勿忘草

@mozukusu2022gou

第1話

 – 1 –


 何も聞こえない、声も出せない。

 あの眼差しも、握り締めた手の感触も忘れてしまった。

 あなたは誰なの?

 暗闇の中に浮かぶ人影。

 とてもよく知っているはずなのに顔を思い出せない。

 頭から原油を被った海鳥のようにドロドロなシルエット。

 誰? 誰なの?

 彼の姿がゆっくりと遠のいていく。シルエットの輪郭がぼんやりと薄らいでいく。

 待って、置いて行かないで!

 私を一人にしないで––––––––––––



 – 2 –


「・・・・・・・・・・・・・ここは・・・・・・どこ・・・・・・?」

 見覚えのない天井。日常感のない清潔感に溢れた布団とシーツ。使い慣れない枕の感触。

 ここは病院のベッドの上・・・・・・?

 さっきのは夢・・・・・・? なんだかよく覚えていないけど、すごく寂しい夢だった気がする・・・・・・。

 ガラッ。

突然、病室の扉が外側から開けられた。

「・・・・・・目が覚めたのか?」

 扉を開けた男の人がそう呟くと、とても慌てた様子で私の傍まで駆け寄ってきた。

「僕のことが分かるかい? 何があったのか覚えてる?」

「何があったのか・・・・・・? うっ・・・・・・!?」

 頭にズキッと鈍い痛みが走った。

 反射的に手を当てると包帯の感触があった。

 私は交通事故にでも遭ったのだろうか?

「一体、何があったんですか・・・・・・?」

「そ、そうか・・・・・・。覚えてないのか・・・・・・。

 丸一日も意識を失っていたんだよ・・・・・・?

 幸い、外傷は大したことないみたいだけど・・・・・・。

左足首を少し捻ったくらいで、あとはかすり傷らしい。

自分の名前は・・・・・・言えるかい?」

「名前・・・・・・・私の名前・・・・・・なまえ・・・・・・思い出せない・・・・・・?

 私は・・・・・・誰・・・・・・なの?」



– 3 –


「––––––––––––いわゆる記憶喪失という奴ですね。

 事故のショックでしょう。神社の階段で真っ逆さまに転げ落ちた訳ですから、相当の恐怖だったでしょう。幸い軽症で済みましたが頭も少し打ったみたいですし、それらが原因でしょう。

 一種の防御反応というやつです。一概に言えませんが・・・・・・アルバム写真を見たり、思い出話を聞いたり、よく知っている人と会ったりして、少しずつ記憶を取り戻すキッカケを与えていくしかないでしょう。ご家族はどちらに?」

「いえ、彼女は僕と二人きりで旅行に来ていたので・・・・・・。

 ご両親は健在ですが、場所は離れていますね。

 いつ頃、退院できるんでしょうか?

