第16話 白鬼と広元
無音無光の地下道に、昼は訪れない。
夜半、人々はとうに寝静まっている時刻。
地下室木扉の前で、広元は自身の意思を確認するために、今一度腹まで息を吸い、はいた。
その彼を、足元の
どうして錫青が一緒にいるのかといえば、第一に、広元はまだ順路が不明な事。重ねて本音、
『この対峙相手とは、錫青に潤滑油になって貰うしかない』
そう考えて、子玖に秘しての行動に後ろめたさを感じつつも、錫青を伴ったのだ。
広元の意図を知ってか知らぬか、錫青は取り敢えずここまでは、おとなしく従って来てくれている。
———— ……よし。
自身への言い聞かせのように頷くと、広元は訪問を告げるために一応数度、軽く扉を叩いた。
当然ながら反応はない。
彼は持参してきた手燭を片手に木錠を外し、響く軋きしみ音を気にしながら、そろそろと扉を引いた。
……
開けた室内には、先日と同様、
広元は牀台方向に燈をかざした。
「……」
白の者は、
———— 眠ってる。……当たり前か。
夜半正刻(午前0時)。人目を避けるのにこの時刻しか選択肢がなかったにせよ、相手の不興を買ってもおかしくはない訪問だ。
広元は上部の小窓に目を遣った。
今宵も晴れ月夜で、射し込む月光が丁度、牀台上の青年の上半身を照らしている。
広元は数歩、眠りを妨げぬよう、そっと近付いてみた。
———— それにしても……。
二度目に見るその姿に、彼はまた否応なしに魅入ってしまう。
月笛の麗人と、やはり似ている
子玖から『兄』だと聞いた今では不毛な感覚なのだが、
———— これで本当に、男なのか。
まだそう、疑いたくなる
容貌だけでなく身体の線が、必ずしも
眺めているだけの広元の横に控えていた錫青が、牀台に寄り、眠る青年の顔に鼻を近付けた。
「……(あ)」
起こすな、と囁きで広元が止めようとした矢先、閉じていた青年の目が、ふっと開く。
瞬時、青年の錫青を薄眼に認めた貌が、幽かに微笑んだように広元に映った。
「……」
馬鹿げたような表現なのだが、やはりこれは〈人〉なのだ、と思う。
だがその直後だ。横になったままの青年の凄まじく尖った眼光が、広元を射た。
「……!!」
勢い、後ずさりしそうになった踵かかとにぐっと力を入れて、広元はどうにか踏み留まった。
「……や、夜分に申し訳ない、起こしてしまって」
白の相手に対し、初めて声を絞り出す。
「三日ほど前、錫青を追ってこちらに迷い込んでしまいました。その折は失礼しまし——」
たったそこまでを言いかけたときだ。
相手は突如むくりと半身を起こし、止まった。
———— この前と同じだ……。
目を閉じた青年は固まったまま、此度は錫青にも応じない。
引く心を奮い、広元は努めて平穏に言葉を継ぐ。
「あの折は、失礼しました。その……出口と間違えてしまいまして」
相手の反応は、それなりに覚悟してきている。
「石韜、字を広元といいます。数日前にこの近くで子玖と知り合って、城に招きを受けた襄陽の旅書生です。ご厚意に甘えて、しばらくお世話になることになりました」
子玖の名を出しても、青年は置物の如く反応しない。
こちらの声が聴こえているのかどうかどころか、呼吸しているのかさえ疑うほど、その姿は静止している。
広元は少し無理をして、明るい発声を試みた。
「こんな時刻に申し訳ない。実は子玖には内緒で来たんです。先日の失礼もお詫びしたいと」
彫像を相手に、自身を励ましながら続ける。
「錫青と親しいようですし、子玖の実の兄君だと聞いて、挨拶をできればと……思い……」
残念なことに広元の努力は行き着くところ、反応のない相手への戸惑いに躓つまずいてしまった。
———— 本当にぴくりとも動かない。耳が聴こえていないわけでもないと思うんだが……。
あまりの無反応に、さすがの広元も会話の切口に窮し、次の言に詰まった。
頼りにしていた錫青に眼をやれば、そ知らぬ顔で牀台に顎あごを休ませている。
