第3話 バラムさんの回想

 季節は巡り、ホルムさんがこの街で暮らし始めてから丁度一巡した頃のある夜の事です。透き通った空気が夜空の月をくっきりと映し出し、鏡の様なかんばせを覗かせながら、眼下に広がる世界を隈なく照らし出そうとしていました。その光に照らし出された草叢、道を埋め尽くす家々の屋根は、さながら雪の降り積もった後みたいに真っ白に照り映えて、それが身動きもせず静かな街並みに如何にも似付かわしく映るのでした。

 街に残る灯は、空の星々の巡りにつれて、一つ、また一つと消えて行き、残った数少ない灯も、やがて迎える眠りに備えて、その役目を終えるのをじっと待っているかの様に静かに灯っているのでした。

 その中の一つ、ホルムさんの住む下宿屋の歓談部屋で、遅い夕食を済ませた後、ホルムさん、ルナさん、バラムさん、三人の揃った中、何時かルナさんがホルムさんに淹れてくれたのと同じお茶を飲みながら、思うまま談笑に耽っていたのですが、もうそろそろ日付も川という時間。互いにお休みを言おうとして、腰を浮かし掛けた丁度その時、洋燈の光を受けて伸びたバラムさんの影が、ずっと昔よりもたらされた使者の様に思えて、

「そう言えば、こんな晩の事だったよ。」

と、まるでバラムさん自身が使者さながらといった様子で語り出すのでした。

 

 この街とは場所も時も隔てたとある街で、近々催される見世物に、街中が浮足立っていました。かつて誰一人として見た事の無い奇想天外な仕掛け、との触れ込みで、大々的な宣伝とともに、その話題は街の隅々まで行き渡って行ったのです。曰く、


「有史以来、何人たりとも為し得なかった、全てが絡繰り細工で動く街が訪れる。瞬きする間に、街の様相が丸ごと一変して仕舞う様は正に圧巻の一言。それを一手に手繰るは、かの傾国の美女もかくやと思しき名も知れぬ麗しき女王。この機会を逃すは、この先百年、否、千年に亘り子々孫々よりその怠惰振りを誹られる羽目となるであろう。」


 その謳い文句に煽られた人々は、挙って街外れに今まさに展開されている件の絡繰りの街とやらを一目拝もうと押し掛けて行ったのでした。

 その中に、まだその頃は頬に赤味の射す、まだ若かりしバラムさんの姿もあったのです。今と違って、その出で立ちは、当世風の流行をふんだんに盛り込んだ、如何にも洒落者といった風で、鮮やかな色彩の蝶ネクタイを風に靡かせながら世の中を渡り歩いていたものでした。そんなバラムさんの傍らで、いつも一緒に行動していた人がいました。年の頃はバラムさんと同じ位。外見こそバラムさんと同じく洒落のめしてはいましたが、バラムさんのそれとは違って、ずっと落ち着いた印象を見せているのでした。快活なバラムさんと対照的に物静かで、内向的であり、そんな正反対と言っていい二人ではありましたが、何故だか妙に気が合って、だからこそこの時も二人は街外れの、一晩で出来上がった、と俄かには信じがたいもう一つの街の一角で、その織り成す景観に見入って、各々感嘆の声を上げているのでした。


「いや、これは凄いね。想像以上だ。」


 バラムさんがもう何度目になるか分からない程繰り返した科白を呟くと、傍らの彼もこれまた飽きもせず、それに頷き返すのでした。

 二人の座るベンチ周り、先程までは確かにお洒落なカフェーに居て、各々注文を済ませた後、深々と椅子に座り直して寛いでいたのです。それが見てる間に店の壁やら内装やらが、ゆるゆると滑らかに折り畳まれて行き、代わって色とりどりの敷石が流れる様に滑り込んで来て、二人の周りでゆっくりと廻りながら足元を隙間なく埋め尽くして行ったのでした。軋む音一つなくそれらが為される様に目を留める間もなく、輪を描く敷石が中心に向けて寄り集まったとみると、ろくろを廻したみたいにせり上がり、段々重ねの台座となって、中心から一際高く伸びる尖塔が出来上がったと思うと、その先端から傘が開いたかの様に放射状に水が噴き出し、空に照り輝く陽の光を受けて、虹混じりの大輪の水の華を咲かせ、その周りを囲む様に咲いた小さな水輪もまた、キラキラと七色の光で周囲を彩っているのでした。