 僕でダメとなると、ご両親に会ってもらうのが記憶には一番と思うのですが・・・・・・。」

「身体の方の精密検査の結果は幸い大したことなかったんですがね。

 左足首を捻って少し腫れてしまっていましたが、骨に異常はなく腫れも大分引いてきていますね。

 ただ、転院にかかる手続きや連絡が必要なのと、あと記憶喪失に関しての診断が必要なのであと2・3日はうちで入院してもらいたいですね。

 ついさっき目が覚めたばかりですし、しばらくは人の目の届く所で過ごしてもらいたいですし。」



 – 4 –


 私が目を覚ましてすぐに、彼に呼ばれたお医者さんの診察を受けた。

 目を覚ましてすぐに話した男の人は「坂東」と名乗った。

 どうやら私の恋人らしい・・・・・・。旅行で訪れた神社の階段で足を滑らせて転落した私を、丸一日以上付きっきりで看病してくれていたみたいだ。

「ごめんなさい。折角、年末年始のお休みを使っての旅行だったのに・・・・・・。

治療費まで出してもらって。あとで必ずお返しします。

 えーっと、坂東さん・・・・・・?」

「恋人なんだから気にしないでよ。

 とは言ってもまだ付き合ってから一月ほどだけどね。」

 大した怪我ではないのだけれど、念を押して坂東さんは私を車椅子に乗せて押してくれていた。

「それに謝るのは僕の方だ。

 すぐ傍に居たのに何もできなかった。

 今回は運良く無事で居てくれたけど、万が一のことがあったら後悔しても後悔しきれなかった・・・・・・。本当に、そうなったら茜さんのご両親に合わせる顔がなかったよ。

 記憶の方は残念だけど、気長にやっていこう。僕にできることなら何でも言って。

 まあ、記憶にない男の僕がいつも近くに居るのは居心地悪いかもしれないけど・・・・・・。」

 身体の傷の方は大したことなく、せいぜい歩く時に少し左足が不自由する程度で。

 記憶喪失だと言っても、私からすればどんな記憶をなくしたのかも分からないのであまり深刻な気分にはなれなかった。

 坂東さんがずっと傍に居るという安心感もあって、悲壮感的なものは全くなかった。

 坂東さんから私の名前が「茜」であることや出身地についての話、家族構成について聞かされても特に記憶が揺さぶられることはなかった。

 自分の保険証に載っている自分のパーソナルデータを見せられても「はあ、そうなんですか・・・・・・。」という感想しか出てこなかった。

 鏡で私の姿を映し見ても特に感じる所はなかった。

 あまり手入れのされていない長い黒髪。目の下に少し隈ができている二十歳そこそこの女の顔だ。体型は少しやせ気味で、胸も目立つほど大きくはない。

 対して坂東さんは髪の毛を茶色に染めているけど、物腰が柔らかく優しい感じの好青年の爽やかなイケメンだ。

 こんな私と付き合っているなんて俄かには信じられなかった。

 歳は私より一学年上で、大学で同じサークルに所属していたのが縁らしい。

 しかも坂東さんの方から告白したとか。

やっぱりちょっと付き合ってる所が想像つかない。

流石にもう話すのは慣れてきたけど、恋人っぽく振る舞うのはまだ無理そうだ。

「医者(せんせい)も言っていたけど、記憶を取り戻すには思い出の場所に行くのも一つの手だと思うんだけど、明日病院からの許可が出たら一昨日立ち寄った場所をもう一度見て回ってみないかい? できるだけ交通ルートや時間帯も再現するようにしてさ。