薄く冷汗を生じながら、広元は自身の見通しの甘さを痛感し始めていた。
会話が始まってもいない状況だから、自然な引き際も難しい。
———— どうしよう……。
暫時を置いたところで、いい考えは思い付かない。
それでも気を振るい、広元がなんとか次の科白せりふを発そうとしたときだ。
全く動かなかった白の相手が、さらりと頭を、広元とは反対側上方にある小窓方向に向け上げた。
動きにはっと息を呑んだ広元は、出そうとしていた次声を止める。
「……」
相手のまったく温度のない無機質な動きに、広元は覚った。
———— 違う。応えないんじゃない。
ようやく、根本的な事実を受け止める。
———— 眼中にないんだ。ぼくの存在自体を、認めていない……。
そこには傷心も、憂苦も、孤独の寂然さえも存在していなかった。
目の前にいるのはただ人の姿をしている、空虚な抜け殻。……
「……」
広元は足元の床に目線を落とす。
身体中から集められて出るため息……濃い、諦めの。
———— そう……か。
自らに諭す。
客観者として冷静に考えてみよ。少しでもまともな者が、ひと月近くもこんな環境の中で、常人らしくいられるはずはない。
子玖の苦悩姿の意味が、やっと広元の身に染みた。
……
「……申し訳ありませんでした……お邪魔して」
広元は床几上に降ろしていた手燭を取り、とぼとぼと出口の扉へ向かう。
戸口に手をかけたところで、彼は今一度、牀台を振り返った。
「……」
このとき広元は、まったく以って無意味と思いつつこの際と、今日ここへ来た最大動機であった、抱えているあの心掛かりを口にする。
「三日ほど前の夜になります。城壁内の小丘で笛を奏でる美しい人を見ました。その人があなたにとても……似ている気がして」
荒唐なことを言っているのは、一応自覚している。
「……幻覚だったのかも、知れませんが」
◇◇◇
———— 馬鹿だったな。ほとほと。
室を出た扉に背をもたれ掛け、広元はあらためて甘すぎた自身を嗤った。
言わぬ事ではない、と呆れている妹の顔が浮かぶ。
はは、と重ねての苦笑をして頬を摩り、さて帰ろう、としたとき初めて、
「……あ!?」
側に錫青がいないことに気付いた。
自分の感情に埋没し過ぎて、錫青のことをすっかり忘れていたのだ。
———— いかん!
室に残してきてしまったと、慌てて再び扉を引く。
そして、開けた先に、信じ難い光景を見た。
「—— !?!」
広元の眼前に、なんとあの白い青年が立っていた。手を伸ばせば届くほど近くにだ。
牀台から決して降りることはないと思っていた相手が、広元と向かい合っていて、その脇には錫青がいる。
「……」
広元は両足裏を地面に貼り付けられ、目を見開いてあんぐりするばかりである。
白の青年が口を開く。
「よく見ると、壁の下部にそれぞれの道への標しるべがある。邸やしき出入口へは、小さな丸い形が三つ並んで掘られている。それらを伝っていけばいい」
濁りのない声音。
広元はやはり、いっさい返せないでいる。
青年はそれだけ言うと、錫青を置いてくるりと身を返した。
元の牀台上へ戻り、再び、広元が初めてここで見たときと同じ姿勢をして、止まる。
広元は入口に突っ立ったまま、なおしばらく青年の所作を覩みていた。
「……」
やがて広元の胸中に、じわりと滲むような歓慨が湧く。
———— ……それでも。
彼の心が、胸臆で語る。
———— それでも、認めてくれていたのだ……一応は。
固化していた頬をゆるめ、広元は仄かな笑みを浮かべた。
……そうして、温かな音吐で。
「ありがとう。諸葛……珖明どの」
これが、こののち互いの終生を深く紡つむぐことになるふたりの、最初の交流であった。
<次回〜 第17話 「生死の左右」>
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