第17話 生死の左右

「どうかな。その後、西の城の居心地は」


 隣に坐す趙雲が、和やかに問いかける。

 正午過ぎ。邸にある院子にわの石坐で、広元は趙雲ちょううんと久々にゆっくり語る時間を得ていた。


 十一月に入ったにもかかわらず、この日の陽射しは、身をひととき優しく暖めてくれる穏やかさである。再来月の年明けと共に迎える春の訪れをも、連想させる冬晴れだ。


「子玖のおかげで、ずいぶんと待遇よくしていただいています。思いがけずの招き、一介の書生には、もったいないばかりです」

「はは、ならば良かった。少々強引だったかと案じていた」


 出会った時と変わらぬ、武人らしい精悍せいかんな面が作る趙雲の笑顔に、広元もつられて笑む。


「諸所では戦の絶えない折。このような平穏のありがたさは、まさに身に沁みます」

「広元どのは幼い時分に穎川えいせんで育ったのだったな。戦乱を避けて、荊州に移住したと」

「ええ……安住の地でなくなったのは、今や穎川に限ったことではないのですが」


 広元は、襄陽じょうよう移住前の己の故郷、州潁川郡(河南省中部)への憶いを巡らせる。


 広元の一家が、多くの潁川住民と共に故郷脱出を余儀なくされたのは、潁川近辺で頻発する擾乱じょうらんから逃れるためであった。


 しかして、広元一家の移住から二年後。

 潁川に残留していた人々は、かの暴君、董卓とうたくの軍により、いわれなき凄惨事件の憂き目にあうことになる。


 その日はたまたま、二月の祭でやしろに住民が集っていた。そこに突如、董卓の兵が乱入したのだ。

 兵らは民の男達をことごとく首斬り財産を略奪、婦女を婢妾ひしょうとしてさらった。


 それでも足りなかったのか、斬った首級を車に飾り立て、『賊を片付けたぞ!』などとわらいながら、意気揚々と長安へ凱旋したというのである。

 もはや軍隊でも何でもない、おぞましい気狂い集団でしかない。


 事件を知る趙雲も、憤りを込めた不機嫌口調を吐き出す。


「董卓一派の類を見ぬ専横は、わたしも当時、方々から聞き及んでいたが……酷いものだ。一旦走り出した暴走は、あれほどに止められぬものとなるか」

「……まことに」


 いったいどれほどの惨状であったか。想像することさえ、恐怖ではばかられる。


「もし直前の脱出選択を実行していなかったら、ぼくの家族も知人達も、今頃は野に骸骨がいこつさらしていたでしょう」


 穎川に残った友人知人達の内、いったい何名が生き延びていてくれているだろう。

 確認する術も、広元にはない。


 あれから六年。

 董卓はちゅうされ、戦乱に塗れていた潁川は、現在、天子を擁した曹操によって、雒陽らくように変わっての新都となっている。


 ———— 乱世時流はそれほどに、一寸先がわからないということか。


 寸分の選択差で生死が左右されるのだ。これでは名も無き人命など、どうしたって軽く扱われがちになる。


「この先、また過去のような時代に戻ってしまうのでしょうか」


 眉宇を曇らせ、広元はぽつり、呟いた。


 人の歴史とは、戦の歴史でもある。

 四百年前に、秦王・嬴政えいせい(始皇帝)が初の全土統一を成し遂げるまで、天下は五百年間も戦国期を続けていた。

 その戦乱を終わらせた秦。……しかし、始皇帝の秦朝は短命であった。


 直後に劉邦りゅうほうの樹立した漢王朝は、いっとき叛乱はんらん王朝に乗っ取られた経緯はあったものの、実質的には、初の長期統一政権となっている。

 漢が築き上げた治世四百年。それが……ここで本当に終わってしまうのだろうか……?


 そんな暗い話題に、広元が浸りそうになったときだ。

 彼はつと、足先に違和を覚えた。


「……?」


 のぞいた自身の足元。


「おや。猫?」


 そこにいたのは、一匹の痩せた白猫。

 広元の見知らぬ猫であるのに、人懐こいのか、白猫はくねくねと身をしならせ、広元の衣服に全身をすり寄せている。


「どうした、おまえ」


 広元は白猫の小さな頭をで、慣れた手付きで手元へと抱え上げた。


〝ネーウ、ネーウ ……〟

 腕中で甘え声を放つ痩せ猫の毛並みを、広元は優しげにでならす。


 毛色は真っ白ですべらか。ただ、片後ろ足が不自然に曲がっていた。古傷だろうか、赤みを帯びた痛々しいきずもある。


「どこかで怪我したのか? これは痛かったろう」


 猫相手に話しかけている広元、ふと視線を感じて隣を見遣る。

 趙雲が、瞳を白目に浮かせるほどに開いた眼で、広元を見つめていた。


「! ……あ」


 自分の所作があまりに男子らしくなかったかなと、広元は遅ればせに恥ずかしさを自認する。


「その……猫はお嫌いでしたか」


 場をつくろっての照れ笑い。


「いや、特にそうではないが」


 趙雲の苦笑気味な面様おもよう


「そうではないが……小さな動物は緊張する」

「緊張?」

「柔らかいし小さすぎて、気付かず踏み潰したりすれば簡単に死んでしまうからな。人の赤児も同じだが……加減がわからんから苦手だ」


 巨漢に似合わず、困った風に肩をすぼめた。


「は、なるほど」


 広元は顔をほころばせる。

 言葉の裏に隠れた、趙雲の本質的な優しさを感じたのだ。


「この猫、飼い主がいますね。ほら、ひも首輪がついてる。鈴か何か、付いていたのかもしれません」

「はあ。そうなのか?」


 生返事に、広元はまた、くすりとしそうになる。

 どうやら趙雲、小動物は真面目に不得手らしい。

 なるほど、この偉丈夫と猫や赤子といった小さ過ぎる生き物では、あまり似合う絵面えづらにならないだろう。


 悠揚ゆうようの昼下がり、二人がそんな、長閑のどかな語らいをしていると……。



 <次回〜 第18話 「白猫と諸葛の姫」>

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私創 三国志異聞奇譚〔本編〕「銀の黄昏に白玉の龍が哭(な)く」〜戦乱世に舞い降りた、美(は)しき龍人の鎮魂歌 若沙希 @sakiwakatan0075

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