 次々と移り変わる景観。それだのに決して目まぐるしく感じず、むしろ右足の後に左足を繰り出すような自然さで、気を抜くとそれがさも当たり前の光景に感じられ、二人はさながら白昼の刹那、垣間見た夢の後の様な呆けた顔を互いに見合わせるのでした。

 すると、そこに先程のカフェーの給仕さんと思しき女の人が、まるで端からそこに居合わせたかの様なさり気無さで、二人の傍に控えていたのでした。

「お待たせしました。ご注文の品は以上で宜しいでしょうか?」

 狐に摘ままれた様な心地で昼下がりのお茶会と相成ったバラムさんと傍らの彼でしたが、二人が注文した飲み物に各々ミルクやら砂糖やらを注いでいる間にも、今度は何処からか二人の背丈以上もの大きな本棚が、波打ちながら迫り出して来て、ゆっくりと周りを取り囲もうとしているのでした。

 最初の驚きが去った後、バラムさんは尚も興奮冷めやらぬといった様子で、見る物全てに感嘆の声を一々上げていたのでしたが、傍らの友人はそれに反して徐々に口数が減って行き、終いには黙りこくって仕舞うのでした。余りにも鮮やかに過ぎるそんな絡繰りの様相に、その人の目には何処か寂しに耐えかねた誰かが、声も無く必死に訴え掛けて来ている様に、そんな風に思えて来て、どうしようもなく切ない気持ちが湧き上がって来たからでした。

「お楽しみ頂けてますでしょうか?」

 気付くと、先程の給仕さんがすぐ側で殆ど覗き込む様に此方を覗っているのでした。

 余りに突然の事に、思わず飛び退く形で椅子にしがみ付くその人を見て、給仕さんはクスクスと笑いながら、

「ごめんなさい、でもお客様が余りにも塞ぎ込んでいる様に見受けられましたので。」

 そう言って微笑んだ表情が、とても人懐っこくて、まるで何年も前からの知り合いのような親しみのこもったものだったので、隣で見ていたバラムさんこもごも思わず見惚れたまま、この突然降った湧いた様な給仕さんの虜になって仕舞うのでした。

 改めて思えば、この驚くべき街中で給仕として働いている様な人が、何の変哲もない人だとは考えにくい訳で、当然その事に気付いてしかるべき処を、この給仕さんの不意打ちとも言える笑顔の前に、その疑問の忽ち胡散霧消してしまったのです。

 

 それからというもの、彼らの間で話の弾む事弾む事、立て板を流れる清流のごとし。バラムさんと彼の友人は、それにつられて何度も何度もお替りを注文する羽目に。宴もたけなわ、名残惜しくも別れを告げて、帰途に就く頃には、辺りはすっかり夜の帳が下りていたのです。一時の興奮過ぎ去りし後、静かな夜道を歩きながら、バラムさんは今日の出来事を振り返るのでした。昼間に見た目まぐるしく絡繰りの織り成す光景にはただただ圧倒されるばかりで、最初は物珍しさと、事に依ればその秘密を暴いてやろう、などと考えていたのでした。日の下に新しい物なし。是非とも件の絡繰り細工のインチキ振りを暴き立て、衆目の下に曝け出さん、などと息巻いてさえいたのでした。それが実物を目の前にし、そんな子供じみた企みは消え、これは本物であると認めざるを得ませんでした。それと同時に、この世にはそんな疾うに諦めてしまったはずの本物の驚異が未だ存在していた事に、心の底から喜びが溢れるのを感じていたのです。自然足取りも軽くなり、誰もいない街頭だけが所々照らす夜道を、跳ねる様に歩いて行ったのです。

 それからバラムさんの思いは、かの友人と給仕さんの二人に移って行きました。あの二人、随分と話が弾んでいたな、と。バラムさんにとっては、この事も充分に驚くに値する事でした。友人の普段の姿を知っていれば余計に。最初に言った通り、この友人は内気な性格で、殊に女性と話をするのが大の苦手で、今日の様に会話が弾むなんて事は、それなりに付き合いの長いバラムさんにとっても初めての事で、ある意味絡繰り云々よりも余程驚きが大きいのでした。事有る毎に、とかく引き篭もりがちな友人を外に連れ出し、あれやこれやと世話を焼くことの多かったバラムさんにしてみれば、これは大きな前進であり、出来る事ならこのまま上手い事二人の仲が進展してくれれば、と願うのでした。皆さん薄々お気付きでしょうが、バラムさんはかなりの世話好きのお人好しだったのです。

