四、贈り物

八郎は朝起きるとまず、村の出口にある石階段へと向かう。

石階段の一番下に、夜の間に村人が用意した風呂敷包が置いてある。

これが村から水神様へのお供え物だ。

風呂敷包を回収すると、そのまま水神様のところへは行かずに、一旦川へ行って漁をする。

この漁の成果は、八郎から水神様へのお供え物だった。

『村からの供え物だけでは足りない日もあろう。できるだけ、お前からも水神様へお供え物を渡すように』

と村長に命じられていたからだ。

その代わりに、一日三匹までしか魚をとってはならない、という縛りがなくなった。

八郎にとって負担は増えたが、嬉しくもあった。少くとも、いくら魚を獲っても十太に因縁をつけられることはない。

八郎が夜の間に仕掛けておいた網と籠で作った罠に、数匹の魚が掛かっている。

それを水神様の分として籠に入れ、八郎は滝つぼへと向かった。


*


朝の日差しに照らされた水流が、絹糸のように白く岩を走っている。

霧になった水しぶきは青く茂る木の葉を濡らし、立ち込める草木の匂いをいっそう濃くしていた。


「水神様、おはようございます。昨日の八郎です、お供え物を持って参りました」


八郎が滝の落ちる先に向かって呼び掛けると、ばしゃん、と水音がした。

透き通った青緑色の水を泳ぐ大きな影が、八郎の方へ静かに近づいてくる。


ぴい、という鳥のような鳴き声とともに、水神様がゆっくりと水面から顔を出した。

水に濡れた青銀色の皮膚に、金柑色の大きくて丸い瞳。

昨日は気が付かなかったが、首筋にはえらのようないくつもの裂け目があった。

近くに来ると少し生臭い。魚のような臭気がする。


「あの、これ、今日の分のお供えもんです」

籠の蓋を開けて差し出す。

水神様が真っ先に手を伸ばしたのは、先ほど八郎が川で捕まえたばかりの魚だった。

小さい口をあんぐりと開く。

まだ跳ねている魚を掴んで持ち上げると、そのまま頭から口に放り込んだ。

ばり、ばり、と音を立てながら、丸ごと噛み砕いている。

濃い血と魚の臭いが鼻を突く。

「う……」

その光景のあまりの生々しさに、八郎は息をのんだ。

魚を食べ終えた水神様が、長い舌でべろべろと顔の回りを舐め回している。

──神様が供え物を召し上がっているというよりは、まるで動物が生きるために獲物を食べているような──

八郎はそんな印象を抱いた。


水神様の長い指が、籠に入っている茸をつまみあげた。

指と指の間に、半透明の薄い膜のようなものが張っている。蛙の指に少し似ているな、と八郎は思った。

「ぴ?」

水神様は茸を指で弄りながら、首を傾げて眺めている。まるで初めて目にした子供のようだ。

もしかすると、これが食べ物だと分からないのかもしれない。

「ああ、それは、茸です」

「ぴい?」

水神様の大きな目に見つめられて、八郎は、はっと我に返った。

お食事の最中に自ら話しかけてしまった。

長い一人暮らしのせいで会話に飢えていたのか、先の生物的な姿を見て親しみを覚えたのか。人に対してかのように話し掛けてしまった。

馴れ馴れしすぎたかもしれない。お怒りに触れるだろうか。

「……」

水神様はじっとこちらを見つめ、水晶のような瞳を瞬かせている。

八郎の掌に冷たい汗が滲んだ。


「……ぴー」

水神様はおもむろに茸を食べた。

数回咀嚼して飲み込むと、

「ぴい」

と言いながら、細かい歯の生えた口を、にっと横に広げた。

……笑った。

と、八郎は思った。

この茸が気に入ったのかもしれない。

ひとまず機嫌を損ねた様子が無いことに、ほっと胸を撫で下ろした。

いや、そもそもの話、水神様に人間の言葉は通じているのだろうか?