ああ、でも。その足だと神社の階段を登るのは止めて置いた方が良さそうだね。」

「私はもちろん良いですけど、どうやって回るんですか?」

「前と同じようにレンタカーをまた借りてくるよ。

 それじゃ、OKっていうことでいいね?」

 病院の許可は案外簡単に出た。

 元々怪我も大したことないし同伴者が居るので、気分転換とリハビリを兼ねて都合が良いだろうと言われた。

 ただ私の一生分の思い出がすっぽりと抜け落ちているだけだった。

 だけどそれはレントンゲンには映らない。


 – 5 –


 私が事故から目を覚ました翌日。

 日付は12月31日、日曜日。大晦日。

 本当ならもっとまともなデートをできたはずなのに、坂東さんは三日前のデートコースの再現のためにレンタカーまで用意して私の付き添いをしてくれた。

 一応、念のために病院から車椅子を借り出して出掛けることにした。

「ごめんなさい。私のために・・・・・・。」

「あまり気にしないでよ。命に別条がなかったことを喜ばないと。

 そもそも旅行しようと言い出したのは僕なんだしさ・・・・・・。

 二人で乗り越えていこう。」

 ここまで親身になって甲斐甲斐しく接してくれる人と恋仲になれたらきっと幸せなんだろうけど、それまでに至る大切な記憶を失った私には現実感がなかった。

 そういう設定のゲームキャラクターに対するように、車の助手席に座っていてもソワソワしてしまって落ち着かなかった。

窓から見える景色は三日前に見たのと同じものであるはずなのに全く見覚えがない。

 陸地と陸地に間にある海を渡して繋ぐ半島一の大橋を横断して見える風景。

渡りきるのに何分も掛かり、スケール感がおかしくなるようだった。

全長1㎞を超える大きな橋だ。一度見たら忘れそうにない存在感なんだけど既視感を覚えることはなかった。

ただ車のタイヤがアスファルトの上を滑らかに回転する音だけが聞こえてきた。

私たちは大橋を渡り切った先にある道の駅で一度車を停めることにした。

「覚えてないかな? ここのあの売店でクレープを買って二人で食べたんだけど。

あそこの手すりの辺りで並んで、柵の向こう側にある砂浜を眺めながらさ。」

 アイスクリーム入りのクレープを外で食べるのには肌寒い季節だけど、この時間帯の日当たりの良い日なら変な話でもないか。

 日差しが強くて、アスファルトの地面だからかやけに暑く感じる。

「クレープ、もう一度食べてみようか? 何味がいい?」

「えーっ、チョコレート味なら何でも良いです。」

「チョコバナナがあったと思うよ。」

「じゃあ、それで。」

「うん、ちょっと待ってて。車椅子出すよ。ずっと車の中に居ると窮屈でしょ?」

 坂東さんがクレープ屋さんに並んでいる間に、私は車椅子に乗って外の風に当たりつつ待っていた。

 平日だけど年末だからかぼちぼち車の出入りが激しそうだった。

 三日前に来た時はもう少し閑散としていたのだろうか?

 日差しがあるおかげで寒くはなかったけど、浜風が思いのほか強くて車椅子で動き回るのは少々苦労した。

 三日前立ち寄った時は宿泊予定の温泉旅館に向かう前の休憩に立ち寄ったということだった。

 たまたま入った道の駅の景色を見ても、やはり私は何かを感じるということはなかった。

「お待たせ。

 チョコバナナあったよ。どうぞ。」

「ありがとうございます。」

「・・・・・・はい。」

「え?」

 坂東さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて、私の口元にクレープを差し出した。

 ちょっと戸惑ってから意味を理解して、私は顔を赤らめながら一口クレープを頬張った。

 甘くて、冷たくて、おいしかった。

「お返しです。はい、あ~ん。」

 お返しに今度は私が坂東さんの口元へストロベリー味のクレープを差し出した。

 ビュウーッ!

「きゃっ!?」

 俄かに強い追い風が吹きつけて、車椅子の車輪がコロコロと回転した。

 ベチャッ!

「あっ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・。」

「・・・・・・大丈夫、気にしないで。」

 坂東さんはそう言って、何事もなかったかのように顔にベットリとついた大量の生クリームを拭き取った。

 記憶は定かではないけど、慣れないことをするものじゃないらしい。



 – 6 –


 私たちは次に3日前に一泊する予定だった温泉旅館に立ち寄った(実際には荷物を置いて散歩に出掛けた時に、私が神社の階段から転げ落ちてそのまま入院してしまったのだけど・・・・・・)。

 坂東さんが先に車を降りて旅館の受付で事情を説明してくれたおかげで、館内を見て回る許可をもらえた。

 正月休みの旅行シーズンではあるが、たまたま私たちが泊まる予定だった部屋が空いていたので中も見させてもらった。

「どう? こういう旅館に泊まるの初めてだと言ってたけど、何か思い出せない?」

「・・・・・・ごめんなさい。

まだ何も思い出せないみたい・・・・・・。」

あぁっ、ごめん。責めるつもりはないんだ。

 こういうのは気長にいかないとね。

 それに実際に一晩泊まった訳じゃないからそう都合よくいくものでもないよ。

 気楽に行こう、気楽に。

 そう言えば中庭で鯉の餌やりをさせてもらえたなぁ・・・・・・気晴らしに行ってみないかい?」

 荷物を置く時に少し立ち寄った程度の部屋の中を見て回った所で記憶を取り戻すに至るはずもなかった。

 坂東さんは親身になってあれこれ手を尽くしてくれるけど、私にはどうにも変化があるように思えなかった。

 ひとまず彼の提案に乗り、気晴らしのために中庭に向かうことにした。

 坂東さんが受付から貰ってきた二人分の鯉の餌を池の中に撒いて、勢いよく餌をパクつく鯉たちの様子をのんびり眺めた。

 坂東さんは一度に撒く餌の量や場所を変えて、鯉たちの動きの変化を面白がっていた。

 一方で私は貪欲に餌を丸呑みにしていく鯉たちのせわしない様子に圧倒されて、若干引き気味に餌をパッパッと手身近に撒き終えることにした。

 撒かれた餌にありつけるのはほとんど身体の大きな鯉ばかりで、身体の小さな鯉たちはすぐに押しのけられてほとんど口にすることが出来ていなかった。

 ・・・・・・なんだろう?

