第2話 ルナさんの気掛かり

 以前、私が皆さんにしたお話の一つに、星の雫について述べたものがありましたね。あれから随分の時が流れて、続きをお話しする機会を失ってしまったにも拘らず、それでも皆さんは辛抱強く待ってて下さいました。私自身がその事をすっかり忘れて仕舞っていたというのに。ですので、今回思い切って話そうと思います。ホルムさんがあの街を訪れてからその後のお話を……・

 

 ホルムさんがかの街に移り住んでから暫くの時が過ぎて、漸く新しい生活にも慣れて来た頃、これといって街では目立った出来事も無く、至って平穏無事に日々は流れて行き、全てが順調と思われた中、その中で唯一人、ルナさんだけが何か物憂げに考え事に耽る時間が多くなって行きました。

 心配になったホルムさんや、叔父のバラムさんを始め、ルナさんの様子に気付いた街の人々は皆、ルナさんに何か気掛かりな事でもあるのか尋ねたものですが、困った事に、当のルナさん自身も何が原因でこんなにも落ち着かない気持ちになるのか分からなかったのです。自分でも説明できない、切なさと愛おしさが綯い交ぜになったものが、胸の奥からシクシクと滲み出て、どうして良いかわからないまま、日々を過ごしているのでした。

 

 その気持ちが一番強くなるのが夕暮れ時、西日が部屋の隅を差し、一日の終わりを告げる鐘の音が街中の隅々まで滲み渡る時。遠くから誰かが呼んでる様な、ずっと以前から絶えずその声は響いているというのに、それが耳に届くのはこの短い刻限、空が一面茜色に染まる中、嘆く様な慈しむ様な、微かな歌が流れて来る様に、その音は聞こえて来るのでした。

 その事をルナさんから聞いた人達は、皆一様に顔を見合わせたものでした。何故って、この街には未だ鐘が無かったのですから。鐘楼は出来上がっているものの、肝心の鐘がまだ据えられておらず、ですので、逸早くこの街に鐘をもたらすべく、街中で寄付を募り、その甲斐あって、漸く目途が立とうとしていた矢先でのこの話です。皆が困惑したのも無理からぬ話でした。

 ルナさんも自分で言った事ながら、辻褄の合わない事を言っていると今更ながら気付き、元々塞ぎ込みがちだった処にこんな有様ですから、この処すっかり口数も少なく、話し掛けられても上の空、といった様子で、周囲の人々は心配頻りといった訳なのですが、かと言って、どう宥めたら良いのか分からず、皆すっかり弱り切ってしまっていたのでした。


 何処か遠い処から呼ばれているのに、まるで水の中を漂っているかの様に朧気で、けれどもルナさんを呼ぶかの様な鐘の音は途切れることなく聞こえて来て……、どうする事も出来ずに思わず漏れ出た溜息はどこに届くことなく消えて行き、不意に感じた微風につられるように顔を上げると、陽は斜めに傾いで、たった今しがた吐いた溜息が届くには空は余りに遠く、その下で街は薄暗く赤く染まった地平の先に沈んで行く。そんな中、ルナさんは戸口の傍らで迷い児の様に一人佇んでいたのでした。

 

 随分長い間ぼんやりしていた事に気付いたルナさんは、慌てて家に入ろうと踵を返した処、すぐ傍に所在なさげに立っていたホルムさんに気付いて、思わず跳び上がってしまうのでした。

「あの、何時からそこに?」

そう尋ねるルナさんに、どこか寂しそうに微笑むとホルムさんは、

「いや、ほんのついさっきですよ。」

 その言葉が嘘である事は、流石にルナさんにも分かりました。きっと自分に余計な気を使わせまいと、咄嗟に出た言葉で、本当は自分を心配してずっと傍に居てくれたのだろうと。きっと今の自分の事を話しても、訝しげな顔をされてしまうだろうし、何よりホルムさんにだけはそんな顔をして欲しくない、と心の内で思いながら、ルナさんらしからぬ心にもない無難な話題でも、と考えていた処に、ホルムさんの呟いた何気無い言葉に頭が真っ白になって仕舞う位に驚いて仕舞うのでした。

