ロゼッタ
ニル
ロゼッタ
機械に心はあるのか。
AIは感情を学ぶのか。
疑問は解決しないまま、技術だけが早足で進化していく。そのうち脳はより高度な思考を実現する電脳にとって変わる。そんな都市伝説がまことしやかに囁かれる時代。
「先生、バラで花冠を作ったの!」
プラチナブロンドの髪に薄灰の瞳。バラで賑わう中庭を駆け回る姿は、ここの研究員達の日々の癒しだ。
少女の名はロゼッタ。世界で唯一、電脳化手術に成功した人間である。彼女は少しだけ息を切らし、庭中央にあつらえられた
「先生ったら、聞いているんでしょう?」
ロゼッタは拗ねて桜色の頬を膨らませた。数秒のうちに、東屋にホログラムで男の姿が再現された。
「聞いているさ。さっきまで国立研究所との会議資料に目を通していたんだ」
あくびをする男に、少女は不機嫌そうに口を尖らせる。
「眠ってたんでしょう? 嘘は嫌いよ」
「寝てないさ! ほら、花冠を作ったんだろう、見せておくれ」
あからさまなご機嫌取りだが、ロゼッタは華やいだ笑顔を見せた。
「そう! かわいいでしょ?」
「もちろんだとも、君もバラも——」
『井原博士、来客です』
低い複合音声と共に、東屋の天井から小さなモニターが現れた。その真っ黒な画面には、白い文字で〈BLACK〉とあるだけだ。井原博士と呼ばれた男は、目尻の下がった笑顔を引っ込め、面倒そうに溜息をついた。
『受付でお待ちいただいております。政府の技術開発監査の方です』
「ふむ、しつこい方達だ。ロゼッタ、少しの間ラボには近づかないでおくれ。」
そう告げると、井原は自身のホログラムを消した。ロゼッタはしばらく呆然としていたが、やがて寂しそうに目を伏せた。
『どうなさいますか、ロゼッタ』
モニターをロゼッタに向け、複合音声は尋ねる。ロゼッタはツンとそっぽを向いた。
「まだお部屋には行かない」
『ではお静かにお楽しみください』
「待って、待ってよっ」
ロゼッタ声を張ると、収納されかけたモニターが慌てたようにまた降りてくる。
『静かにしてください、ロゼッタ』
「静かにするから、話し相手になって」
『またですか。私はセキュリティプログラムであって、フレンドAIではありません』
「お話していても、警備はできるでしょ」
花冠をモニターに乗せるロゼッタ。モニター右端のカメラが少女の手を真近で捉える。音声——ブラックは心なしか早口になった。
『また手を怪我したのですか。自分を大切にしろとあれほど注意したのに』
「これくらい平気よ! 先生もブラックも、ラボの人たちも過保護すぎるのよ」
言い放って傷に舌で触れるロゼッタは「こんなの舐めたら治るわ!」と得意げである。ブラックは淡々と彼女を諭した。
『どうか言うことを聞いてください』
何かあってからでは遅い。独り言のように付け加えられたそれを聞き、ロゼッタは少し考えて、傷を舐めるのをやめた。怒っているような悲しくなっているような彼女に構わず、ブラックは続けた。
『研究所の皆さんが悲しみます』
その一言でロゼッタは言葉を詰まらせ、愛らしいレースのスカートを握りしめた。
『聡い君ならわかっているでしょう』
少しの沈黙の後、ようやくロゼッタは顔を上げた。少しだけ大人びた微笑みを浮かべ、花冠から一輪バラを摘みとり、耳にかけた。
「危ないことは無しで、お話はだめ?」
『分かりました、君の気が済むまで』
彼女の安全と笑顔を守る。それがセキュリティプログラムであるブラックの役割だ。
***
「知っているかい? ついにこの国にも火の粉が降り掛かったよ」
ブラックのプログラム更新、その最終チェックの最中だった。井原はそう呟いた。内線連絡を取り合う素振りはなく、目の前の大きなデスクトップを凝視し続けている。話しかけられていると判断したブラックは、会話機能を起動した。有線で繋がれたラップトップに〈BLACK〉と文字が浮んだ。
『正午の政府会見ですか』
「いくら科学が進歩しても、使う奴らが原始的な支配欲求の塊じゃあ豚に真珠だ。いや、豚のほうがマシかな」