 彼はこの間は鯉の餌やりをやらなかったと言っていたけど、なんだかこの感覚には覚えのあるような気がする・・・・・・。もしかしたら私はここ以外で鯉の餌やりをしたことがあるのかもしれない。

「あぁっ、終わった、終わった。いい食いっぷりだね。」

「そうですね。あんなに急いで食べたら喉を詰まらせそう。」

「ははっ。どうなんだろうね? 魚って首と胴体が同じ太さで繋がっているからね。喉なんて概念自体あるのかな?

 そう言えば、ここの温泉って入浴料を払えば宿泊客以外も入れるらしいよ?

 折角だから温まっていかないかい?」

「そうですね・・・・・・そうしましょうか。

 折角の旅行なんですから。

 三日前に来た時は入ったんですか? 事故にあった時間帯が記憶になくて当日のスケジュールがどんなのだったか怪しいんですけど・・・・・・。」

「うん、茜さんは旅館に着いた直後と夕ご飯の直前の二回入っていたよ。」

「私って温泉好きなんですね。

 今はそんなに温泉に入りたいって気分でもないだけどなぁ。」

「なんだか温泉の効能が気に入っていたみたいだよ?

 思い返してみると、宿泊先をここに決めたのも茜さんだったような・・・・・・。」

 私って温泉の効能とか気にするタイプなんだ・・・・・・。実感がないなぁ。

 でも私自身の性格を聞くのは記憶を探るのに良いような気がする。

 あれこれ考えを巡らせるのもそこそこに、私たちは旅館の大浴場をゆっくり堪能させてもらうことにした。

 実際にそういうことをした覚えはないけど、なんとなく恋人で公衆浴場に来たら壁越しに相手と会話するシーンが思い浮かぶ。恥ずかしいから自分でやってみようとは思わないけど。

 以前に公衆浴場に行ったことがあるのか、温泉の入浴マナーはなんとなく分かっていた。

 頭の思い出の詰まった部分に鍵が掛かっているようなもので、知識に関する記憶は以前と変わらぬままだということだろう。

 数日前に二度も入ったという大浴場だけど、良いお湯ではあったが記憶の方にはちっとも効用がなかった。

 冷静に考えて見れば数日振りの湯舟にゆっくり浸かりながら私は身体の疲れを解きほぐした。



 – 7 –


「・・・・・・わざわざレンタカーを借りてもらったのにごめんなさい。」

「仕方ないよ。直前の出来事とは言え、少し立ち寄った場所ばかりだし。

 きっと地元に戻った方が記憶を取り戻す手掛かりも多いよ。

 今は落ち着いて身体を治すことに専念しよう。僕が支えるから。」

 温泉にゆっくり浸かったおかげか身体の調子は大分戻ってきていた。

 痛めていた左足首の具合もなんだか良くなったような気がする。

「明日はどうします? 退院の許可が出れば、そのまま帰りたいんですけど。」

「あっ、ごめん。じつは明日は少し別の用事があって。

 少し外に出ないといけないから、申し訳ないけど退院は明日以降でいいかな?

 こんな時に茜さんを一人きりにさせることになって、ごめんね。」

「いえ、全然。

 明日はのんびり休んで、待ってますよ。」

 昨日に比べると彼との会話もぎこちなさが取れてきた。

 元通り自然に話せるようになるにはどれだけ掛かるんだろう?

