あたしの唯一

紫陽_凛

あたしが唯一取れなかった「一番」

 合奏の前、チューニングのB♭ベーの音を鳴らすことができるのはただ1人。

 コンサートマスター。略してコンマス。


 峯岸花音みねぎしかのんは昨日からコンマスをやっている。あたしはそれを隣で聞いてる。くるいのない正確なB♭。

 峯岸花音の音に続いてみんながB♭の音を奏でる。ズレた音、上擦った音、少しやる気のなさそうな音──それらを調整するのが今。合奏前の音出しだ。あたしもまたやる気のないクラリネットのB♭を鳴らす。

 めちゃくちゃ、つまらなかった。



 あたしはなんでも一番でやってきた。中学校の学年のテスト順位も。体育祭の百メートル走も。だから、本当は吹奏楽部のコンマスだってあたしのものだったはずなのに、先代の美緒ちゃん先輩は、次のファーストクラリネットに峰岸花音を指名した。


「カノンの音は澄んでる。だから次のファーストに推します」


 つまるところ、美緒ちゃん先輩が言うことには、……あたしの音が澄んでないってことなんだろうか。

 峰岸花音は、名前こそ華やかで綺麗めなんだけど、その名前を付けられた本人は本好きの根暗みたいな風貌をしている。本当に本好きで根暗かどうかは知らない。でも、第三者のあたしの目でもってジャッジしたら、明らかに陰キャ。

 どこにも行く場所がないからとりあえず吹奏楽部にしてみました、みたいな動機で吹奏楽部に入ってそうだったから、なお面白くない。あたしはコンマスになりたくて、あの小さなオーケストラを率いるコンマスになりたくてクラリネットを志望したのに。


「――クラリネット、音出して」

 峰岸花音が言うから、あたしは後輩ちゃんたちと一緒にB♭の音を鳴らす。

渥美あつみさん、ちょっと低い」

「……チッ」

 舌打ちは楽器をいじくる音に紛れた。あたしはクラリネットのかんを緩めたり温めたりして、音を調整する。この合奏前のB♭は、音出しのほかに、他の楽器たちと息を合わせるための鍵だ。ここを外すと仲間に入れてもらえない。それは分かっているんだけど、よりにもよって峰岸花音にそんなことを言われるのが悔しかった。


 テストだって百メートル走だって私に負けるくせに。

 頭の中ではそんな悪態をつきながら、あたしはゆっくりとチューナーを見つめた。




 花音さんの高音は美しい。って、保科ほしな先生がうっとりいう。あたしはそれを聞いて当然面白くない。そんなことはないと思う。あたしが奏でるその音と、峰岸花音の音が違うなんてことはない。保科先生はきっとコンマスの音に夢見てるんだ。

 壊れかけのメトロノーム、だんだんおもりがずれ落ちて行って速くなっていく。あたしはそれを練習ごとに直しながら後輩ちゃんたちのレッスンをする。

「ゆうやけこやけー」

「はい!」

 あたしはファーストを、後輩ちゃんたちがセカンド以降を吹くことになってる。あたしはこの時だけ一番になることができる。最高音を出したときの感覚は、つま先から頭まで突き抜けていく針みたい。あたしは音符のひとはしらになって飛んでいく。ぱーんと。

 それでも保科先生はあたしを見ない。峰岸花音ばかり見ている。



「あの子ってさ、孤高だよね。尚子なおこと違って」

 参観日、部活を見に来た母親が言うことには、そうらしい。ココ~。

「孤高ってなに。それが偉い事?」

「尚子は面倒見が良くていい先輩になるかもしれないけど、あの子は孤高の職人だ」

「だからそれが――」

 そうやって会話している間にも、ぱーんと鳴るトランペットのあいだから、クラリネットの基礎練習の音が聞こえてきた。音階練習。ロングトーン。馬鹿みたいに繰り返し繰り返し――母親は「聞こえるか?」といったふうに小首をかしげてイヤリングを揺らした。

「尚子みたいなのも必要だし、花音ちゃんみたいな子も必要ってわけ」

 後ろを振り向くと、後輩ちゃんが楽譜を持ってこちらを伺っている。あたしは今の自分の役割を悟った。でも、あたしは――。

「孤高になれる? 尚子は」

 そう言い残して母親は去った。あたしは後輩ちゃんの疑問に答えるべく楽譜を覗き込む。峰岸のとこに行きなよ、と言葉が出かかる。でも、後輩ちゃんが頼ってきたのは私に他ならないのだ。

「ええと」

 シャープペンを持つ手は止まらない。楽譜の読み方くらい覚えなさいよと思いながらも、あたしはそれをやめられない。

 なぜならそこがあたしの小さな小さな城だからだ。あたしがふんぞりかえっていられる場所があるとしたら、そこしかないからだ。


 ちっさい。ちっさいあたし。

「アツミ先輩、どうしたんですか」

 後輩ちゃんが訊くからあたしは首を横に振る。遠くから峰岸の「ゆうやけこやけ」が聞こえてくる。圧倒的に……あたしより豊かな音だった。

 