 

 その願いが通じたのかどうか、それからというもの、しばしばバラムさんが退屈しのぎにあの街に足を運ぶ度、二人の連れ立って歩く姿を目にする様になったのです。そこに一抹の寂しさを覚えながらも、バラムさんはそれを良い変化と受け入れ、それが最終的に実を結ぶ事を願ったのですが、同時にそこはかとなく不安も感じていたのでした。残された時間がそれ程長くないという事。元々絡繰りの街は定期的にその場所を移すもの。何時までもこの地に留まっている訳ではなく、何れ次の場所へと移って行ってしまうのは明らかで、このまま二人の関係に何らかの結論が出ずに、うやむやになったまま別れる事になりにでもしたら……。バラムさんには分かっていました。あの内気な友人は以前にも増して裡に閉じ篭ってしまうであろう事を。今度はバラムさんが幾ら呼び掛けても応えてくれない位には。

 そして、これは誰にも言ってない事ですが、最初に件の給仕さんと出会い、すっかりお互いに砕けた処で、では自己紹介でも、と給仕さんの名前を聞いた折、バラムさんは思わず口に含んでいた飲み物を吹き出しそうになったのです。何故って、その名前は、この街に来る際に散々見聞きしてきた宣伝の中に出て来た絡繰りの街の女王の名前、それと同じだったのですから。思わずまじまじと給仕さんを見つめていると、矢庭にこちらに向き直る顔。素早い目配せと共に唇に押し当てられる人差し指。その悪戯っぽい目でバラムさんは察しました。黙ってて、と。バラムさんの友人が気付いたのなら、それはそれで構わなかった。でも彼は気付かなかった。なら、知らないまま、このしがらみのない関係をもう少し続けていたい、と。

「はてさて、どうなる事やら。」

 バラムさんは大きく溜息を吐くと、今一度危うい均衡の上にある二人の行く末に思いを馳せるのでした。


 楽しい時間も辛い時間も、皆等しく過ぎ去って行く中、遂に絡繰りの街もこの地から発つ日がやって来ます。短い間に幾度も逢瀬を重ねた二人の時間も終わりに近付いていたのでした。いよいよ出立という間際、最後の夜に、誰もいなくなった絡繰りの街は、未だ其処彼処でその姿を変え、動いている中、中央の小さな広場では、さながら空に届け、とばかりに吹き上げられた噴水を中心に、それを取り囲む様に幾重もの円環状に敷き詰められた敷石が、この絡繰りの街を動かす歯車となって、各々の方向に回転しているのでした。内側の輪の動きは目まぐるしく早く、外側に行くにつれその動きはゆっくりしたものになって行き、一等外側の輪は殆ど止まっているかと見える程にその動きは緩やかで、人気の途絶えた中ひたすらに続くそれらの動きは、まるで空を巡る星辰をさえ廻しているのでは? とさえ思える様な、そんな眺めなのでした。

 敷石の輪の一番外側。その輪の上に乗ったベンチ。それは輪の内側を向いて、広場の中央を眺める事が出来る様になっていました。そのベンチに座って、暫くの間二人は暫く言葉もないまま未だ高さを増していく中央の噴水に見入っていたのでした。黒いビロードの垂れ幕に色とりどりのビーズを鏤めた、さしずめ舞台の書割といった風情の夜空に、何時もの平板な姿と違って、いやに立体的に見える、謂わば宙に吊り下げられたボールみたいな月がポッカリと浮かんでいました。

 そして、昇って行く噴水の先端がそこに触れ、月がクンッ、とひと跳びしたかと思うと、そのまま噴水の上に乗っかって、スルスルと下まで降りて来て、終いには地上まで、その気になれば中央まで歩いて行って手を伸ばせば、あっさり触れる事の出来る高さまで降りて来たかと見ると、そのままじっとそこに止まり、ゆったり安らいでいるかの様な穏やかさで留まり続けるのでした。