 ・・・・・・早く記憶を取り戻したいな。



 – 8 –


 病院に戻って確認すると、退院は明日以降いつでも良いと言われた。

 なので坂東さんの用事が終わるのに合わせて、退院は明後日の1月2日に決めた。

 引継ぎ先の私の地元の病院も決まっていて、紹介状は明日中に用意してくれるそうだ。

 坂東さんが明日の用事の準備をするために近くのホテルへ帰っていったあと、久し振りに私は一人きりの夜を過ごした。

 ・・・・・・なんだろう? ・・・・・・こんな感覚を前にも味わった気がする。


 – 9 –


「おはようございます!」

「あっ、はい。おはようございます。」

 私が朝から勢いよく挨拶をすると、すれ違い様の看護婦さんが目をパチクリさせて驚いていた。

 昨日の温泉が良かったのか久しぶりに気分の良い朝だった。

 何の娯楽もない病室で一人過ごすのは退屈なので、病院付属の図書館へ向かうことにした。

 最近のニュースや新聞記事を見ていたら何かを思い出すかもしれない。

 とりあえず今朝の新聞に目を通してみた。

 手に取った地方新聞を流し読みしていると、ふと行方不明者の記事に目が留まった。

「行方不明の女性の遺留品を発見・・・・・・?」

 偶然ではあるが、昨日私たちが立ち寄ってクレープを食べた道の駅のすぐ近くのことらしい。

 地方新聞で唯一馴染みのある場所についての記事だったので少し気になったが、冷静に考えて見ると記憶をなくす直前の記事でないと意味がないだろう。

 私はそのまま今読んでいていた新聞を畳んで、12月28日以前の新聞と取り替えに行った。

 だけど私の記憶を刺激するような記事は見当たらなかった。

 もしかしたら私は新聞やニュースを小まめにチェックする性格でなかったのかもしれない。

 転落事故の際に手持ちの携帯電話を壊してしまって昔の写真や情報を見ることもできていないので、地元に帰るまでいよいよ記憶を取り戻せないかもしれない。

 実家に帰ってアルバムでも見て何かを思い出せれば良いんだけど・・・・・・・。

 しかし一人で図書館で時間を過ごしていると気が滅入ってしかったがなかった。

 私は病院から許可をもらって病院の周辺に散歩へ向かった。

 病院の受付近くに置いてあった地域の周辺地図を片手に、私は気の向くままに外へ出た。

 怪我の回復具合は順調で、若干の違和感は残っているが杖もなしでスイスイと歩くことができた。

 天気もお日柄が良く。ポカポカとした陽気の中、私はバスに乗って昨日とは別のルートへ繰り出すことにした。

 周回バスに乗って地域を一回りしてくるのも気分転換には良いかもしれない。



 – 10 –


 昨日、坂東さんと二人で通った道とは違う旧道を走るルートのバスだった。

 昨日より年代物の橋を渡り、人の気配のない山の中を通り過ぎ、汚れた砂浜が申し訳程度にある海辺と並行に走り、バスは半島の奥の方へとグングン進んで行く。

 私は窓から見える光景を目にしながら、心臓が凍え、心拍数が増していくのを実感していた。

 今朝方に見た行方不明者の新聞記事を見つけた時の心の引っ掛かりを何百倍にも濃くしたような感覚があった。

 記憶はない。

 何かを思い出した訳ではない。

 だけどバスから見える光景のありとあらゆる部分が私の脳を揺さぶり、胸の奥底を掻き毟った。

 その漠然とした不安感のような感覚は、バスが進むほどに強くなっていった。

 いくつもの停車場を通り過ぎ、とある水族館の間近に迫った時、その得体の知れない感覚が最高潮に達した。

 私は居ても立ってもいられず、慌ててバスを降りた。



 – 11 –


 私はこの場所を知っている・・・・・・・。

 水族館の外観を間近で見て、私は確信を深めていた。

 私はつい最近この水族館を訪れて、今この瞬間に立っている場所に居た・・・・・・!

「お一人ですか? 大人一枚ですね。

 ・・・・・・? どうかしましたか? 顔色が悪そうですけど・・・・・・。」

「い、いえ大丈夫です・・・・・・。

 その、失礼ですけど以前どこかでお会いしませんでしたか?」

 私は性質の悪い車酔いをした時のような、気分の悪い眩暈に耐えながら受付の女性に尋ねかけた。

 記憶にないけど、私は絶対にこの人とどこかで会っている気がする。

「えっ? そうですねぇ・・・・・・。あっ、お客さん3、4日前にも来ていたでしょう?」

「・・・・・・あぁ、そうでしたね。なんとなく見覚えがある気がして。」

「ええ、そうですよね。はい、こちらお釣りです。ごゆっくりどうぞ。」

 ・・・・・・記憶を失う前の私を知っている人が居た。

 だけどどういうこと? 私がほんの3、4日にもこの水族館に来た?