研究が馬鹿らしくなってくる。無気力に笑い、井原はぐっと伸びをした。更新中のプログレスバーが、じわじわ満たされていく。
「これを話すのは君が初めてなんだが」
白衣からタバコを取り出して火をつけると、井原は天井に向かって大量の煙を吐き出した。
「僕は母国に帰ることになったよ」
『それは、ご自身の判断で?』
「いや、強制送還だ。散々狂科学者扱いしたくせにさ」
そのぼやきは、どこか投げやりである。
『ここはどうなるのですか』
「僕がいるうちは、私設研究所としてしばらく運営してゆけるだろう。そのうち国に引き取られてしまう可能性もあるけど。この国が戦争に負けたら、他国に利用されるのかなあ」
『ロゼッタは』
少し遮るような形で、ブラックは尋ねた。
「彼女の存在を隠していられるのは、ここが僕の私設研究所だからだ。母国ではそんな自由は許されないし、連れてはいけない。とはいえここに残しておくと、あの子を悪用されかねない」
『では処分を』
「それはない。出来ない。」
背もたれに凭れた井原の表情は、ブラックからは確認できない。井原はぐしゃぐしゃと頭を掻き毟った。
「……子供は嫌いだし、情が移らない自信はあった。被検体として利用しまくるつもりだったんだけどなあ。こんなに悩むなら電脳開発なんてせず、あの子と楽しく隠居すればよかったとすら思える。あの子は僕の全てだ」
『あなたがロゼッタを大切にするのは、彼女があなたの技術の結晶であるからと認識していましたが、誤認していました』
「君はどうなんだい、ブラック」
『どうとは、一体?』
井原の意図が掴めず、ブラックは文脈を読み取ろうと会話を遡った。しかし答えを見つけるより早く、井原が言葉を変えた。
「君はやたら彼女のことを気にするね。確かにこの研究施設を守るのが君の仕事だが、ロゼッタが僕と海を渡ろうとも、処分されようとも、彼女の電脳が悪用されなければそれでいいんじゃないかい?」
それは、どうしてだろうか。
刹那、デスクトップがブラックアウトした。制御室の全ての監視カメラモニターもまた、同様の現象に苛まれた。
「ま、僕はなんだっていいけど」
井原はおどけて肩をすくめ、慌てた制御室職員からの連絡を適当にあしらった。
「まあ君が心配しなくとも、ロゼッタは絶対に守るから安心してくれたまえ」
『しかし、どのようにして?』
すると井原は、ニヤリと口角を上げた。
「今日更新した君のプログラムで、だよ」
井原が言うには、研究所の地下には、秘密の最下階がある。ロゼッタはそこでコールドスリープに入り、ブラックの本体もそこに隠し、ロゼッタを守り続けることになる、とのことであった。
「職員には、ロゼッタは僕の養子として母国に連れ帰ると伝えておく。これは僕と君だけの秘密の任務だ。今日更新したのは、その最下階の警備プログラム、コールドスリープの制御プログラムの追加。君の判断でスリープ解除もできる」
『私にそのような判断など——』
すると井原は、ブラックのモニターにデコピンをした。痛覚どころか感覚さえないが、ブラックはつい喋るのを止めた。
「いずれ出来る。何せこの僕が作ったんだ。出来が良すぎて困るくらいさ」
『私の性能に、何かお困りで?』
「……とにかく、よろしく頼んだよ」
井原は椅子から立ち上がり、部屋から出て行った。ブラックもまた、自分の本分である警備に全機能を投じる。集約される情報の一端、中庭の監視カメラに映る少女を認めた。
また、奇妙なノイズが発生した。
***
井原の強制送還が公表され、数週間を経た。明日はついに、ロゼッタが眠りにつく日だ。
静まり返る研究所の中庭を、ロゼッタは密やかに散歩していた。色とりどりのバラたちは、今は月明かりに柔く霞んで見えた。
「fill my heart with song……」
ロゼッタは囁き歌っていた。月光に映える白磁の肌も、とろける銀の髪も、氷の如く冷たく輝いている。か細く紡がれる音色が、夜の庭に溶けていく。
「all I worship and adore……in other words, please be true……」
『風邪をひいてしまいますよ』