八郎の思案をよそに、水神様は残りの供え物を平らげてしまった。



*


水神様の元に通い始めて十日、一月と経つにつれて、八郎はこの仕事に慣れていった。

それは水神様も同様で、今では八郎の足音を聞いただけで近くに来て、ぴいぴいと鳴くようになった。

水神様はなんでも食べた。

八郎が持ってきたものはなんでも、魚も肉も木の実も、すべて口に放り込んだ。

といっても好みはあるようで、苦味のある木の実や山菜の類いはあまり好きではないらしく、一口齧って放ることもあった。

一番反応が大きかったのは肉だ。

鶏肉を持っていった時が、一番喜んでいたように八郎は思う。

それを村長に報告すると、

「……そうか」

あからさまに表情が曇った。

用意する手間を考慮すれば、嬉しくはない報告だ。


「水神様、今日は野兎の肉がありますよ」

慣れてからというもの、八郎は良く水神様に話し掛けるようになった。

何を話しかけても、お怒りに触れるようなことは無さそうだと気付いたからだ。

その代わり言葉が通じているのかも分からないので、半ば独り言のようなものだったが、

「ぴい」

と返事が来るだけで嬉しかった。

両親の最期のせいか、村の掟のせいか。

八郎とまともに口を聞いてくれる人は少ない。

村長などは、この役目が無ければ目を合わせてくれる事さえ無かっただろう。

今日は暖かいですね。

大きい魚を見つけましたよ。

花が咲いていました。

他愛のない話が出来る相手など、両親が死んでからは誰一人もいなかった。

村の子供に話し掛けても石を投げられるか、親に近寄るなと怒られるかのどちらかだ。

こんなにも会話をしたのは本当に久しぶりだった。


野兎の肉を食べ終えた水神様は、八郎に向かって

「ぴいっ!ぴっ、ぴっ」

と鳴いた。

いつもよりも声が大きい。なにかを語り掛けているようだった。

「な、なんでしょうか。兎、美味しかったですか?」

兎の肉がよほどお気に召したのか、それとも何か伝えたいことがあるのだろうか。

八郎が必死に耳を傾けていると、水神様は水面に潜ってしまった。

「水神様!?」

慌てて水面を覗き込む。

数秒のち、

「ぴーっ!!」

「わっ!」

水神様が勢い良く顔を出すと、何かを八郎の目の前に投げて寄越した。

「……魚?」

まだ生きている、丸々と太った青魚だ。

「ぴい!」

八郎は、こちらを見ている水神様と、びちびちと跳ねている魚に交互に視線をやった。

「これは……俺に?」

受け取って良いものか分からず悩んでいると、

「ぴっ」

水神様が、魚を手で八郎の方へ押しやった。

言葉が通じなくても分かる。

……自分に受け取れと言っているのだ。

「あ、ありがとうございます!」

八郎は恭しく魚を両手で掬い上げ、再び水神様に頭を下げた。

ぴ、と小さく鳴いた水神様の表情は、どこか満足気に見えた。


八郎は水神様に何度も礼を言って、浮かぶような足取りで家に向かった。

まさか贈り物を貰えるなどとは思っていなかった。

頂いた魚は食べるのが惜しく感じられたが、新鮮なうちに食べないのも罰当たりだ。

昼飯変わりに焼いて食べると、あまりの旨さに驚いた。

自分が川で獲っている魚とはまるで違う、脂の乗った上等な魚だ。水神様が持ってきて下さったのだから、特別な魚なのかもしれない。


昼飯を食べ終えて横になっていた八郎は、ふと、自分が笑っていることに気がついた。口角が上がっている。

……満ち足りているのだ。

美味しい魚を食べたことよりも、水神様が自分のために魚を持ってきてくれたことが心底嬉しかった。不思議と胸のあたりが暖かい。

八郎はむくりと起き上がると、家の隅で埃をかぶっていた弓に手を伸ばした。

弓矢の扱いはどうにも苦手で、ここしばらくは魚ばかり捕っていたが、また挑戦してみるのも良いかもしれない。

できることなら、明日も水神様に好物のお肉を持って行って差し上げたい。

断じて、またお礼が欲しいからではなかった。

ただ水神様に喜んでほしいという気持ちだけが、八郎の中にあった。


八郎は、十何年ぶりに、明日が待ち遠しかった。


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水神様の使い 森一人 @aragane-

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