 そんなこと彼からは何も聞いていなかったけど––––––––––––

 私の既視感は水族館の内部を進んで行く内にさらに強烈になっていった。

 廊下の形状、長さ、薄暗さ。展示物の内容、その順番。

 見れば見る程、私は頭の中がグチャグチャになるほどの強い既視感に飲み込まれていった。

 間違いない。私はここに居た。



 – 12 –


 結局水族館を一回りしても記憶が戻ることはなかった。

 だけどあと一息のところまで来ているという実感があった。

 水族館を出て、帰りのバスが来るのを待つためにバス停の方に戻ろうとしたが、待ち受け時間が随分とあった。

 なんとなく近くを歩いて時間を潰そうと思って、とくに目的もなく坂道を登り始めてみた。

 周りが森林に囲まれていて空気もおいしく、歩いている内に気分もかなり落ち着いて来た。

 だが不意に神社の鳥居の前に通りがかった時、私は自分の心臓が止まるのではないかと思った。

 坂の上を登りきった先に現れた長い長い階段の入り口の前で、私は呼吸も忘れて茫然となって立ち尽くした。

 地図を確認してみると、そこは私が記憶を失くした場所であった。

 夢遊病に掛ったような覚束ない足取りで、私はゆっくりと階段の上を登り始めた。

 一段上がる毎に心臓が跳ね上がる気分だった。

 私は正体不明の熱に浮かされて、黙々と上へ上へと足を進めた。

 知っている。私はこの景色を。この階段の石畳を踏みしめる感触を知っている。

 私は、この階段の頂上から見下ろす景色を知っている。



 – 13 –


 ただ見て、ただ歩いているだけで眩暈を覚えるほどの既視感に襲われた。

 なのにどうして昨日は何も感じなかったのだろうか?

 今、こうして私がこの場所に来れたのは偶然なの?

 ゾワゾワした感覚が背筋に走り、私は階段の上のさらに奥。神社の周りを取り囲む茂みの中に足を踏み入れた。

 身体が勝手に動くような感覚だった。

「・・・・・・・何か落ちてる。

 ・・・・・・・これはブローチ?」

 私はふと足元に転がる金属製のブローチを見つけて、拾い上げた。

 落されて何日も立っているのだろう。薄汚れている。

 チェーンの部分が切れている。何かに引っ掛かったのか、経年劣化のせいなのか・・・・・・。

 あまり高価そうに見えないが、思い出の品ならば交番に届けなければいけないと思った。

 私は深く考えることなく、ブローチの蓋を開いて中を確認した。

「・・・・・・どういうこと? ・・・・・・これは・・・・・・私?

 でも隣に居るのは・・・・・・坂東さんじゃない・・・・・・?」

 一組の若い男女写真が中に収められていた。

 女の方は私。その隣に居る男性は坂東さんとは全くの別人だった。写真映りの問題とかでは断じてない。

 どこか冴えない感じのぼんやりとした・・・・・・でも不思議と心が落ち着く人・・・・・・。

 写真の感じからしてつい最近撮られたものみたいだ。

 元カレの写真・・・・・・?

