お隣の幕が上がる

渡貫とゐち

上演中。


 壁が薄いアパートなので仕方がないが、話し声が普通に聞こえてしまう。大声で叫んだわけでもなく、人と人の会話でも鮮明に、だ。

 電話の話し声はもちろん、オンライン会議の声もはっきりと聞こえてしまう……、イヤホンを使っていると声が大きくなってしまうというのもあるかもしれないが、だとしても普通の会話でも聞こえてしまうのは問題だろう。聞こえないのはこそこそ話くらいだ。


 お隣さんは角部屋、つまりこの「聞こえてくる高い声」を聞いているのは俺だけになる……幸いにも、と俺が言うのはおかしいだろうけど、文句を言うつもりは一切ないので、彼女からしても幸いだろう……。なぜお隣さんが女性だと分かったかって? 声が聞こえるから。


 遊びにきた友達ではなく家主が女性なのだ。

 声の感じからすればまだ若い……学生さんだろうか。週末になると女の子の友達を呼んで楽しそうに夜通しお喋りをしている……。耳を澄ませたわけではなく聞こえてしまうので、彼女たちの近況を俺も把握している。


 聞こえてきてしまうものは仕方ないだろう……、こっちはイヤホンをして生活しているわけでもないし、これからもする気がないのだから。

 ……文句ではないけれど、一応、言っておいた方がいいのだろうか? もしも彼女たちが個人情報(彼女たちが大学生らしい、というのも知っている。誰と誰が恋人関係になって、別れて休学して渡米してなどなど……顔も名前も分からないけれど、彼女周りの事情はなんとなく知ってしまっている……)――を言ってしまうと、俺には丸聞こえだ。

 迂闊に電話番号などを言ってしまえば、電話をかけることもできてしまうわけで……――「危ないことをしていますよ」、と忠告くらいはするべきだろうか。

 いや、そういう忠告をすることで怯えさせてしまうのも申し訳ないかな……?


「そこまで俺が世話を焼く必要もないか……」


 後々、彼女が痛い目に遭うとしても俺の知ったことではない。少なくとも隣の部屋に住んでいる限り、俺はなにもしないのだから、安全は確保されているわけだ……。

 余計な関わり合いをするべきではないか――善意で声をかけて通報されては最悪だ。そういう理不尽が普通に起こってしまう世の中なのだ、自衛をしなければならない……。


 なので、聞こえてくるお隣さんの声は寂しくならないBGMとして使わせてもらおう――――



 壁の向こう側の隣人はどうやら役者の卵らしい。

 先日、浮気や離婚の話題が出て、しかも男女の言い合いが強めに聞こえてきたので本気でチャイムを鳴らして止めようか迷ったが、聞いている内に違和感に気づいた……。

 冷静になってみれば、やっと気づけたがどうやら台本を読んでいただけらしい……。だから同じセリフが繰り返されていたのか。


 おかしいとは思ったのだ。同じトーン、一字一句違わない長いセリフが、喧嘩で出てくることはまずないから――そういう演技だったのだ。


 騙された……。

 ただ演技力どうこうではなく、壁の向こうで見えなかったからこその勘違いだが。


 それから毎日、演技の練習が繰り返された。

 浮気や離婚、殺人事件や自殺未遂など、ダークな雰囲気が出ているお芝居らしい……。不意に聞こえてしまった上演日と劇場の情報をネットで調べてみれば――ヒットした。

 興味本位でチケットを買い、休みの日に見に行ってみることに――いや別に、同居人がどういう人なのか知りたいわけではなくてね?



