終幕 子供の訣別
清算を済ませて(税込2308円)、わたしは泥酔する上田を揺さぶって起こした。彼は寝ぼけまなこを擦りながら、「俺のデカンタはどこにいった」と短く喚いた。わたしは、もう店が閉まる時間なんだと素早く説明した。彼は不機嫌に分厚い黒の靴で長椅子を蹴りつけながら、わたしのことを冴えない混沌とした瞳で睨みつけるのだった。わたしはうんざりしていて、一刻も早く高田馬場のサイゼリヤから退店したかったのでそんなことは構わずにひたすら、「行くよ」と促した。店員はわたしのことを不憫な彼女をみる、どこか蔑みをこめた目で遠巻きに眺めていた。彼らにとってわたしたちは邪魔でしかなく、かといって触れるのも面倒な雰囲気であるのを敏感に察知して何も声をかけようとしなかった。ナショナルジオグラフィックで幼き日に見た、老ライオンに群がるハイエナのようだと思った。けれど喰われるのは上田だけで良かった。わたしは彼を援けたいとはどうしても思えぬ雌ライオンで、同種族であるために義務的にハイエナを牽制しているに過ぎなかった。
「もう一人で帰っちゃうよ、ほーちゃん」
「なあ、俺を見棄てるのか、俺を!見棄てるのか!俺、俺を誰だと思っている、、誰だと思っている!!俺は、俺はお前の『先輩』だ!」
戯れに言った一人で帰るという言葉を彼は本気にして、殆ど叫ぶように抵抗した。終いにはぞっとするような猫撫で声でわたしに懇願するのだった。わたしは公衆からいかに醜悪に見られているのかが手に取るようにわかり、吐き気を催したが、ともかくこの場所から逃れなければならなかった。わたしは店員に頭を下げて水を持ってきて貰い、彼を介抱して肩を組み(身長差でほぼわたしが引き摺るようであったけれど)、店を後にした。出禁になるかもしれないと思ったが、もう二度と彼と訪れることはないだろうという願望じみた予感が、それを否定したのだった。
BIGBOX9階の証明は徐々に落とされ始め、車を模した子供用の座席や、広場の樹木のモニュメントが無機的にわたし達を囲繞して白々しさを演出した。わたしと彼しかその場には居なかった。
「一人で帰れますか?先輩」
わたしは彼の機嫌を損ねたくなく、「先輩」と呼び掛けて彼を宥めすかした。わたしは西武新宿線の人間であり、山手線経由で帰宅する彼とは高田馬場で別れればそれで良かった。
「いやだ、俺は帰らない!!帰らないよ!お前が付き添え、、付き添うんだ!お、俺を誰だと思ってる、、そこいらのとは違うんだ、俺は!お前の『先輩』だ!」
わたしは何も言わなかった。1、2、3と明滅するエレベーターの位置を黙って仰ぐように見た。酷く爽やかな感じがした。
「何か言えよ!俺は、寂しいんだよお!」
わたしは彼が身体を揺さぶって圧力がかけられるのに耐えきれず、暫く高田馬場を歩こう、先輩の気が済んだら、帰ろうと呟くように言った。彼は虚ろな目をして頷いた。悪臭を放つ巨大な犬を屠殺場へ担いでいるような沈鬱な気分でわたしはわけもわからず泣いてしまいたくなった。
エレベーターの鏡にうつるわたしの姿を、わたしはぼんやりと眺めた。わたしは彼と同じ虚ろな疲れ切った瞳をしていた。わたしは人間でなく、愚かしく無様な雌犬で、仲間と共に処刑される運命から決して逃れることは出来ないと判決を下されたような気がした。カーディガンはいつになくねっとりとした粘液のようにわたしに纏わりつき、わたしの疲労を象徴するように彼がのしかかっていた。
「なあY。俺のこと好きかい?俺、俺の合格を待ってくれるかい?でなきゃ、俺、死んじゃうよ。野垂れ死にしちゃうよお」
「わかってますよ、わたしは」
何をわかっているのだろうか、事実、わたし達はお互いに何もわかっていないまま、訣別の時を迎えようとしているのではないだろうか?そう思うと何も知らない彼が哀れで、また訣別もはっきり出来ないのではないかという迷信的な思いがこみ上げてきた。わたしは彼と高田馬場を歩くことにした。本当は、彼を無理やり山手線の改札に投げ捨てて帰ってしまう計画だったが、その労力を思うとやはり自発的に彼に帰って貰うことが一番だと思った。