 いくら私でもそんなものを新しい恋人との旅行に持ち込むはずがない。

 気付けば、フラフラと歩いている内に随分と森の奥まで来てしまったらしかった。

 帰り道は分かるものの、どうしてか不思議な引力に導かれるようにさらに奥へと足を進ませていった。

 心臓の血液が鉛になったように胸の内に重い感触が溜まっていくのを感じた。

 この先に答えがあるという確信があった。

 何の答えかは分からないが、何かがあることは分かっていた。

「・・・・・・・・・・・・坂東さん? ・・・・・・・・・・・・こんな所で何を?」

 私の追い求めていた答えがそこにあった。

「い、いや・・・・・・茜さんの方こそ何でこんな所に・・・・・・・。」

「・・・・・・気分転換にバスで半島をぐるっと一周でもしようかと思って。

 そうしたら見覚えのある場所があって・・・・・・そこからいつの間にかここまで・・・・・・・。」

 本当は会話の必要性はなかった。

 坂東さんの・・・・・・彼の姿を見れば一目瞭然であったから。

 私は今朝方に見た新聞記事の内容を思い出していた。

 行方不明者の女性––––––––––––

 発見された遺留品––––––––––––

 発見場所は昨日立ち寄った道の駅のすぐ近くだった––––––––––––

 血塗れの衣服で、中身の詰まった寝袋を重たそうに引き摺って・・・・・・。

 全身から冷や汗が噴き出し、凍えるような寒気に震えた。

 私は身体を反転させ、必死でその場を離れようとした。

 森の中の道なき道を全力で駆けた。

 背後でドサリと重いものが落とされる音が聞こえた。

 そして肉食獣のように獰猛な足音が背後から近付いて来た。

 私は迫り来る足音から逃げながら、これまでで一番強烈な既視感に襲われていた。

 私は以前も、この森をこうして必死に逃げ回ったことがある。

 耳の中で心臓の鼓動音が鳴り響き、それ以外の音が消えた世界の中を全力で駆けた。

 だが例の階段に辿り着いた辺りで追い付かれ、腕を掴まれた。

 そうだ。前もここで捕まったんだ。

 そして突き落とされたんだ––––––––––––

 私は恋人を名乗っていた時とはまるで違う狂犬のような凄まじい形相だった。

 本気で私のことを殺そうとしている。

 私に見てはいられないものを目撃されて、私を口封してしまおうと・・・・・・。

 男の腕力には到底敵わず、私が再び階段から突き落とされようとした時。

 恐ろしい地鳴りと共に大地が揺れた。

 ビーッビーッと激しい地震アラームの音が彼の懐に仕舞われた携帯電話から鳴り響いた。

 震度3ほどの揺れの直後、天地をひっくり返したかのような激しい揺れに襲われた。

 揉み合いなどしている場合ではなく、私は地面に跪いて階段の段差を両手で掴んでへばりついた。

 一方で彼は恐ろしい大地震の最中にも関わらず私の命を狙った結果、バランスを大きく崩して長い階段の下へ真っ逆さまに転がり落ちていった。

 怨嗟に満ちた断末魔の雄叫びが奈落の底に消えていった。

 周りの樹木がバキバキとへし折れていく、この世の終わりのような数十秒であった。

 激しい揺れと轟音が収まり、私は恐る恐ると目を開いて階段の下を覗き込んだ。

 いくつもの建物が倒壊し、道路が隆起・陥没し、階段のあちこちも崩れ落ちていた。ひどい有様だ。どれだけの範囲にどれだけの被害が出たのだろうか見当も付かない。

 ・・・・・・分かることは一つ。

 少なくとも彼が二度と事件を起こすことはないだろう。永遠に。



 – 14 –


 元日に半島を襲った大地震の被害は凄まじく、広範囲に渡って道路も大破しバスの運行なんてとても出来そうにも状況だった。

 運が良かったことに、地震の直後に警察がパトカーに乗って現着してくれたので私は無事保護された。

 坂東を名乗っていた男の犯行は先日の行方不明者の遺留品の発見のあとすぐに警察に特定されていたのだ。

 大いなる自然の力はその地域に大きな損害を与えると共に、一人の人間が犯した罪を暴くことにもなった。

 この半島で人知れず発生した連続強姦殺人事件。

 その死体遺棄の現場が大地震の影響で大きく隆起し、堆積していた大量の女性の遺体が発見されることになった。

 「坂東」という名前は偽名で、もちろん私の恋人などというの真っ赤な嘘であった。前日に私と回った場所も実際には、あの寝袋の中に入れられていた犠牲者と回ったデートコースだったそうだ。

 男は性欲と金銭欲の両方を満たすために、主に出会い系サイト・アプリを利用して不特定多数の女性を誘惑し、この半島に旅行名目で連れ出して次々に犯して殺していったのだという。

