解説 関係に疲れる瞬間(19年)

 僕は大体20000字を越えた小説にはあとがきと解説をつけることにしている。これまではどちらかと言えば掌編を投稿し続けてきたが、今回は約一年ぶりに20000字を越える小説を完結に導くことができてほっとしている。暫く筆を置いて大学の課題やバイトに専念しつつ、偶に徹夜で掌編を上げる生活を夏まで続けたいと思う。前置きはここまでにして、この「解説」まで読んでくださった皆さん、そしてGWという忙しい期間に一緒に小説を書こうという僕の我が儘につきあってくれた友人Iくんに感謝します。ありがとう。



 さて、僕が馴れない解説という試みを考え、こうして執筆しているのにはわけがある。この小説がおおいに人の誤解を生みかねない作品であることが予想されるからである。拙いながらも、どうして僕がこの作品を書いたのか、この作品は何を意味しているのかを少しばかり自分の過去作も交えて書いていきたいと思う。つまりは弁明の時間である。



 僕が小説を書き始めたのは10歳の頃である。当時は今のように国文学を研究したいなんて微塵も思っておらず、読んでいた小説も童話か児童文学か海外小説(短編)くらいで、読書というよりは友達と近所の山を駆け巡り遊び疲れたら寝るみたいな、順当な小学生生活を送っていた。しかし小学6年生の夏休みの時に祖父から手渡された一冊の本が、僕を現在まで引き続くことになる小説執筆の原点となる。それは司馬遼太郎『関ケ原』(新潮社)だった。上中下巻あって、途方もなく小さな文字。紙面に躍動する騎馬武者の隊列、合戦風景。そして克明に描き出された「死」という概念にわたしは虜になり、様々な歴史小説を読み漁りながら、それを模倣した小説をノートに書きなぐっていた。「両親はわたしの書いた未熟でカタチの定まっていないアモルフ(不定形)な小説もどきさえ褒めてくれた」(第二幕)というのはこの時の話である。




 高校受験のために一度小説執筆を辞め、毎日塾に通って勉強に明け暮れた中学時代にあまり良い思い出はない。入学した当初はいじめられたし、教師が何か援けてくれた憶えもなく、たいして仲の良い友人も居らず、ただ後ろにくっついて「友達ごっこ」をする毎日は苦痛でしかなく、学校では図書館に引き篭もっては歴史小説やら手塚治虫の漫画をひたすら読む生活をし、家に帰ればすぐ塾へ向かって勉強することの繰り返しだった。だが今から思えば、この小説を書くにあたって一つの主題となっている「人間関係の構築と断絶」に関して考察を深めた時期であるかもしれない。




 僕が再び筆を執ったのは高校一年生の時である。15歳の春、世間ではコロナが流行し、僕たちは中学の卒業式も入学式も満足に行えず、暫くすると「緊急事態宣言」が発表され高校は休校になった。そしてオンライン開催となった初の集会で第一幕の学年主任の演説が繰り広げられるわけである。僕は基本的に教師に反抗するとかいうバカな真似はしなかったけれど、国立大学一辺倒な母校に些かも反感を持っていなかったというのは嘘になる。僕は学校の課題をサボる一方幻想小説(掌編)を幾つか仕上げ(今から考えると驚くべき速筆!)、「小説家になろう(エブリスタ)」に投稿した。ここで初めて世間様に僕の小説を公表することになったわけだが、なんとも馬鹿な話であるがアカウントを喪失したために自分自身の作品にアクセスできないという珍事が発生し、僕がどのような小説を書いて投稿したのかは不明なままである(追記:直接ではないものの、高校時代の自分の作品を読むことに成功し、懐かしい気分に浸っている)。





 しかしコロナ禍が明け、課題の提出も誤魔化しが利かない段階になるとようやく本腰を入れて勉強することにした僕は、I県の国立T大学を第一志望に日夜勉学に勤しむようになる。「わたしは敗北続きの人生では両親に申し訳ないと思った。だから、高校では猛勉強してこれまでの人生の挽回を図った。走り続けるわたしの膝は何度もこけたせいで深い裂傷を負い、どす黒い血が噴き出している、そんな状態でわたしは懸命に走り、そして傷まみれであるが故に再び転倒して敗北したのだった。」(第一幕)というのは些か大袈裟過ぎる気はするが、概ね事実である。小説執筆は再び断念せざるを得ない状況だったが、高校時代には「受験勉強」のためにも幅広い分野の小説を読むように心がけたため、それまでの歴史小説ばかり読み歩いていた時代から、純文学にジャンルが移行し、現在純文学の小説家志望としての僕が形成された重要な時期である。影響を受けた小説家は数多くいるが、その中でも筒井康隆・星新一・川端康成・村上春樹・大岡昇平・夏目漱石・安部公房・中島らも・石原慎太郎・開高健・ドストエフスキー・ヘミングウェイなどは図書館の本棚にあるものは大体読んだ。そして、僕は運命の出逢いを果たす。稀代の天才小説家、大江健三郎との邂逅である。