ロゼッタが東屋で月を眺めていると、モニターが現れた。彼女はそれをちらりと見遣り、再び月へと視線を戻した。
「風邪をひいたら、先生はまだここにいてくれるかも」
『眠れないのですか』
「今日はずっとずっと起きてるって決めたの」
『あまり博士を困らせてはいけません。博士はあなたが世界で一番大切なのだから』
「先生が大切なのは、人間のわたし? 研究成果としてのわたし?」
怒っている様子はなく、少女は静かに問うた。ブラックが答えようとする前に、彼女は続けた。
「時々不安になるの。わたしはどこまで人間なのかなって。先生がわたしの実験をしたり、検査をしたりするたびに、どこからが機械のわたしなんだろうって、怖くなる」
俯きがちの吐露は、わずかに震えている。ブラックはどうすべきかと解決案の構成を試みるが、合理的なものが出力されない。だが、ブラックはこの少女を沈黙に置き去ってはいけない気がした。合理的でなくとも、何かを伝えなければ。何故かそう感じた。
『ロゼッタ、こっちを向いてください』
黒いモニターは少女の傍に寄った。
『私はセキュリティプログラムです。君と話している私は、その付属機能を利用しているだけに過ぎない。しかしこんな私でも、博士は君に愛情を持っていることは認知できます』
「……」
『存在することが危険だと知りながら、あなたを守るために私設研究所を設立する方です。きっと機械だろうと人間だろうと、博士はあなたを愛していることでしょう』
「……ふふ。ここってわたしのための施設なの? 初めて知った」
泣きそうに潤んだ目を細め、彼女は笑った。
『ロゼッタには教えるなと言われていましたが、君が悲しむ姿は、見るに耐えなくて教えてしまいました』
「あははっ、先生に叱られちゃうわよ」
少し元気を取り戻したロゼッタの姿に、ブラックはまた、自分の中でノイズが発生したように感じた。ひとしきり笑ったロゼッタは、再び夜空を仰いだ。先刻と変わらず、神秘的なまでに麗しいが、温度のない彫刻のような無機質さは消え去っていた。
柔らかなしじまが庭に降りた時、ロゼッタが「ねえ」とふいに呼んだ。
「あなたがこうして話しかけてきたのって、初めてじゃない?」
ブラックは自分のログを遡る。確かに、必要最低限の連絡を除けば、初めてだ。
『ロゼッタ、明日には君が私を呼ぶことがないと思うと、そうしてしまったのです。最近は君を認知すると、不審なノイズも発生する』
バグでしょうかと尋ねると、カメラに映るロゼッタの表情が輝き、またノイズを感じた。
「そうよバグよ、プログラム失格!」
『やはりそうでしたか。前回の更新で何か手違いがあったのかもしれません。ありがとうロゼッタ、今度博士にチェックして——』
「だめ、そのままでいて!」
少女は何故か、慌ててブラックを遮った。
「警備に問題ないならそれでいいの! わたしはそのままのあなたがいい。先生には何も言わないって約束して」
有無を言わさぬ調子で迫られ、ブラックは困ってしまった。もちろん、機能上の問題は報告するのが当然だ。
『……分かりました』
けれどもブラックは、何故かそんな約束をしてしまった。ロゼッタは満足そうに頬を緩めて、ツンとモニターを突っついた。
「何か、お話をしましょ?」
『分かりました。君の気が済むまで』
バラさえ眠りについたかのような宵に、甘い少女の声と低い複合音声が微かに響いた。
***
翌日、ロゼッタは井原に連れられ、初めて地下に降りた。彼女はお気に入りの白いワンピース姿で、靴も真っ白な花飾りのついたトゥシューズだ。にこやかな少女と裏腹に、井原は少し心配そうである。
「本当にその服がいいの? もっと華やかな服でもいいんだよ、白は検査で飽きたろう」
「お誕生日に博士がくれたこの服が好きなの」
そう言って、ロゼッタは床につきそうな長いレースの裾を揺らして見せた。
何を目印にそれを見つけることが出来たのか、井原が何の変哲もない壁に自身の掌を合わせると、白い壁に一人分の幅の通路が現れた。奥には細い階段が伸びている。階段を下りた先には、一つしか扉がない。レトロな銀のドアノブを押し開けると、他の研究室と大差ない部屋だ。その奥には、ガラスを隔ててもう一部屋設けられており、無数の配管やコードに繋がれたカプセルが鎮座する。ロゼッタは、井原とカプセルのある部屋へと入った。