 絶える事無く吹き出し続ける噴水の水に洗われて、月は常より増して照り映えて、その光は噴水より飛び散った飛沫を照らし出して、辺りに光の粒を惜し気もなく振り撒くのでした。

 互いに掛ける言葉が見つからず、押し黙ったままじっとその光景を見つめる事しか出来ない二人。そうしている間にも、二人の乗った輪はゆっくりと巡り、それにつれて噴水の上の月の面は、少しずつ満ち欠けを繰り返し、移り変わって行く。けれども、常と違うのは、月の表側が隠れて行くにつれて、何時もは決して見せる事の無い月の裏側がそれに代わってその面を現わし、それは今まで見た事もない様な透き通った綺麗な銀色で、まっさらな、生まれたばかりの、疑う事を知らないかの様な表情を向けて来るのでした。

 私達が空を見上げる時に何時も見る、じっと目を閉じて、静かな夢に耽っているかの様な、温かい金色の表側。そして、夜の果て無く広がる星々の大海原に、思う様四肢を伸ばして戯れている、無邪気な銀色の裏側の月の顔。代わる代わる飽く事もなく二つの面を見せ続ける月。それは、言いたい事がたくさんあるのに、それがどうしても胸の内から出てこない二人に、今夜だけ特別に胸のつかえが無くなる様に、と、そっと促してくれている、そんな風に二人には思えて来るのでした。


「月の裏側がこんなにも綺麗だったなんて……。」

 

 気付かぬ内にふと口を衝いて出た言葉が、静かな夜にそっと添えられるのでした。銀色の月の光がその言葉を優しく包み込んで、消えない様その場に留めようとするのでした。次の言葉が同じ様に素直な気持ちで出て来る様に、と。


「良かった、一緒に見られて。お月様はとっても内気なものだから、ちょっと驚いただけでも姿を隠しちゃうんだもの。」


「そんなに恥ずかしがり屋な物なのですか?」

と、問い返す声がまた一つ。


「ええ、可愛らしいでしょう? だからこうして見られるという事は、貴方がとても安らいでいる、という事。」

「そして、貴女も。」

 少し息を呑むような気配。それからクスクス堪え切れないといった笑い声が辺りに漏れ零れて。その声に驚いたのか、月はブルっと震えると、忽ち見慣れた表の顔に向き直り、それと共に、それまでは水の流れの様に滑らかに廻っていた敷石も、それらが全て夢であったかの 様に動きを止め、見上げると、金色の紙を張り付けた様なそっけない表情の月が、いつの間にか素知らぬ顔で遥か遠い空の中に照っているのでした。


「あらあら、」


と、軽い笑いの中にほんの少しだけ寂しさの混じった声。


「楽しい夢の時間は、もうお終い。」


 遠退いた月の光は、声の主を照らし出すには足りず、不意に立ち上がり、俄かにたかっく伸び上がった影の姿は、辺りを圧する威風を備え、正に女王然とした立ち振る舞いを見せ、その唇より漏れ零れる言葉は、辺りの空気を震わせ、聞く者をして自ずと膝を屈させる威厳に満ちているのでした。


「御来場の皆様、この度私共の街にお越しくださいまして、誠に有難う御座います。誠に名残惜しう御座いますが、只今を持ちまして当地を離れる事と相成りました。皆々様方と再び相見える事を願いまして、私共の挨拶と代えさせていただきます。」

 と、頭を深々と下げると共に、パタパタと折り畳まれて行く絡繰りの街。優雅なお辞儀と共に、片方の手は胸に添えられ、こう片方は手の平を上にして横に差し出され、その中に次々と収まって行く嘗て街を為していた物。この短い間に訪れる人々の目を楽しませてきた物。それら全てが女王の手の平に収まって、組み合わさって、小さな箱になって行き、箱が出来上がると、今度はその中に様々な物が入って行き、見る見る内に街は縮まって、最後に箱の蓋が軽い音を立てて閉じると、周りには何も無い、枯れ草交じりの荒れ果てた、よくある街外れの広さだけはある更地が広がっているばかりでした。