 認めたくなんかない。





「渥美さん。みんなで合奏しない」

 あまりにも抑揚のない声だったから、一瞬頼んでもいないのに拒否されたのかと思った。あたしはきょとんとして峰岸花音を見つめた。

「急にどうしたの」

「一人もいいけど、みんなと合奏練もしなさいって、先生に怒られてしまって」

 ファーストクラリネットでも怒られることがあるんだ、とあたしは思った。あの峰岸花音でも。あの綺麗な音を出すクラリネット奏者でも。あたしはそれから、笑ってしまった。

「そんなことか。じゃあやろ。でもこのメトロノーム壊れてるの」

「私の使おうか」

 峰岸花音が電子メトロノームを出してくる。あたしたちはそのリズムを体に刻み込んでから、いつものように練習を始めた。

 音階練習。テンポをはやめて。変則的に。そして、フォルテピアノを入り交ぜて。

「ゆうやけこやけ、やろう」

 峰岸花音が言った。「渥美さんがファーストで、私はサードをやる」

「サードォ?」


 あたしは今度こそまじまじと峰岸花音を見つめてしまった。

「なんで? ファーストなんだから、ファーストやればいいじゃん」

「渥美さんもファーストの練習しなきゃだめだよ。それに君たちも、セカンドとサードの練習を両方しなきゃだめ。先輩の前だからって委縮しなくていい」

「ちょっと」

 それはあたしの正義に反した。

 異議申し立てをしそうになったあたしを目だけで制して、峰岸花音は言った。

「とりあえずやってみよう。私の言った編成で、『ゆうやけこやけ』」


 

 峰岸花音はほいとファーストの座をくれた。あたしはそれが憎らしくて苦しくて泣きたかった。情けをかけられてる気がした。だけど。

 だけど「たった一瞬」で、世界が変わることがあって。

 その「たった一瞬」で、峰岸花音は私を変えてしまった。

 

 頰が紅潮してるのがわかった。ファーストからみる景色はこんなに心地のいいものなのか。

 峰岸花音は満足そうに耳を澄ませていた。サードなのに。いや、サードだから、だろうか。峰岸花音のサードは、安定感のあるゆったりした演奏で、全てを支えたのだ。

 彼女は呟く。心底楽しそうだった。

「やっぱり合奏が一番楽しいな」


 保科先生が飛んできて、今のファーストはアツミちゃんのだよね、と訊いた。私が頷く前に峰岸が、「そうなんです」と言った。


「私がいなくても、ファーストを任せられます」





 それから1ヶ月して、峰岸花音の転校が決まった。スライドするようにしてコンマスは私の手元へ来た。

 

「わかってたんでしょ、こうなること」

「うん」

 最後の日に楽器をおさめにきた峰岸に私は問いかけた。つとめて、顔は見なかった。

「だったらどうして、早く言わなかったの」

「寂しいじゃん。どうせいなくなっちゃう人だと思われたくなかった」

 峰岸の両親は転勤族で、ある時期になると転勤が約束されているのだと言った。時期になったら飛んでいく渡り鳥みたい、と彼女はおどけた。

「そういう問題じゃなくて」

「渥美さんは上手いから大丈夫。引っ張っていける。後輩からも慕われてて、いい先輩になれるよ」

「そういう問題じゃなくて!」

 

 あんたが「孤高」なのはだからなの?


 ぐっと飲み込んだ言葉の代わり涙が出てきた。

「あたし、負けたと思ってないからね」

「渥美さん、負けたことなんてないじゃん」

「負けたなんて思ってないから」

 あたしは早口で言った。やけだった。

「絶対に勝つから。いつか勝つんだから。だから、絶対クラリネット続けてよ」

「……そうだね」

 峰岸はあの日みたいに笑った。ゆうやけこやけを合奏したあの日みたいに。


「いつか会おうね。舞台の上で」






 峰岸。


 コンサートのポスターの中で微笑む峰岸は綺麗だった。化粧とドレスとカメラマンの腕のおかげかも知れないけれど、昔の面影を見逃しそうになるほどだった。保科先生の「美しい」って言葉が大袈裟にならないくらい、峰岸は綺麗だった。あたしは通りすがりのOLで、峰岸はプロクラリネット奏者で、あたしたちは完全にすれ違ってしまった。


 あたしが孤高になれなかったからか。峰岸が、それほどにクラリネットを愛したからか。


 どっちも、かも知れない。


 チケットの値段を見もせずに、チケット売り場に急ぐ。峰岸に会うために。


 話すことはなくとも、ただ私が彼女の今の演奏を聞きたかったから。


『舞台の上で会おうね』


 約束は果たせそうにない。忘れてたって構わない。だけどどうか笑いかけて欲しい。

 私が唯一、一番を譲ったひと。


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