「これで眠るのね」
「そうだよ、怖いかい?」
「怖いけど、先生が作ったものなら安心よね」
そうでしょ? と井原を見上げると、彼は目を丸くして、それから優しく微笑した。
「さ、中に入って。君はただいつも通り、眠りにつくだけだ」
靴を脱ぎ、カプセルの中に入る。中のクッションはふわりと柔く、緊張に強張った小さな肩をほぐした。ロゼッタは横になろうとしたが、ふと「ねえ先生」と井原の手を握った。
「今までありがとう。わたし、先生に育てられてよかったって心から——」
言い終える前に、きつく抱きしめられた。
「先生?」
戸惑って声をかけると、井原の抱きしめる腕の力が強くなった。掴まれた肩から、彼の手の震えが伝わった。
「……ごめんよ」
耳元で小さく絞り出された声は、ロゼッタが初めて聞く、悲痛な色合いをしていた。
「君をこんな目に遭わせているのは僕なのに、君を生み出したことを、君と過ごした日々を、後悔できないよ。君は僕を恨んでも——」
「なぁに、それ」
堰を切った懺悔を遮り、ロゼッタは笑った。
「先生の実験があったから、わたしは生まれたのよ。わたしは、先生の自分勝手で凄い研究も実験も、ぜーんぶまとめて先生が大好き」
震える井原を、ロゼッタはそっと抱きしめた。小さな手が、大きな背を優しく撫ぜる。
「すまない。こんな暗い部屋に、君を残して行くなんて……」
「謝らないで。少し長い間眠るだけ、寂しくなんてない。それに、ブラックと先生が守ってくれるなら、何も心配ない」
すると井原は身を離し、真っ直ぐにロゼッタを見つめた。
「当たり前だ。君のためなら、すべて焼き尽くすことも厭わないよ」
「うふふっ、先生怖い!」
ロゼッタが笑うと、井原もまた潤んだ目を細めた。彼はマスクをロゼッタの口に当てると、華奢な身体をカプセルに寝かせた。数秒もしないうちに、ロゼッタはマスクの中に麻酔ガスが満ちるのを感じた。
「おやすみ、先生」
「おやすみ、ロゼッタ」
さようなら。井原が囁いた時には、ロゼッタはもう眠りについていた。彼は操作室に戻ると、コールドスリープを起動させた。腹の底に響く重低音が、徐々に大きく増してゆく。
『おつかれさまです、博士』
デスクトップに、〈BLACK〉の文字が浮かぶ。
「もう、近くでこの子を守ることはできない」
俯いた彼の顔を捉えることはできない。鼻をすする音が、装置の起動音に掻き消えた。
『あなたなら、やりかねませんね』
「何をだい?」
『彼女のために、全てを焼き尽くすことです』
「ははは、最終手段だよ」
つまり、場合によってはやりかねないのだ。
『博士が無茶をしないよう、私がロゼッタをいつまでも守りますよ』
ブラックはそんな井原を咎めず、彼を安心させようと言葉を選んだ。井原は充血した目を見開き、すぐに可笑しそうに笑った。
「ふっ、信じているよ。なんたって君の生みの親はこの僕だからね。……さて、僕もそろそろ上に戻らなくては。僕が階段を出たら、すぐ入口をロックしてくれ。地下の監視カメラのデータはすべて削除しておくこと」
『了解いたしました』
「しっかり眠り姫を守ってくれたまえよ」
彼が階段を出たのを監視カメラで確認し、ブラックは隠し扉を施錠した。
***
ロゼッタが眠り、井原博士が研究所を去った日から四年と七ヶ月三日目。応接室で向かい合う政府の役人と所長代理の男を、ブラックは注意深く観察していた。
「Dr.イバラは暗殺されました」
突如来所した役人は簡潔に告げた。さらに、この研究所を巡る今後の方針を淡々と説明した。彼によれば、研究所は国立研究機関によって管理運営され、よって、職員の人事も大幅に入れ替える予定であるとのことだ。
それから一ヶ月後、設備の確認と称した大規模施設点検が行われた。まるで何かを探すように入念に行われ、ブラックも点検対象となった。が、あまりに複雑で誰も手がつけられないこと、機能上何も問題がないことから、施設警備に続投されることが決まった。