人間というのは完璧ではあり得ない。どこかしら欠点を持って当たり前の存在。人間という種族がここまでの繁栄を築くことが出来たのも、個々の力が超然的であるのではなく、互いの欠点を補いあう精神が涵養されたからだとわたしは思っている。だから欠点を垣間見たところで「彼の本性はかくかくしかじかである」とか、そんなことを考えてはならない。わたしは理屈ではそう理解している。理解しているのに、親友の、恋人の、欠点の部分を見てしまうとひどく幻滅してしまうのだ。穢れた存在であるかのように思われるのだ。裏切られた、とわたしは解釈してしまうのだ。わたしの欠点、それは他者の失敗も、自分の失敗でさえも容認することが出来ぬ冷淡さである。わたしが独りぼっちで友人をすぐ無くしてしまうのは、わたしが彼らを勝手に神格化し、崇め、そして幻滅し、叛逆したい欲に駆られ、彼らを見棄て、そしてわたしも見棄てられるからである。わたしは前章で彼との関係を「歪だ」と言った。それは彼に責任があるのではなくて、わたしが他者との関係を支配と隷属の構造でしか捉えられない、歪みきった人間であるからだ。酒に溺れても良いじゃないか、普段の彼はそうでないとお前は知っているのに、どうして拒絶しようとするんだい?人間の関係は忍耐が時に必要だ。なぜそれをわかっていながら、お前は彼のために耐え忍んでやれない?彼はお前の欠点を、我慢してくれた場面だってあるはずだ。彼もまた、お前の大好きな大人なのかもしれないよ?
わたしは敗者の従順さでそれを認めた。星々がすべて堕ちたような絢爛と喧騒を誇る高田馬場を彼と不格好に肩を組んで歩くわたしはどんな顔をしていただろう。賑やかなのにまるでわたし達を見棄てるような冷酷な静けさ、ショッピングモールで迷子になった心細さが甦るようだった。わたしは声をあげて嗚咽したい気分だったが、わたしの短い半生の中で最も煌びやかで最も汚らしいこの街はそれを赦してはくれないだろう。
「な、なあY。あれを見ろよ」
彼は震えながらロータリーを指さした。わたし達は信号を隔てた対岸で休憩していた。様々な背格好の老若男女が横断歩道を行き来している。その奥で数多くのW大生が賑やかに屯して青春を謳歌している光景が憎たらしいほどに眼球に刻みこまれた。彼は言った。
「バカめ、お、俺のような天才を、、落としておいて、お前とか、あいつらみたいな馬鹿ばかり合格させやがって。W大学は、もうお終いだな、終いだ!ブランドは穢れた、、目指す価値もない、、下劣な大学」
わたしは急激に瞳が冴えたような瑞々しい感じが身体じゅうに沸き上がるのを感じた。わたしの身体は、わたしの身体ではなかった。徐に彼を突き放すと、よろめいた彼の頬をまるで弾丸が放たれたような鮮やかに荘重な音を立ててひっぱたいた。彼は驚いて目を丸くし、頬を手でなんども撫でさすった。
「バカにするな!何も成し遂げてないやつが調子に乗るな!あなたのような人は、さっさと野垂死ねばいい!」
わたしはすべて吐き出してしまったあと、そのすべてに後悔して後ずさった。彼は寂しそうな目してわたしを茫然と眺めた。何も言わなかった。喧騒は一層の激しさを増し、大学生たちの愉快な声が高田馬場の高架橋にこだましていた。けたたましい警笛を鳴らしながら西武線の普通電車が入線し、自転車に乗ったスーツ姿の男がベルを鳴らしながら通り過ぎる。高架橋の壁面に無邪気に描かれた鉄腕アトムの絵に重く暗い影がさしていた。信号が青になった。わたしは崩れ落ちて呆けたようにこちらを見つめる彼を見棄てて、高田馬場駅に駆け出した。誰もがわたし達の訣別を無視していた。それこそが、なんでもない日常風景なのだとわたしを肯定してくれるように感じた。わたしの足はますます軽くなり、もはや飛翔しているような気さえした。
改札に定期券を通し、ふと彼の方を振り返った。彼はもうそこには居なかった。わたしは急に駆け出したために息をぜいぜい弾ませながら、彼の居た場所を恍惚とした表情で眺めた。そこがわたしの巣立ちの場所だった。人間との関係を裁ち切る時の愉快さは何にもましての快楽だ。わたしは身体の瑞々しさを取り戻し、瞳は愛らしく、のぞく八重歯は白く怜悧で、低身長さえ神からの賜物、天使の象徴に思われた。わたしは迫りくる、津波のように巨大で、不気味に黒く、鈍い光を放つ混濁の影に飲み込まれながら、これが大人なのだ、と思った。
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