 ――綺麗な子だった。役者なのだからある程度は見栄えが良い人なのは想像していたけれど……役者の卵でいる時期は短そうだ。

 誰かが見つければすぐにでも大きく跳ねていきそうな役者さんに思える……ふむ……はやしさんか……。

 若者が住むためのワンルームアパートなので、表札に名前を出す人が少ないので隣人の顔も名前も知らない。そんな環境なので、今更ながら隣人の顔と名前を知ることができた……。

 まあ、知ったからどうなんだって話だが。

 まさか「あなたの舞台を観ましたよ」と言うわけにもいかないし……彼女からすれば嬉しいと気持ち悪いと怖いが入り混じった感情になるだろうし……やめておこう。俺は陰ながら応援するだけだ。



 それから数日後。

 次の舞台が決まったのか、新しい役の練習をしていたようで、声がはっきりと聞こえた。

『やめてくださいッ』『ほんとにやめッ』『警察――』と、迫真の演技が続いた。一時間もなかった演技練習は、その後、ぱたっと止まり…………

 次の日もその次の日も――彼女の演技練習は聞こえなくなった。

 合宿にでもいったのかな? なんて思って俺はいつも通りに会社へいって仕事を終え、夜に自宅へ帰ってくると――「ん?」


 警察がたくさんいた。

 しかも俺のアパートだ……なんだなんだ空き巣でも入ったのか!?



「あの……202号室の者なんですけど……」


「――あぁ、お騒がせしてます……202のお隣で『殺人事件』がありまして……なにか知っていたりしますか?」

 と、刑事さん。


「殺人事件……? いえ、それについては知りませんけど……ただお隣の……お隣とは……201の……?」

「はい。お知り合いですか?」


「いえ、面識はありませんが、壁が薄いのでよく演技の練習をしているのが聞こえていたんです。そう言えば数日前、迫真の演技をしていましたけど…………――あ」


「どうかされました? なにか思い出したとか……」


「…………殺人事件ですよね? 恐らくその時の声とか音とか、……俺、聞いてると思います……」


「聞いている? ……隣の部屋で殺人事件があったのに、数日間も放置していたのですか!?」


「いやっ、だって殺された彼女は役者さんですからっ、演技の練習をしているのだと思って――殺人事件そういう演技かと思うじゃないですか! 声だけじゃ演技なのか本当に殺されかけているのかなんて分かりませんよ!?」


「犯人の特徴などは!?」


「相手は声を発していませんでしたから分かりませんよ!? ただ……彼女の方は何度も何度も『やめてください』を連呼していましたね……まるでセリフを読むように」


 調査していた刑事さんと周りの警察官が肩を落とした。ガッカリしているところを見ると期待に応えられなくて申し訳ないと思うが、薄い壁では重要な情報なんて分かるわけがない。

 大したことない情報なら山ほど積み重なっているけれど。


「……犯人、分かっていないんですか?」

「はい。一応、被害者の周りは疑っていますけどね……もちろん劇団の方にも」

「はぁ」

 まあ、そりゃそうだ。でなければ一体誰を疑えばいいのだ?


「……刑事さん」

「はい?」


「壁が薄いので、家主である彼女とそのお友達の話し声が聞こえてきてしまうんですが……、不可抗力ですよ? 耳を澄ませていたわけではありません……。それでですね、ここ半年間で聞こえてきた、覚えているだけの彼女の個人情報を提供しましょうか? 殺人事件に関係のないことかもしれませんが……」


「いえ、関係ないかどうかはまだ分かりませんが……聞かせてもらえますか?」



「分かりました。では、半年間分のノートを持ってきますね。壁の向こうから聞こえてきた情報を並べて、彼女がどんな人間なのか推理するのが楽しくて――、書き留めていたんですよ。ですので、聞き漏らした情報はありませんし、正確な情報だと思います――……これが犯人逮捕の力になればいいですけど……」


「…………ご協力感謝しますが、あなたの行動は犯罪、ギリギリな気がしますが……」


 ――そんなことを言っている場合ではないでしょう!


 今は犯人逮捕が先決です!



「壁が薄い、けれども騒音の文句がないというのも、それはそれで怖いものですね……」



 刑事さんの呟きを、俺は聞かなかったことにした。



 …了

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