三、 水神様
男と八郎は、連れ立って滝壺までの道のりを歩いていた。
滝までは村から二時間、八郎の家からは一時間半ほどかかる。
村を出て川沿いに山を登り、岩の剥き出しになった斜面を登る。
あぜ道を木々を掻き分けて進むと、開けた場所に出た。
ここは村の者が行ってはいけない場所だと言われていたため、八郎も来るのは始めてだった。
岩間から流れ落ちる水が、絶え間なく水音を奏でている。
しぶきをあげる清流を受け止めて、鮮やかな翡翠色の滝壺が水面を白く光らせていた。
神様が本当にいてもおかしくない場所だ、と八郎が思うほどに美しい場所だった。
木陰に隠れるようにして、こそこそと男が話しかけた。
「水神様はもうそこに居られる。ここからはお前ひとりでゆけ」
「これを供えればいいんですか」
八郎の手には、風呂敷に包まれた籠があった。
中には飯、茸、木の実、干し肉が入っている。
そうだ。と下男が言った。
誰かに聞かれぬように、声をひそめているようだった。
「ちゃんと、すべて召し上がるのを見届けてから帰れ。帰ったらすぐ村長の家に報告に来い」
それだけ言うと、逃げるように帰ってしまった。
八郎は風呂敷包みを持って滝に近づいた。
流れ落ちる滝の向こう側に人影が見える。
──あれが、水神様だろうか。
緊張で胸が痛い。
「……あのう、」
遠くから恐る恐る声を掛けると、人影が消えてしまった。
八郎は慌てて辺りを見回した。
自分の声の掛け方が悪かったのだろうか。
相手は神様なのだから、跪いていた方が良かったかもしれない。
一体どうしたものか。
お供え物を置いて一度離れてみようか、と考えたその時、
「ぴーーーーー」
という甲高い音と共に、突然、水面からなにかが飛び出した。
八郎の顔に冷たい水しぶきかかる。
目の前には、明らかに人間ではない生き物が、上半身だけ滝つぼから出してこちらを見つめていた。
青魚の腹のような色をした皮膚に、人間より二回りは大きい瞳。
つるりとした頭の側部には魚のヒレのようなものが付いており、頭頂部には赤く膨らんだ突起が付いている。
「ひっ……」
八郎は水辺に尻もちをついた。
これが、水神様だというのか。
この魚と人間を足したような生き物が。
「ぴい」
目の前の──水神様が、ぴい、と言った。
先ほどの甲高い音は、水神様の声であったらしい。
開いた口の中は赤く、獣のように鋭く細かい歯がびっしりと生えている。
八郎は本能的な恐怖を感じた。
食われる、となぜか思った。
「あ、お、……お待ちください!」
落とした風呂敷包みを引ったくり、震える手で急いで包を解く。
「こ、これ、村からのお供えもんです!食べてください!!」
籠を開けて差し出し、指を合わせて跪いた。
……食べている様子はない。
上目で様子を伺うと、水神様が、ぴ、ぴ、と鳴きながら、籠を指でつついている。
もしかすると、これがなんだか分からないのかもしれない。
八郎はゆっくりと上体を起こすと、水神様は
「ぴいい!」
と後ずさり、肩まで水の中に入ってしまった。
驚かせてしまったらしい。
「あの、これ、食べ物です……」
八郎が干し肉を掴んで、そっと水神様の方へ差し出した。
「ぴ?」
水神様は大きな瞳で不思議そうに肉を眺めている。
八郎の顔と肉を交互に見て、やがて小さな口で干し肉に嚙みついた。
八郎が手を離す。
そのまま咀嚼し、飲み込んだ。
「こちらも……」
水の中での方が食べやすいのだろうか。
八郎は滝つぼの上で籠を逆さにひっくり返した。
茸や木の実が、水面にぽちゃんと落ちていく。
水神様はすい、と泳ぐと、器用に水の中でそれらを拾って食べた。
魚みたいだ、と八郎は考えて、すぐにかぶりをふった。
神様に対して無礼なことを考えてはいけない。
お供え物を全て食べ終えた水神様は、滝つぼの真ん中あたりで水面から顔だけを覗かせて、八郎の様子を伺っていた。
八郎は再び跪いて、水神様、と呼び掛けた。
「お、俺は、八郎と申します。水神様のお使いのお役目を、させて頂いている者です。これから、毎日捧げものを持ってきますから、どうか村をよろしくおねがいします」
迷ったが、両親のことは言わなかった。
両親が嵐の日に川に入って申し訳ありませんでした、と口にするのは、どうしても抵抗がある。
あの日、両親はたとえ死んでも自分を生かそうと掟を破ってくれたのだ。
それを詫びることは嫌だった。
……水神様の反応はない。
ただずっと、八郎の方を見ている。
「で、では、失礼します」
八郎は立ち上がると水神様に一礼し、林の中を駆けた。
心臓が早く脈打っている。
自分は神様に会ったのだ、という高揚と、怒らせたのではないか、という恐怖が胸に渦巻いている。
ほとんど走るようにして村へと戻った。
*
村の入り口では、村長と占爺が八郎の帰りを待っていた。
「八郎、水神様には会えたか!?」
「お供え物は渡しただろうな?」
二人が矢継ぎ早に質問してくるので、八郎は息を整えながら必死に答えた。
水神様のお姿や、その声について。
お供えものを最初は食べなかったが、手渡したら食べたこと。
こちらを伺っていたこと。
供え物を水の中に放ったことは、怒られそうなので言わなかった。
そうかそうか、と占爺が頷いた。
「よい、よい。上出来じゃ」
「本当にこれで平気なのだろうな」
村長が睨むと、平気じゃて、とまた頷いた。
「では、明日から欠かさず使いを頼むぞ。持っていく供え物は、夜のうちに村の出口へ置いておく。朝になったら一番に水神様のところへ持っていけ。良いな」
こうして八郎の、水神様の使いとしての日々が始まった。
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