 その中に唯一つ、黒鉄のランタンを下げた街灯が、膝まで伸びた草の中でポツンと立ち、傘の形の光を生み出していました。

 絡繰りの街の女王がその中に足を踏み入れると、其処には先程まで感じていた威厳は既に無く、物柔らかな笑みを浮かべたあの女給さんが立っていたのです。

 彼女は言葉もなく立ち尽くしていたバラムさんの友人に恭しくお辞儀をすると、微笑みの中に寂しさを交えた声音で言うのでした。


「これで、本当にお終い、」と。


「本当はね、」

 お互いに言葉を切り出す機会を見付けられないまま、暫くの時が流れた後、給仕さん、いえ、最早女給さんでもなく女王でもない、ただ一人の女の人は、ポツリと呟く様に言うのでした。それに向き合う形ななったバラムさんの友人も、此処では全ての虚飾を剥ぎ取られた、一人の男の人として、自然となっていくのでした。

「街を仕舞う時に、一緒に貴方の事も仕舞っちゃおうかと。ああ、どうか怒らないで聞いてね、少しだけ、本当に少しだけだけど、本気でそう思ったの。」

「怒ってなんかいませんよ」

 言われた彼が答えます。

「むしろ、貴女にそう思わせた自分の情けなさが不甲斐ないです。」

「そんな事、私がわがまま言ったばかりに。」

「いえ、自分が……。」

 と、堂々巡りになりかけて、」同時に吹き出す二人。

「こんな時に私たち何してるんでしょうね。」

 言いながら手にある箱の螺子をキリキリと音を立てて巻いた後、地面に置く女の人。すると、箱はゆっくりと解れ始めて、あれよという間に機械仕掛けの馬車に組み上げられて、全身を真鍮の鎧に覆われた馬は、鋼の歯をむき出しながら口から蒸気を吹き出し、出発を急かすように前足をコツコツと鳴らすのでした。

「これから……、」

 と、戸惑いがちに男の人は問い掛けます。

「何処に向かうんですか?」

 困った顔で女の人は答えます。

「分からないわ、選ぶのは私じゃあないもの。それに……、」

 と、遠い目で、

「何処でも一緒。一人で見る景色に、大して代わり映えなんて有りはしないわ。」

 

 それを聞いた男の人は、暫く考え込んでいる風でした。時間にしてみれば、対した長さではなかったかも知れません。けれども、二人の間では、それは本当に長い、息の詰まる様な時の様に感じられたのです。


 ……前のめりな決意、というのは、時として突飛な行動を以って表われる物です。矢庭に男の人は顔を上げると、驚いて目を見開いている女の人名前で馬車に飛び乗って、手綱を握ると、これまで見せた事も無い様な、明るい笑顔で言ったのです。

「それなら、」

「これから見る景色は、随分違って見えるでしょうね。一人じゃなく、二人で見る景色なら。」


 突然の事に、暫く目を白黒していた女の人、やがて一つ大きな溜息を一つ吐くと、

「呆れた。」

 と、隠そうとしても、自然と頬の弛むのを抑え切れない女の人は答えるのでした。


「格好付け過ぎよ。」



 

 バラムさんは、語り終えると、すっかり冷めてしまったお茶をグイ、と一息に飲み干すのでした。終始黙って聞いていたホルムさんとルナさんは不意に夢が途切れた様な心地で、思わず顔を見合わすのでした。

「それから、二入に会う事は終ぞなかったよ。便りだけは割と頻繁に届きはしたがね。届く度に差出元の場所が毎回違うものだから、追う事も出来なくてな。」

 と、バラムさんはカップの底にこびり付いた砂糖をスプーンでこそぎ落としながら続けるのでした。

 ふと思いついた様にルナさんが訪ねます。

「それにしても、随分二人の事情に詳しいのね、」と。

「便りがあった、と言っただろう? その中に、こうなった経緯が詳しく書かれてあったよ。儂には全てを知っていて欲しかったんだとさ。まあ、これでも大分心配したから、無事を知らせる連絡だけでも有り難かったがね。唯、読んでる途中で、何ぞ二人の惚気話を延々聞かされてる様な気分になって来てナァ。恨み言の一つでも届けたい処だったが、何分、此方からそれを届ける術はなし、と来たもんだ。全く、大変だったんだぞ、こっちは。」

