第15話 諸葛亮

『兄は狂ってるんです』


 足下の冷える室内の几案きあんひじを付き、長時間額をで押さえた姿勢のままでいる広元の頭中を、ずっとその言が巡っている。


 地下での異様な体験から三日。広元は表面上、同じ日常を過ごしている。


 例の空似の件とは何とか切り離したつもりだった。されどそれとは別に、地下での子玖の告白がどうにも頭から離れてくれない。


 ———— 実際あの地下室の人は、尋常な様子じゃなかったが……。


 亡霊にさえ見えた生気の欠如。

 その印象だけからすれば、精神の病だという話は嘘ではない気もする。


 広元は、子玖があの後少しだけ、地下の兄について話してくれた会話を振り返った。


「兄は、父の死した泰山の乱の際に、行方不明になりました」


 名を亮、あざな珖明こうめい。子玖より五歳上。


「叔父上が仰るには……乱以後の兄については、一切音沙汰がなくなっていたのだと」


 消息不明当時、十三歳。当然生きてはいないだろうとされた。……それが。


「この夏の初め頃、突然西の城ここに独りで現れたんです。錫青を連れて」

「……」


 そんなに幼い身で、いったいどこをどう生き抜いたのだろうか。

 西の城に現れた諸葛亮は十六になっていた。地下ではやや大人びて見えたが、広元より二歳若い。


 ところで子玖の話中、広元が最も驚いたのは。


「ぼく、それまで全然知らなかったんです。自分に実の兄がいたってこと」

「知らなかった……?」

「あの兄だけ、瑯琊のぼく達家族とは一緒に住んでいなかったし……誰からも一度も、兄に関わる話を聞かされたこと、なかったので……」


 いみな(本名)も字も年齢も、行方不明となっていたことも、もとより存在自体も。

 子玖が知らされたのは、本人が生きた姿を見せたときが、初めてであったという。


「なぜなのか事情はわかりません。ぼくが幼さ過ぎたから、話さなかっただけなのかも」

「……」

「ただ」


 子玖の声が、ほんの少し低まる。


「あの兄が現れたときの叔父上や母上、それに子瑜しゆ兄様も、様子がその……少し変な雰囲気だったというか。何か思慮しているように感じはしましたけど」


 子玖は首を傾げたが、すぐに戻す。


「でもきっと、奇跡的に生きていたとわかって、とても驚いたんですね」

「……そう」


 今でも記憶しているほど感じた違和点を、子玖はこれまで、家族にまったく訊ねなかったのだろうか。

 子玖の中で、何か強いかせのようなものが働いているのを、広元は感じ取る。


 出しかけた次の言葉を飲み込み、そのときの広元は、地下住人の話題をそこで終わらせたのだった。

 ……


 日に日に訪れの早くなる宵闇が、広元の間借り室内に昏さを落としこんでいる。夕刻に使用人が灯してくれた数カ所の燈皿の灯が、ゆらゆらと浮き立っていた。


 子玖との会話を想起し終えた広元は、長く額をおさえていた指をはなすと、次にこめかみあたりを擦り始めた。

 考えを巡らせるときの彼の癖だ。


 ———— たぶん諸葛亮は……実兄といっても、庶子しょし(正妻以外の子)なんだろう。


 正妻以外との間に子を持つというのは至極一般的。既に亡き広元の産み母も、正室ではないしょうであった。


 嫡子ちゃくし(正妻の子)と庶子。

 それがあらぬ感情的な争いの種になることは、よくある話である。


 とはいえ、それと心の病という話がすんなりとは結びつかない。


 ———— 今の一家の実質的当主は、諸葛玄なんだろうけど……。


 広元は、登城直後に謁した子玖の叔父城主のことを起思した。


 ともすれば豫章太守だったはずの諸葛玄は、現在の限りで気力に満ちているとは言い難く、また正直、どことなく温かみに欠ける印象なのは否めなかった。


 ただしそれは、故郷を追われ、不利益なめいに振り回されたあげくに敗走したばかりの立場なのだから無理もないと、広元は肯定解釈をしていたのだ。


 そこはあくまで広元個人の感覚であって、正誤は決められない。

 しかし、子玖から諸葛亮の経緯を聞けば聞くほどに、その幽閉根拠が広元のに落ちなくなっている。


 もとより、自身の実従子おいに対して『狂っている』とは、ずいぶん苛烈かれつな表現だ。

 血筋の近い、しかもまだ十代半ばでしかない身内を、ひと月近くもあのような扱いにできるのか。

 あんなか細い若者を隔離するほどの、いったいどんな症状があったというのだろう?


 よほどのことだと想定はしてみても、広元にはやはりりょうするに厳しい。


 ……かといって。

 他家の、恐らくは軽いと思われぬ事情に、他人が無責任な口を挟むべきではないことも、広元は認識できている。



『兄様!』


 ふと聞こえた記憶にある声に、広元はどきりとした。


 かつて妹の楸瑛しゅうえいから、彼は自身のこの過干渉性格を諌められたことがある。


『兄様、ほらまた。そうやっていっつも、自分からわざわざ問題に巻き込まれて』


 そう呆れる妹の顔が浮かんだ。

 広元は胸中で自嘲する。


 ———— まあ一応自覚はしてるんだよ、楸瑛。……だけど。


 己の立ち位置や、悪い癖も心得ている。けれども無視をするには、地下室で見たあの光景は、衝撃的に過ぎるのだ。


 あの月夜麗人の姿がまた、広元の脳裏をかする。


「……」


 広元は更に長い時間の思惟しいめいす。

 ……やがてまぶたを開いた彼は、ある意を決めて、坐を立った。



<次回〜 第16話 「白鬼と広元」>


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