ」


 それはひどく直感的なものだったが、紫雨にはそう思えた。昴は「そうだっけ?」だなんて言っていたため、とたんに自信がなくなってしまうも、他に道しるべがあるわけでもなく紫雨を先導に二人は先を進む。


「てか、昴が行こうって言ったのにどうして道が分からないのさ」


「いやぁ、思いつきで話すの、直んないだよね」


「昴……、自覚がある分たちが悪いよ……」


 てへぺろと舌を出す昴に溜息を吐きながら、紫雨は前を遮る木々をかき分けた。舗装された道もあるにはあるが、思い出してきた記憶の中ではそうした綺麗な山道を通った覚えはない。


「うーん、もうちょっとだと思うんだけどなぁ」


「そんなに長く山の中にいた覚えもないしね——あ、あそこじゃない?」


 昴の指す方向に目を向けると、確かに見覚えのある看板が見えた。


 【この先、立ち入り禁止】とそう書かれたものだったが、管理を放棄されているのか看板の塗装のほとんどが剥げてしまっていた。


 それを見て紫雨は再び過去の情景を思い出す。子供の頃の紫雨はこの看板を見て、やっぱり引き返そうと昴にしがみついたものだった。もちろんそんな抗議で意見を変えるような子供じゃなかった昴に無理やり引きずられたのだが。


「……なんだかいらないことまで思い出してきちゃったよ」


「——? ほら、何してるの紫雨。先行こうよ」


 紫雨の気持ちも何のその、昴は目の前まで来た目的地に夢中なようで早く来いとばかりに手を振る。最近は落ち着いてきたんだろうな、なんて思っていた一時間前の自分を紫雨は叱りつけてやりたい気分だった。


 ともあれ、このちょっとしたハイキングも終わりに近付いてきたのは確かだ。紫雨もまた童心に帰るようにワクワクとした気持ちが湧き上がってくるのを自覚していた。


「いえーい、一番乗りー」


「こんな山道で走ったら転ぶよ」


 「あの先だ……。」、紫雨がそう呟くや否や昴が駆け出した。中学、高校と運動部だったという昴は持ち前の運動能力を発揮してひょいひょいと軽い足取りで生い茂った草木の向こう側へと姿を消していく。


 一つ溜息を吐いて、紫雨は昴の後を追った。


 現在と過去、記憶と光景が同期していく。


 そうだった、あの時もこうやって先を行く昴の後を——。


「あ———」


 荒れ放題だった先ほどまでとは異なり、目の前には開けた空間が広がっていた。


 その中央にあるのは天を衝くほどの大樹だ。山の守り神もかくやという程の威容に知らず紫雨は息を呑んだ。


 そんな紫雨の感動を置き去りにするかのように、一足先にこの空間に飛び込んだ昴は既に大樹の根本へと辿り着いていた。


「こんなだったかなぁ……こんなだったかも?」


「昴ももうちょっと感動とかいうものをだなぁ……」


「木なんてそんな珍しいものじゃないし。それより見て、紫雨。あれ——」


 文句を言いながら追いついた紫雨を促すように、昴が大樹の根を指差した。


「すごい根だな、普通の木の幹ほどもある」


「そうじゃなくて、この根さ……こうして見るとまるで竜みたいじゃない?」


 昴は手で四角を作りそこから眺めながらそう言った。


 まさか、と鼻で笑い飛ばそうとした紫雨だったが、生命力溢れる根が持つ自然な流線形にその気持ちが引っ込んでしまう。


「……こんなものか」


 そう呟きつつスマホで写真を取っている昴の姿を尻目に、紫雨は在りし日に思いを馳せる。


 あの日に見たものは果たして竜だったのだろうか。今となってしまってはそれは定かではない。


 今はもう『言われてみれば』、なんて程度でしかないものも子供の頃の紫雨にとっては世界を揺るがすほどの大事件だったのだ。


 それからしばらく自然を満喫し、二人はどちらからともなく下山を提案する。


「……本当はさ、結構苦しかったんだ。あっちで色々あったばっかりだったから」


 赤い木漏れ日に目を細めながら、紫雨はそう零す。


 「バレバレだよ。」、だなんて昴は笑っていた。


 いつかの幻想を見て、胸に湧き上がるものがあった。両親の転勤を機に挑戦する機会を得た。気が付けば何のために仕事をしているのか、分からなくなってしまっていた。


 あの日見た光景を胸にどこまでも進んでいけると、そう思っていたのに。


「——ほんとだって、竜が降って来たんだ」


「ええー? 何かの見間違いだよ、そんなことよりサッカーしようー」


 車のところまで戻る道中でそんな声と共に数人の子供を見かけた。


 茜色の空の下、山へと駆け出すその光景にいつかの紫雨と昴の姿が重なって見えた。


 ふと隣に目を移してみれば昴もまた同じようなことを考えていたのだろう、懐かしそうに微笑んでいた。


「こらー、子供だけで今から山に入るのは危ないでしょうが。悪いことは言わないから、明日にしな。明日も休日でしょ」


「え~」


 文句を垂れる子供たちを言い宥めて岐路に着かせる昴。さすがに小学生の扱いには慣れていた。


「……昴も頑張ってるんだね」


 子供たちの背が見えなくなるまで手を振っている昴の姿になんだか嬉しくなって、紫雨はそう独りごちた。


 きっと彼らは明日にでも山へと足を運び、そしてそこで竜を目撃するのだろう。


 それが紫雨たちが目にしたものなのか、それともまた別のものなのか。


 だが、今になって紫雨には悟ったことがあった。結果はどうでもいいのだ、と。


「今にしか見えないものがあるように、あの頃にしか見えていないものもやっぱりあるんだろうな」


 見上げた夕焼け空に、きらりと光るものを見つけた気がした。


 一番星なのであろうその光は、いつか見た軌跡の始まりの光によく似ていた。

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