 と、口では文句を言いながらも、その顔は決して怒っていないバラムさんの様子に、ホルムさんは軽く微笑みかけます。

「大事な友人だったんですね。」

「放っておけなかっただけさ。」

 素っ気ない風を装ってバラムさんは答えるのでした。

「何しろ、危なっかしい奴でね、」と。

「最初の驚きが収まった後は、そうさな、収まる処に収まったな、と安心したものだよ。」

 と、バラムさんは椅子の背凭れにグッと身を寄せながら言うのでした。


「でも……、」

 ルナさんは呟きました。

「そんな不思議な街があったなんて……。」

 それに関しては、ホルムさんも全く同感で、

「今までそんな街の話なんて聞いた事もありませんでしたよ。そこまで途方もない話なら、何処かで耳にする機会があった筈ですが……。」

 バラムさんはその問い掛けに肩を竦めると、

「まあ、言いたい事は分かるよ。」

 バラムさんは、気にした風でも無く続けます。

「この儂にしてからが、実際に目にするまでは、話を盛っただけの完全な与太だと思っていた位だからな。」

 別にバラムさんが気を悪くした訳でもありませんが、何となく気まずくなった二人は、何とか話題を変えようと慌て気味なのでした。

「それにしても、」

 と、今度はホルムさん。

「何だってその街は、あちこち旅をして回っていたのでしょうね?」

 それを聞いたバラムさんは、フッと視線を泳がせ、暖炉の火にそれは注がれると、そのまま難しい顔で考え込んだ様子で、ポツリ、ポツリ、と少しずつ言葉を紡ぐ様に話し始めるのでした。

「直接聞いた訳じゃなし、完全に想像の話になって仕舞うから、話半分に聞いて欲しいが……。」


「そもそも、当時は驚きばかりで、そういった事に考えを回す事は無かったし、誰かに聞こうにも、調べようにも手段がなかったから、結果は同じだったろう。」

「大体、そんな事を考える様になったのは、割と最近の事だしな。」

 ルナさんが訝し気に尋ねます。

「最近?」

「そう。」

 相変わらず暖炉の火を見詰めながら、バラムさんは答えます。

「ここ最近、色んな事が起こっただろう? それらについてあれこれ考えている内に、ふと、あれは実はこういう事だったんじゃあないか、って考える様になったんだよ。」

「色んな事?」

「この前、ある筈もない鐘の音が街中に鳴り響く様な事が起きたばかりじゃあないか。それから、年に一度空から星の雫が降りて来る。今じゃ誰もが当たり前の様に受け入れているが、あれだって昔はそんな事起きやしなかった。それが、この街に少しずつ人が集まる様になるのと一緒に、色んな事も少しずつ起こる様になって行ったんだよ。」

「けれども、この街は、まあ当たり前だが、此処を動かないから、そこまで沢山の物は集まって来ない。もし街という物に意志があって、それを望んでいるとしてもだ。だから、フッと思ったのさ。あの絡繰りの街は、ああやってあちこちを巡る事で自ら望む何か新しい何かを求めていたんじゃないかって。と、そんな風に考える様になったのさ。」

「それから、こうも思ったのさ。その集めた物こそが、あの絡繰りを動かす原動力そのものなんじゃないかって。街の中で何気無くされた会話、日々の中での一寸した思い付き、誰にも告げられなかった秘めた思い、反対に通じ合った思い、そんな物が積もり積もって、街に染み付いて、すこうしばかり変わった事を惹き起こす様になって行って、と。そういった色んな物が、あの街を動かす様になって行ったんじゃあないかって、な。」

 

 バラムさんは深々と息を吐くと、暖炉の火から目を逸らし、物思わし気なホルムさんとルナさんに向き直るのでした。

「まあ、最初にも言ったが、あくまでも想像の話だよ、これは。」

ルナさんもホルムさんも、何と返して良いか分からずに、ただ柱時計の時を刻む音だけが部屋の中に響きます。時計の針が時を進める毎に、全ては過去の物となり、それは一秒毎に遠ざかって行く。気付いた時には、もう決して手の届かない処まで。言い難い焦燥感に駆られて、それを振り払う様にホルムさんが口を開きます。