 語りたいことは山ほどあるが、語彙力増強と、共通テストの癖のある小説分野の対策のために読み始めたに過ぎなかった偶然とも言える邂逅、そして今でも『飼育』を読んだときの感動は忘れられない。そして『万延元年のフットボール』。若き日の僕は大江先生の存命中に芥川賞を受賞し、先生のご自宅に送り付けることだけを目標に生きることを考えたわけであるが、受験に失敗した去年の春先、先生は老衰のために逝去された。このショックは大変なもので、「わたしはうつむいて、時には静かに涙を流しながら、これまでの自分の不徳を顧みることも儘ならず、かといって将来のことを考えることも出来ないで、ただ死ぬことばかりを考えた。逆説的ではあるけれど、というものを考え、いざそこに向かって駆け出すことを考えると、気分は随分晴れやかになるのだった。」(第一幕)の一因でもあった。しかし、本作とはやや逸脱する内容であるためここでの言及は控えたいと思うが、「死」という概念についてとことん考えた時期が去年の春休みであり、僕が現在小説を執筆しているのは実はこの時期を経ているというのが重要だったりする。人間はいずれ死んでしまう。人生に目的も意味もない。けれど、生きることには根底に何かしら尊いものがあるはずだ。僕はそれをと呼称し、これに支えられながら、死んでいった人々の思いを繋ぐことを小説全体の主題に位置づけた。「死」とは何か考え始めた時期のカクヨム初投稿作品「The beautiful canvas」から、個人的な自信作「聖餐」を経て最新作「あの時助けていただいた蜘蛛です。」に至る根底にそうした考えがあることを知ってから全作品読んでいただくと、また違う味が出てくるかもしれない。まあそんなニッチで物好きな方いるとは思いませんが。そして本作は決定的にこの系列から逸脱している。だからこそ、僕はこの小説を解説し、尚且つRewriteを重ねねばならないと思っているのだ。





 本作品は人間誰しもが持ちうる欠点を容認することが出来ない主人公の「わたし」が、酒に酔うと面倒くさくなる先輩・上田と破局するまでを描いた作品である。彼らをはじめとした登場人物にはそれぞれにモデルがいるが、差し障りがあるので、名前を始めとして出身大学や出来事の細部、性別や容姿など、設定は変更してある。「舞台は馬場で、私小説の体を取っているんだけど、形式は重層型の回想モデルを考えてるの。主人公の回想と現実が入れ替わったり、元に戻ったりする。基本的にはわたしとわたしの元カレの対話をベースにしてる。」(第三幕)に大まかな説明がなされているが、今までの直線的になりがちな私小説の叙述からさらに回想を盛り込むことで時系列・経緯をごちゃまぜにし、さらにこの小説を書く「わたし」と批判的読者片山の対話を挿入することでメタ的要素も加えることに成功した、形式としては申し分ない自信作である。次回作は長編を執筆し、公募に出そうかと考えているが、今回の作品を友人I君をはじめとした読者の皆さんがどのように評価するか(手厳しく評価していただいて構わないが)でこの形式を取り入れるか否かを判断したいと考えている。