 私は偶然死体を遺棄しようとしている現場を目撃してしまい、恐ろしい連続強姦殺人魔に命を狙われることになった。その結果あの神社の階段から転落し、記憶を失うことになった・・・・・・。

 私が上手いこと死んでいればそれで終わりだったのだろうが、幸いにも私は大した怪我も負わずに命を取り留めることになった。

 しかも私の死を確認しようと傍に近付いている所を通行人に目撃されてしまい、男は私の恋人のふりをして誤魔化そうとした。

 私が目を覚ます前に口封じするつもりがそれも上手くいかず、偶然にも記憶喪失となった私を監視しながら人知れず口封じする機会を狙っていたのだろう。まるでそうして人を殺すことが当然であるかのように。

 だがそれも終わりだ。

 警察は男の身元をすでに洗い出し、家宅捜索によって大量の証拠物をすでに押収しているという。

 さて「坂東」と名乗っていた男が偽物である以上、私の代わりに実家への連絡を取っていてくれたというのもデタラメで、私は改めて電話を掛けることになった。

「もしもし、お母さん・・・・・・?」

 実家の番号に掛けると、中年頃の女性が電話口に出た。

 ぼんやりとしている感覚ではあるが聞き覚えのある声だ。

 私は躊躇いがちに電話相手へ声を掛けた。

 だが私以上に電話に出た母親(?)の方がはるかに酷く取り乱した。

 私が宥める内に次第に落ち着いてきたが、私には何故そこまで騒ぐのか分からなかった。

「お母さん・・・・・・? どうしたの? そんなに慌てて・・・・・・。」

「どうしたって、あなたが突然姿を晦ましたからでしょう!?

 もう何日も経ってるのよ!? い、今どこに居るの? すぐに迎えに行くから!」

「私が・・・・・・? 行方不明・・・・・・だった?

 えっ、なんで・・・・・・? そんな・・・・・・・えっ・・・・・・?」

「本当にどうしちゃったの?」

「いや、その・・・・・・。」

 私は思考がまとまらず、上手く答えることができなかった。

 意味が分からない。私に何があったのか。

 だが、その答えはとてもあっさりと明かされることになった。

「––––––––––––草加くんの葬儀が終わってすぐにどこかへ消えてしまったのよ?

 急に誰にも言わずに居なくなってしまったから本当に心配したのよ?」

「・・・・・・・・・・・・。」

 私は母さんのその言葉を聞いた瞬間に全てを思い出した。

 草加くん。私の死んだ恋人。

 ここは彼と唯一旅行した土地。

 私は・・・・・・私は・・・・・・・私はここに死にに来たんだ。

 私は何もかも思い出した。

 記憶も、思い出も、感情も、ここに来た理由も––––––––––––



 – 15 –


 私は一人、例のあの森に立っていた。

 私が死体遺棄の現場を目撃したのも、この場所に来るための道中だった。

 私はここへ来るためにこの半島へ足を運んだんだ。

 この、彼と二人で見た綺麗な夕焼けの景色を最後にもう一度見るために・・・・・・。

「・・・・・・ごめんなさい。」

 日が沈み、辺りは急速に冷え込んできた。

 薄暗くなっていく中で、私は俯きがちに呟いた。

「ごめんなさい。怖くなっちゃったの。

 あなたのためなら死んでも良いって・・・・・・あなたの居ない人生なんて意味はないって信じていたのに・・・・・・本当に殺されそうになった時、思ってしまったの。

 死にたくない・・・・・・もっと生きていたいって・・・・・・。

 絶対にあなたのこと忘れないって思ってたのに、数日間だけど全部忘れてしまって・・・・・・。きっと私はあなたを失って生きていけるんだと思う。もしかしたら次に新しい人ができるかも知れない。結婚だってするかも。子供だってできるかもしれない。

 私はあなたが居なくなっても幸せになれるのかもしれない・・・・・・。

 あなたが居なければ生きている意味はないと思っていたけれど、私は何の意味がなくても生きていけるのかもしれない。

 だからごめんなさい。

 そしてさようなら––––––––––––」

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