第14話 地下室の狂人〈2〉

 ———— 男……!?


 慮外な回答に広元は目を瞬かせる。男にしては、ずいぶんと……。


「……」


 だが即、観点を切り替えた。『兄』だって?


「でも、従兄あに君は江東に行ったと」


 昨日、子玖はそう言った。

 指摘にますます苦渋色を濃くした子玖が、続き絞り出す。


「諸葛瑾ではありません。地下室にいるのは別で、実兄の……諸葛亮、です」

「……!」


 ひとつ、話の筋が見えた。

 子玖には兄がもうひとり、それも実兄がいたのだ。錫青が見せた態度からするに、錫青の主人だったというのは、そちらの方であったのか。


「実の……」


 そこまでを知った広元は、なお以って訊ねねばならなくなる。

 子玖の実の兄ならば、諸葛玄には子玖や諸葛瑾と同じく実従子おい。極めて近い血縁者だ。

 それが……?


「どうしてあんな……あの室でいったい、何をしてる?」

「……」

「まさか、起居を?」

「……それは、その……」


 小さな灯火も吹き消せぬような声の上に、子玖は自らの語尾を吸い込んでしまう。


 なんとも掴みどころのない展開。広元には不可解感ばかりが募る。


「ろくに陽も射さないし、調度もひどく粗末だった。どう見ても普通に生活できる空間じゃない。……いやそれより」


 一番の疑念。


「外から、錠がされてた」


 推断は間違っていない。あの状況は〈幽閉〉だ。


 項垂うなだれ押し黙る子玖に、広元は重ねる。


「錫青はあの人に会いに行ったんだよ、子玖」

「……」

「きみ……ぼくと錫青の姿が見当たらないのに気付いたとき、本当は錫青の行動を、すぐに思い付いたんじゃないか?」

「……」


 はい、と動いたように見えた唇。

 なんらかの猛烈な躊躇ちゅうちょが子玖を押さえつけているのが、広元に伝わった。


「……」


 これでは、話が一歩も進まない。

 詰め寄る相手が違うのではと思いながら、広元は湧いてくる疑問符を抑えられなくなっていく。


「あの彼……きみの兄君。多分ぼくとそう変わらない歳だろう。ずいぶんと痩せていて……重病人という感じでもなさそうだったけれど」

「……」


 子玖は面を上げかけ、すぐにまた伏せてしまう。


 子玖の様子は、広元からの問立てを拒絶しているのとは、少し違うように見えた。

 口を貝にしつつも、発言を迷っているような……。


「事情があるなら、話してみてくれないか?」

「……」


 これまで素直な態度一辺倒だった子玖が、ここまでためらう由縁がわからない。

 広元の語気に、彼には珍しくやや圧がかかる。


「実の兄君なのだろう? なのにあれは……あまりな扱いじゃないか?」


 あれは囚人扱い。

 そこまでは口にせずとも、我知らず遠慮を忘れ畳み掛ける。


「血のつながった家族なら——」

「兄は!」


 ついに子玖の口が、ほとんど叫びに近い声を上げた。


「あの兄は、狂ってるんです!」

「―― !!」


 衝撃に、広元の言が止まった。

 子玖の発した悲愴な響きのこだまが、地下道に尾を引く。


「心を病んで……それで叔父上が地下室に。この秋でした」


 子玖のひとみが濡れている。


「原因はわかりません。ぼくも会ってはいけないと言われていて……詳しくは、わからない」


 伏せた目元を掌で覆い、子玖はそれ以上の声を殺して肩を震わせた。


「そう……だったの」


 ようやく冷静さを取り戻した広元は、自身の行為に気付く。

 子玖に対して、いかに辛辣しんらつなことをしたか。子玖の言が真実なら、本当に苦衷くちゅうなのは誰か。


「……すまない」


 広元は子玖の肩に、詫びの手をそっと添える。


「つらいこと、言わせてしまった。……本当にすまない、子玖」


 二人の間に控え坐す錫青が、顔を上げ、静かに様子を見つめていた。


◇◇◇


 東の空に、暁光ぎょうこうきざす。

 しかし昇り始めているはずの陽の光は、どんよりとした雲に塞がれて、辺りにまだ届かない。


 あの後、室に戻ってから夜を一睡もできずに過ごした広元は、夜明け時刻に邸を出、庁堂一角にある望楼《ぼうろう

》(物見櫓ものみやぐら)に上がっていた。


 朝日方角を見据えながら、広元は、わずかこの二日間に起きた一連を想起する。


 ———— あの笛の人は女衣姿にょいすがただった。年齢ももっと、上のように見えたし……。


 同一人物のはずがないのは物理的に明らかだ。偶然にしては、確かにあまりに奇妙ではある。

 あれは単なる他人の空似に過ぎなかっただけと、言わざるを得ない。


 たまたま、そう見えただけ。

 つまるところ広元に、それ以上の結論は出せないのだ。


「……」


 ところどころの雲薄い隙間が、陽の力でやっと光り出す。

 明るさを増して行く望楼の上で、彼は幻影とも紛うふたつの出来事の繋がりを、心中で断った。



〈次回〜 第15話 「諸葛亮」〉

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