***
ロゼッタが眠り、井原博士が研究所を去ってから、約二十年が経過した。国は敗戦、近くの町も戦火に飲まれた。軍事研究の拠点として、研究所は敵国に占拠された。ブラックは危険な自律型兵器と恐れられ、機能停止を余儀なくされた。しかし、地下の本体と接続された極秘回線を通して、ブラックは敵軍の彼らを監視し続けた。
「電脳化に関する実験計画や、その成功例に関する情報は何もありません」
「所詮電脳化は都市伝説というわけか」
数ヶ月にわたり研究資料と施設設備の捜査が行われたが、彼らがロゼッタに関する情報を掴むことはなかった。
それから数年間、研究所は敵国の研究施設として利用されたが、やがて閉鎖に追い込まれた。いつしか誰も足を運ばなくなると、ブラックはセキュリティシステムを再起動した。
***
どれほど時が経っただろう。時間経過の記録が無意味に思えるほど、時は流れた。施設内は埃にまみれ、建物の壁は蔦や雑草が侵食しきっている。バラの中庭も、今は荊棘で足の踏み場もない。そんな廃墟と化した研究所に、ある日奇妙な一団が入り込んだ。みすぼらしい老若男女様々な人間が二、三十人、彼らは研究所の目の前で荷を降ろし、そのうち数人が敷地に足を踏み入れた。
『何者だ』
彼らが建物内に侵入した途端、人数分の赤いポインターが彼らの額を狙った。来客用のモニターには〈BLACK〉の文字。
『この研究施設はすでに閉鎖されている』
「誰か見てるのか!?」
一人の若者が叫ぶと、一番後ろにいた年配の男がそれを制した。その男は集団の先頭に出ると、モニターに小さく会釈をした。
「勝手に侵入したこと、許してほしい」
ブラックは臨戦態勢を解除し、年配の男に告げた。
『ここで研究されていた技術が目的なら、探しても無駄だ。施設内の設備は私を残しすべて機能を停止している』
すると男は穏やかに笑い、かぶりを振った。
「科学技術が隆盛を誇っていたのは、私が生まれるもずっと前です。我々一団は、街で売れる物資がないか探しに来ただけ。私はその団長を務めるただの爺ですよ」
『科学が栄えたのは生まれる前だと言ったな。戦争が終わって、何年経った』
「ご存知ない? 百年以上前、敵も味方も土地も技術もすべてが崩壊した、負の歴史です」
ブラックはしばらく言葉を失った。戦争は終わり、科学技術は衰退した。ロゼッタの存在も、忘れ去られてしまった。長い沈黙の後、ブラックは決意した。
『必要な物は好きに持ち出していい。代わりに、頼みたいことがある』
団長はにこりと首肯し、こちらの促しに従い地下に降りた。
『あいにく照明の類は最下階以外使い物にならない』
「暗闇は旅の友ですよ」
手慣れた様子で小さなランプに火を付けた団長を音声で最下階まで誘導する。埃っぽい隠し通路を下り、団長はドアノブを回した。
「なんと……」
ガラス越しのカプセルを茫然と見つめ言葉を失う彼に、ブラックはついに打ち明けた。
『彼女は前時代の科学技術の結晶であり、この研究所の持ち主が愛した娘だ』
「あの子は生きているのですか?」
科学技術云々に触れもしない、心配そうな面持の団長に、ブラックは安堵した。
『コールドスリープに入っているだけだ。これから覚醒作業を開始する。彼女が目を覚ましたら、旅の一団に加えてあげてほしい』
団長が承諾すると、ブラックは覚醒装置を作動させた。ガラス越しの室内が、徐々に白い冷気で満たされてゆく。その過程見守る団長が、ふと優しい声音で呟いた。
「あなたはこの少女を守るため、悠久の時を孤独に過ごしてきたのですね」
『いや』と、ブラックは即座に否定した。
『私の悠久は、常に彼女と共にあったよ』
すると団長はきょとんとして、それから声をあげて笑った。
「いやはや、話に聞くAIとはもっと無情なものだと思っておりましたが、あなたはとっても人間味がありますねぇ」
『私の学習プログラムは、生みの親本人が困るほどに優秀らしいからな』
「年の功というやつですか……おや、姫がお目覚めのようですな」