「それにしても、」


「綺麗な鐘の音ですね。僕は何時もこの時間を楽しみにしているんですよ。」


 夕暮れの街中を二人で歩いていると、何て事のない街並みの風景が何やら何時もとは違って、何処か浮足立っている様に思われて、それにつられる形で二人の足取りも軽く、何も無い筈の鐘楼から頻りに鳴り響く鐘の音は、夕暮れの空に染み入るかの如く柔らかく、それは空一杯に満ち満ちて、未だ明るさを保っている大きな雲の中に吸い込まれて行ったかとみると、其処から今度は溢れる滝の様に雪崩れ、零れ落ちて来るのでした。やがてその音は通り一面に満ち溢れ、街の通りのそこかしこを縫う様に走って行きながら、道行く人々の間を小さな鈴を幾重にも連ねたかの様な、リンリン、と耳に妙な音階を奏でながら擦り抜け、皆の口元を知らず綻ばせたかとみると、元来た空へと帰って行くのでした。

 

 クルクル、クルクル、と空と街とを何度も何度も行き来して、最後には空の遥か向こう側、朱と白とが溶け合った、何れ全ての物が行き着くのだと思わせる地平の彼方へと消えて行く。一日の終わりと、やがてもたらされる静かな夜の時との間に僅かに挟まれる夕暮れの刻。そこには昼の間に見聞きした事、皆が寝静まった後、ベッドの中で夢見る世界とが混じり合い、それはきっと時と場所すらも超えて、今この時だけは全てが集い、溶け合いながら漂って行く。

 

 その中でルナさんとホルムさんが連れ添って歩く道々には、夕陽の温かな光が、流れる鐘の音を照らしたとみると、そこからキラキラ、と涼やかな音を立て、それが長い一条の、目も彩なリボンの軌跡を描き、見えているのかいないのか、道端で遊んでいた子供達が、〝わあい″、と歓声を上げて駆けて行き、一緒にいた犬までもが短く吠えながらその後を着いて行く。これと言って変わった事の無いありふれた光景だというのに、二度と見る事適わない出来事の様にそれは映るのでした。


 そんな光景に背中を押される様に、街外れの鐘楼に向けて歩いて行くにつれ、不意に人通りの途絶えた道。それと共に、それまで歩いていた世界から外れて、見知らぬ世界へと迷い込んでしまったとでもいうかの様に、あれ程煌びやかだった街の賑わいまでもが、はた、と静まり返り、静寂が空気を押し留め、じりじりとにじり寄って来る息苦しさを感じる中で、鐘楼は実際よりもずっと高く見える様に空に向けて背を伸ばし、其処を中心にして巻き上げられた格好の空の大雲は渦を為し、それに合わせ足元の敷石までもがゆっくりと幾重もの円になって廻っていると思えて来て、踏み出す足の置き所を失って、思わずたたらを踏んでしまうかとなる程に、その場所は物々しい雰囲気に包まれているのでした。

 

 それでもルナさんは不思議とこの場所に不安を感じず、むしろ今までに会いたくても叶わなかったものに、もう間近に迫っている事をを感じて、浮き立つ心を抑えかねているのでした。鐘楼の中へと続く扉は、まるで招き入れるかの様に、触れるや否や奥へと開き、急かされる様に螺旋に続く階段を昇って行くと、俄かに目の前に広がる街の全景が、今や姿を半ば以上に隠してしまった夕陽の色に染まり、明らかにそこに無い筈の鐘の音が耳を劈かんばかりに幾度も鳴り響くと、その音に驚いた鳥達が一斉に飛び立って、街の方々に散って小さくなって行くのでした。

 

 その光景に目を奪われて、半ば放心していたルナさんとホルムさん。すると何時からそこに居たのか、街全体を見渡せる見晴らし台の手摺りに凭れ掛かり、じっとそれらの光景に見入っているかと思われた小さな子が不意にこちらに向き直って、ルナさんとホルムさん、二人の姿を認めると、

「やっと来てくれたんだね、待ちくたびれちゃった。」

 と、零れる様な笑みを浮かべて語り掛けて来るのでした。

 