 さて、主人公の「わたし」は上田に辟易していることをサイゼリヤの料理を食べながら自分の過去を交えて叙述しているが、随所で自分自身の分析を行っている。誤解を生みかねないので明言しておくが、この小説は「上田批判」や「飲酒に対する批判」に帰結するのではなく、自分自身に対する痛烈な批判的考察を描くことが目的であり、前述した主題「人間関係の構築と断絶」を浮かび上がらせるための、いわば自傷行為的小説である。冒頭部分で「わたし」(以下「」省略)は、「人間とは他者との関係で生きている動物なんだとわたしは常々思っている。人間という生物は、自然の環からはみ出して孤独になったために、他の人間と繋がることでしか生きていけないのだ。けれどわたしという生物はそう思っていながら、人間とと途端にそれを拒絶してしまうようなのだ。脂っこい毛むくじゃらの手で頬を執拗に撫でられるような不快感がわたしの小さな、余りに小さく猫背な背中からぴょっと出てくるのだった。それは相手がどれ程清らかであっても同じだった。一定以上の関係を結ぶと、裁ちばさみでそれをざっくり切ってしまいたくなる。わたしは酷い生物なのだ。」と吐露している。人間という生物は「関係」が一番重要であるというわたしの考え方は、前年にR大学に在籍していた時に「クラスを追放され、居場所を完全に喪失した」(第二幕)ことで「関係」が断ち切られる孤独を感じたからこそ生まれた思考である。この部分には図らずも「聖餐」においても似た描写があるので記載しておく。「わたしたちはひとりぼっちに耐えられないんだよ。この世界のあらゆる動物や植物を殺したり、伐採し続けてひとりぼっちになってしまったわたしたち(人間)をカミ様は連環に戻そうとしてくれていると思う」という主人公の独白は、まさに本作のわたしと通底する、関係を重んじなければならない人間存在から断絶され「孤独」になっているという状況を如実に浮かび上がらせている。だが、「聖餐」と違うのは、わたしは上田と繋がることで「関係」を構築したのにも関わらず、それを「裁ちばさみ」で「ざっくり切ってしまいたくなる」点にある。わたしは以降この性格の言及を控え、「大人」と言い換えることで自分とは隔絶しようとし、ひたすら上田を悪しざまに罵倒することで誤魔化しているが、「子供の皮が剥ぎ取られ、邪悪な、もっとも嫌悪すべき「大人」が姿を覗かせていることにこの時のわたしは気付いていなかった。」「わたしは「大人」になりつつある。」(第二幕)と自覚的になる。わたしはそれを「大人」である上田のせいと考えて「逃げてしまいたくなった」が、「ドリンクバーにあるやつ、全部混ぜてきた」ことで子供を装い、作戦は一時的に成功する。けれども「長椅子の端に見慣れたバジルソールが少しついていて」、わたしは幻滅し、策謀は失敗する。わたしは自分自身に失望し、「滅多に疼かない奥歯が、今日限りは沈鬱だが確かな、鈍い痛みを伴って痛み出した。それくらいわたしは不機嫌だった」(第二幕)。開き直ったわたしはもはや関係を断絶する快感を認め、「ともかく「大人」の言葉を打ち込むたびに純粋で、無垢で、清らかに変貌していくわたしがそこにいた。速水御舟の『炎舞』の、焔へ飛び込む蝶のような破滅へ向かう夭折の儚さが散りばめられていた。すべてを終え、何もかもが崩壊する愉快に虚しい音を聴きながら、瑞々しく荒い息を吐いてわたしは天井を仰いだ」(第二幕)R大学時代を思い出して擁護に走って第二幕を締めくくる。





 時系列はここで大きく飛び、サイゼリヤでの破局当日から、そのことを私小説化するために文藝部の友人片山と議論する場面に移行する。「批判者」片山の存在が終幕の描写に繋がる点で重要な場面である。片山はわたしが小説内で不完全にわたしを批判し、挙句の果てに擁護に走る姿を看破して「自分は汚い人間です、酷い人間ですと言っておきながら随所に散りばめられた、他責的な出来事の記述。君がこんな人間になったのは環境のせいです、わたしは悪くありません、そう言っているようにみえるんだ。それに元カレさんとの対話にしても、、彼が君の恩人であることは間違いないんじゃないか?」(第三幕)と批判を投げかける。わたしは「御尤もな」意見に反論できず、「上田ともう一度対峙しなければならない」と考え、終幕執筆にとりかかる。




 終幕でついに破局が描かれる。わたしはエレベーターから高田馬場のロータリーに至るまで上田と歩きながら、第一幕冒頭に立ち戻り、人間と関係について再び考察する。「わたしが独りぼっちで友人をすぐ無くしてしまうのは、わたしが彼らを勝手に神格化し、崇め、そして幻滅し、叛逆したい欲に駆られ、彼らを見棄て、そしてわたしも見棄てられるからである。わたしは前章で彼との関係を「歪だ」と言った。それは彼に責任があるのではなくて、わたしが他者との関係を支配と隷属の構造でしか捉えられない、歪みきった人間であるからだ。」(終幕)とすべてを認めたわたしは、秦野教授と重なった上田の言葉に激昂し、彼の頬をひっぱたいて遁走する、「野垂れ死ねばいい」という言葉を遺して。「人間との関係を裁ち切る時の愉快さは何にもましての快楽だ。」と独白するわたしは、「これが大人なのだ、と思った」と締めくくるが、果たしてわたしは「大人」であるのだろうか?




 結論から言うけれども、というより殆ど自明ではあるだろうが、わたしとは他ならぬ僕である。ひっぱたいて「野垂れ死ね」なんて言ったことはないが、わたしの独白は、殆ど実際の僕が考えていることである。思えば19年の生涯で明確に友人を持ったことは皆無に等しかった。関係に疲れてはそれを裁ちばさみで切る19年だった。だからこそ、僕は自分が在籍するW大学でこれまでにない多くの友人に恵まれ、それは「疲労」を伴うものであったが、幸福な「疲労」であることには間違いなく、僕は僕自身の悪行を吐露して、自身の性格を矯正させる荒療治に乗り出したわけである。本作品では言及できなかったが、尊敬するW大学のS先輩の存在も、僕自身を見直すきっかけになった。そろそろ「大人」にならなければならない。僕自身がに従ってひたすら小説を上梓し、夢を叶えるためにも。本作は今まで描いてきた「理想」と、僕自身の「現実」との折り合いをつけるために書かれた、いわば自分のための小説である。だからこそ、時間を割いてここまで読んでくださったすべての人に感謝するとともに、真っ当な感性としなやかな知性を備えた人間になることを誓う。

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高田馬場のサイゼリヤ 桑野 @Kogito

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