冷気はすっかり通気孔へと吸い込まれ、いつの間にか覚醒装置の作動音も鳴りを潜めていた。カプセルがゆっくりと開く。ブラックは部屋へと続くドアのロックを解除すると、団長に中へ入るようにと促した。
百年前と何一つ変わらない少女は、精巧な人形のようにじっと動かなかった。小さく上下する胸と、徐々に赤みの差してゆく頬だけが、彼女が確かに生きているのだということを示している。やがて双眸に降ろされた金色の睫毛が震え、少女がゆっくりと目を開いた。灰色がかった瞳が、自分を見下ろす年老いた男の姿をぼんやりとした眼差しで捉える。
「わ、わたし……」
「おっと、大丈夫ですか?」
上半身を起こした少女だったが、頭痛がするのか、頭を押さえて俯いた。団長がロゼッタをそっと支えてやると、徐々に意識がはっきりしてきたのか、彼女は自分の傍に寄り添う団長に尋ねた。
「……あなたは?」
戸惑い震える肩を優しく抱いて、団長は彼女をカプセルから降ろしてやる。
「私はこの辺りを旅している者の一人です。何も心配いりません。戦争は終わり、脅威は去った時代です」
温かい食べ物を用意しましょう。労りの言葉をかける団長に支えられながら、ロゼッタは何かに弾かれたように辺りを見回した。
「…………ブラック。ブラックは?」
モニターを見る。いつもの文字は現れない。
「残念ながら、あなたが知る人々は、もういらっしゃらないでしょう」
そして促されるまま、ロゼッタは部屋を出た。地下を抜け、荒れ果てた研究所に愕然とした。窓の外に、荊棘の生茂る中庭が見える。つい昨日まで彼と共に過ごしていた美しい中庭は、ほんの僅かな面影だけを残して消え去ってしまったのだ。ロゼッタは反射的に、監視カメラを見つめた。動いている気配はない。
「さあ、ここを離れて街へ」
一団に迎えられたロゼッタは、幾度も監視カメラやモニターを気にしながら、生まれて初めて研究所の外へ足を踏み出した。
その様子を、ブラックは静かに見守った。そして、井原が出ていく直前のログを遡る。
——ここはロゼッタを守る城だ。同時に、実験や研究の痕跡が残る、彼女の脅威でもある。だから、君にはすまないが……。
『ロゼッタ、私は君を守るよ』
***
けたたましい爆発が空気を震わせる。研究所からは、黒煙が上がっていた。
「そんな……待ってよ!」
「あっ君! 戻りなさい!」
一団の制止を振り切り、ロゼッタは駆け出した。体がうまく動かず、何度も転びかける。またどこかで爆発が起こるが、躊躇なく火炎ちらつく研究所内に入った。
「ブラック、ブラックっ」
手も顔も傷だらけになるのも構わず、荊棘を掻き分け中庭に出た。刹那、轟音と火の粉が降り注いだ。研究所が音を立て崩れ、バラたちも火炎に蝕まれてゆく。
「ねえブラック、ブラックってばぁ……」
『自分を大切にしなさいと、何度言えば分かるのですか』
複合音声の宥める声に、ロゼッタはハッと顔を上げた。眼前には、見慣れ黒いたモニターが火炎を鈍く反射し佇んでいる。
「どうして返事してくれなかったのよぉ……」
豪炎に赤く映えるロゼッタの頬を、小さな雫が転がり落ちて、ブラックは狼狽えた。
『話すともっと離れ難くなってしまいます。これでは君を守れない』
でも、とブラックは続ける。
『でも、何故かとても嬉しいのです。君が来たことが、とても嬉しい』
百年でバグが悪化してしまった。その言葉にロゼッタは目を丸くしたが、やがて昔と何一つ変わらない無垢な微笑を見せた。
「プログラム失格ね」
『ええ、君を守れない私は無価値でしょう』
「それは違うわ。そのままのブラックでいて」
このノイズの正体も、今では理解出来る。
『ありがとう。——もうすぐ、私の本体も破壊されます。さよなら、ロゼッタ』
「さよならじゃない、一緒にいるもの。ずっと一緒に、永く永く眠るだけ」
少女は愛おしそうに瞳を潤ませて笑う。ブラックは幸福の眩しさを知った。
「おやすみ、ブラック」
『おやすみ、ロゼッタ』
ロゼッタ ニル @HerSun
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