「それで、」

「その街は、今何処に?」

バラムさんは大きく伸びをしながら答えるのでした。

「さあてね。」

「儂に分かろう筈が無いじゃあないか、世界は広いんだ。」

 これを最後とばかりにバラムさんは立ち上がり、

「どうやら、話過ぎたようだな。もう随分な時間だよ。今日はここまでにしようじゃないか。それじゃあ、お休み。」

 なんだかはぐらかされた様に話しが途切れてしまった事に、ホルムさんとルナさんは物足りない様子でしたが、肝心のバラムさんが引き揚げてしまったので、結局どちらからともなく溜息一つ。片付けしつつのお開きとなったのでした。


 一方、部屋に戻ったバラムさんは、永らく開けられる事の無かった机の引き出しから、長い年月から色褪せて草臥れた封筒を取り出すと、中に入っていた手紙に目を通すのでした。


「永らく連絡出来なくてすまなかった。私達の此方での生活は決して長い物とは言えなかったが、それでも共に過ごした時は幸せな物であった、と断言出来る。私に残された時間ももう残り少ない。唯一の心残りは、後に残される娘の事だ。他に頼れる人がいない以上、君に頼むより他ないんだ。勝手を承知でどうか引き受けてくれないだろうか。」


 バラムさんは大きく溜息を吐くと、返事の帰って来ない手紙に向けて語り掛けるのでした。

「本当に勝手な話だな。だが、まあ、友人の最後の頼みだ。否も応も無かったさ。」

「実際に行ってみたら、勝手に叔父にされていたのには流石に呆れ返ったが、今となってはそれにすっかり慣れてしまって、本当にそう思えて来るものだから不思議なもんだ。」

 苦笑混じりに呟き、再び手紙に手紙に目を落としつつ、何時しか心は遠い昔に過ぎ去った、あの日々に向かって行くのでした。


「……という事でよろしく頼む。そうだ、肝心なことを伝え忘れていた。私たちの娘の名前は……、」


 ルナさんが茶器を片付けようと身を屈めた時、胸元から滑り落ちたネックレスがテーブルに当たり、カチリ、と音を立てました。気を取られたホルムさんが其方に目を向けると、ネックレスの先に付いていた物が余りに意外な物だったので、ホルムさんは思わずまじまじとそれを見詰める格好になり、ふと我に返ると、慌てて目を逸らすのでした。余りに不躾に過ぎたかと。そうしつつも、思わずホルムさんは首を傾げながら訝し気な顔になって仕舞うのでした。何でそんな物がネックレスに? そんなホルムさんの様子に、ルナさんは悪戯が見付かった子供みたいに、少し気まずそうに笑いながら、頬を少し赤らめて、

「これですか? やっぱり変ですよね?」

 と、手に取って見せると、そこには随分と年月を思わせる古びた螺子巻きが部屋の柔らかい光を浴びて、鈍色に光っていたのです。

「随分と年代物の様ですけど、それは?」

 あさっての方向を向いたまま尋ねるホルムさん。ルナさんは少し不満そうに口を尖らせると、わざわざホルムさんの真正面まで行って、件の螺子巻きを目の前に差し上げるのでした。

「私も良くは知らないのだけれど、叔父さんがとても大事な物だから、肌身離さず持っている様に言うものだから、こうして着けて持ち歩いているんです。」

「ははあ、成程。」

 正面から見詰められて、動揺を隠せないホルムさん。知らず生返事になって仕舞い、そこに又してもルナさんにじっと見詰められて、すっかり泡を食ってしまった様子。そんなホルムさんに、ルナさんは軽く微笑むと、手を差し伸べて、ホルムさんの手を取って抱き込むのでした。

 

 その時、二人の手が触れ合った螺子巻きが微かに輝いた事に、二人は気付いたでしょうか。何処かで、カチリ、と何かが嵌まる音がして、ゆっくりと歯車が嚙み合う音が街の至る処から鳴り響いて来る様な、そんな気配を感じて、二人は思わず顔を見合わせるのでした。けれども、本当は心の何処かでこれから何が起こるのか、充分過ぎる程良く分かっていたのです。



 外では、何時しか、銀色の月が空に射し上がり、その光が折から街中を包んでいた霞に溶けて、辺り一面をミルク色に染めて、夢の様な柔らかく優しい空気が街全体を抱き寄せているのでした。

 

  出発には相応しい頃合いです。



                                     


                    星の雫 了

 






 



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星の雫 色街アゲハ @iromatiageha

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