 その声は、何処か物憂げな空気を纏っているこの夕暮れ時の空に、ふと思い出したかの様に頬を撫でるそよ風を思わせる、そんな涼やかさなのでした。

 その声を聞くや否や、ルナさんは今まで自分を呼んでいる様に感じていたのは、外ならぬ目の前のこの子だったのだと気付くのでした。霧の向こう側にずっと隠れたまま、その姿を見る事の出来ないまま、永らくいた中で、漸く見出す事の出来たその姿。それまで自分の周りを取り巻いていた濃い霧は、跡形もなく吹き払われ、全てがストンと腑に落ちたかの様に、ルナさんには思えるのでした。


「あなたは……。」


 と、その子に向けて足を踏み出したルナさんですが、どういう訳か近付いた、という感じが一向にせず、試みにもう一歩、と今一度踏み込んだ処で結果は同じ、どうあってもその 子との間に開いた僅かばかりのその距離を縮める事が出来ないのでした。


「まだ……。」


 と、クスリと軽く笑った中に幾許かの寂しさを織り交ぜながらその子は言葉を紡ぎます。

「これ以上近くに寄る事は出来ないの。そういうきまりだから。」

「それは、どういう……。」

 ホルムさんが訝し気に問い掛けると、

「ごめんなさい、答える事は出来ないの。」

 見ていると胸がつかえる様な悲しそうな表情で返されて、ホルムさんもそれ以上言葉を続ける事が出来なくなってしまうのでした。

 その子は、後ろ手に手を組んで、それでも務めて明るく振る舞おうと、一際大きな声でルナさんとホルムさんに語り掛けるのでした。


「でも、」

「やっとここまで来てくれたんだから、もう、そんなに待たなくてもいいんだね。」

「ここに本物の鐘が出来て、街の何処からでもその音が聞こえる様になる、その頃になれば、その時もう一度会えるようになるから、きっとね。」


「だから、今はさようなら。また会いに来てね、きっとだよ。」


 そう言い終わるが早く、ルナさんとホルムさんの立ってる場所が急にその子から遠ざかって行き、思わず短く声を上げて伸ばしたルナさんの手も届くことなく、小さく微笑みながら手を振る子の姿を最後に、二人は鐘楼の入り口の前に立っていたのでした。

 その扉は固く閉ざされ、其処には立ち入り禁止の貼紙が、夕風に空しく翻っているだけでした。思わず顔を見合わせる二人。元に戻ろうにも、扉はびくとも動かず、どうあってもそこから先に進めそうにありませんでした。

 それでもルナさんは諦め切れない、といった様子で扉を見つめていましたが、ホルムさんの、

「もう一度会える。あの子はそう言っていたでしょう? どうしてだか分らないけど、それが本当にそうだ、と思えるんですよ。だから、ね? 今は帰りましょう。また逢う為にも。」

 その言葉に感じ入るものがあったのか、今一度鐘楼を見上げると、ルナさんは、

「ええ、帰りましょう。私たちの家へ。」

 と、柔らかな笑顔で答えるのでした。


 そんな二人の姿を、鐘楼の上から見つめていた子の姿を認める者はおらず、またその子が最後に呟いた言葉に耳を傾ける事の出来る人もいる筈もなく、それでも、何時か届く事を信じて、


「また、会おうね。父様、母様。」


 その言葉は、暮れ行く空の中に、静かに溶け込んで行くのでした。


 どちらからともなく繋いだ手の温もりを確かめ合う様に、ゆっくりとした足取りで家路を辿る二人の後に付き随う様に、柔らかい音色を奏でる鐘の音が、沈み行く夕陽に代わるように街の隅々にまで沁み込んで行きました。それまでと違って、その音色は街中の人々の耳にもはっきりと届き、皆一様に驚いた表情で、お互いの顔を見合わせたものですが、何時しか、皆その音に聞き惚れて、鐘の音が鳴り響くその間、街はずっと静かな祈りの時を過ごしているかのような穏やかな空気に包まれていたのでした。

 ルナさんとホルムさん、二人の帰って来る姿を遠くに見つめながら呟いたバラムさんの言葉を最後に、さて、私はこのお話を閉じる事にしましょう。


「良い音じゃないか。」


「儂は気に入ったよ。」



                                  おしまい


 

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