博士の異常な実験~または私が如何にサメを愛するようになったか~
秋犬
さよならのデイジー・ベル
国際海洋科学研究所のエレベーターは海中深く、人間を踏み込ませない世界へとハルを連れていく。栗色の無造作なおさげに飾り気のないハルはよく「女を捨てている」とからかわれていた。それに研究にしか興味のない彼女を不気味に思う人も多く、友達と呼べるような人もいなかった。
「スタンリー博士、今回の研究はそんなにすごいんですか」
「ああ、人類の知能というものに対する挑戦だからな」
スタンリー博士はハルに「極秘の研究の助手にしたい」と話を持ちかけ、この研究所の奥に連れてきていた。
「人類の知能?」
「そうだ。何故人類には特異な知能があって、他の生物にはないのか?」
「ないわけではないと思います。それを人類が理解し得ないだけで」
スタンリー博士は指をパチンと鳴らした。
「その通りだハル君。彼らにも知能と呼ばれるものがあり、彼らの社会や文化を築いている。そこで、我々は様々な生き物に『言葉』を教えることにしたのだ」
ハルの乗ったエレベーターが目的地へ着いた。海洋研究所は海中に存在し、大小いくつかあるエレベーターのみが出入口になっていた。窓の外を回遊魚が悠々と泳いでいく。
「さあ、ここが君の研究室だ」
スタンリー博士が示した扉の先の光景に、ハルは目を疑った。
「様々な遺伝子操作を試み、我々は人類の友達を作ろうとした。かつていがみ合っていた者たちとも是非交流したいと……本当に様々な種の生き物で実験を繰り返した」
ハルの目の前に、若いサメの水槽があった。そして水槽にはマイクが取り付けてあった。
「スティーブ、ご挨拶は?」
スタンリー博士がマイクに向かって話しかけると、サメの水槽にとりつけてあるスピーカーからたどたどしい合成音声が流れてきた。
「こんにちは、はかせ」
目を丸くするハルにスタンリー博士は満足する。
「いいかい、このサメには改良を重ねて超音波でコミュニケーションが取れるエコロケーションを搭載した。それから彼らのエコロケーションを翻訳する機械を組み合わせて、この特殊なサメに言葉を教え続けた。その結果が彼、スティーブだ」
スティーブは水槽の向こうから、ハルを見つめているようだった。
「スティーブ、こちらはハルだ。今日から仲良くしてくれ」
するとスティーブはすぐに返事をした。
「はる、よろしくね」
ハルは一連の研究に驚きが隠せなかった。
「しかし、最初からエコロケーションを会得しているクジラやイルカにすれば改良の手間はなかったのでは?」
「そんな、クジラを実験に使うなど可哀想だろう?」
スタンリー博士は当然のごとく言ってのける。
「それで、私は何をすればよいのですか?」
「いい質問だハル君。君は彼に様々なことを教えてやってくれ」
「博士が教えればいいのではないですか?」
「私はこういうのが苦手なんだ。女の君にだからこそ、頼みたいんだ」
そう言うとスタンリー博士は「それじゃあ、任せたよ」とガハハと笑った。ハルは再度水槽の中のスティーブを見つめる。スティーブの体長は1mにも満たなかったが、見た目は恐ろしいサメにしか見えなかった。
「任せたって、一体何をすればいいのよ……」
ハルは水槽の前で頭を抱えた。スティーブは水槽の中をぐるぐると泳ぎ回っていた。
***
それからハルは根気強くサメに言葉を教え続けた。
「ハル、今日もきれい」
「あら、サメのくせにお世辞なんか言うの?」
「昨日ハルが見せてくれた映画で言ってた」
ハルは漠然と「サメに言葉を教える」と言ってもよくわからなかったので、思いつく映画の音声を片っ端からマイクに繋いで、スティーブに聞かせ続けた。
「全く、サメのくせにおませなんだから」
「おませって何?」
「えーとね……」
映画の音声を聞かせて、それから会話をして、わからない言葉はハルが教える。そうしてスティーブとハルは年月を重ねていった。
***
それから数年の月日が経った。
「ハル! もう水槽が狭いよ、ひとつ大きいのに変えてくれ」
「まあスティーブったら、あなた本当にすぐ大きくなるのね」
当初ハルでも抱けそうな大きさだったスティーブは今は体長3mの巨大なサメへと成長していた。研究所の水槽では間に合わず、ハルはスティーブを外の広い水槽へ移せないかとスタンリー博士に相談することにした。
「その必要はない、水槽に入らないほど大きくなったら次のサメと交換する予定だ」
「何故そんな惨いことをするのですか!?」
「だからサメにしたんだ、クジラやイルカじゃ可哀想だろう?」
スタンリー博士はけろりと言ってのけた。
「近々研究第2号のサメを用意する予定だ。スティーブは解剖して丁寧に調べることにしよう」
ハルはスティーブに何と言っていいのかわからず、唇を噛んだ。
「ははは、君でも研究物に情けをかけるのだな。優秀なロボットみたいな奴だと思っていたのに」
スタンリー博士の心ない言葉にハルは俯き、スティーブの元へと戻った。
「ハル、どうした? 元気ないね?」
「スティーブ、あなたは、自分のことをどう思っているの?」
しばらく間があって、答えがあった。
「僕は自分のことはよくわからない。でも、ハルが好きなのは間違いないことだ」
ハルは水槽に頬を押し当てた。そこへスティーブがやってきて、鼻面を押しつける。
「人間はこうやって親愛の情を示すんだよね。僕はハルのためになら何でもするよ」
「スティーブ! ああ、スティーブ!」
ハルは今にも心が引き裂かれそうだった。このままではスティーブは殺されてしまう。ハルはここまで心を通わせ合った存在と離れがたかった。
「……決めたわ、スティーブ。あなたを海に逃がす」
「海にだって? どうして、いきなり?」
「あなた、このままでは殺されてしまうの」
「そんな、どうしてだい?」
ハルはスティーブに事情を説明するか躊躇した。その時、研究室のドアが開いた。
「そこまでだ、見損なったよハル君」
「スタンリー博士……」
「様子がおかしいと思ってスティーブのマイクを私の部屋にも聞こえるようにしておいたのだ」
博士は他に何人も研究員を連れていた。
「君には休暇が必要なようだな、すこしのんびりしてきたほうがいい」
研究員たちはハルの両腕を拘束する。
「いや、何をするの!?」
「言っただろう、これは君のためを思ったことなんだ」
スタンリー博士と研究員はハルを水槽から引き剥がそうとした。
「やめろ、ハルに触るんじゃない!」
水槽のスピーカーから大きな声が響いた。スティーブの怒りが水槽越しに伝わってくる。
「耳障りなスピーカーは落としておけ」
研究員たちはスピーカーの電源を切った。すると怒りに我を忘れたスティーブが水槽を揺らした。
「所詮サメだ、そこからは出られまい」
スタンリー博士が嘲笑う。その隙に研究員の拘束から逃れたハルはスティーブの水槽を消化器で殴り、ヒビを入れた。
「な、何をするんだ!?」
慌てる博士たちの前でヒビを目掛けて、スティーブは何度も水槽に体当たりをする。そしてついにスティーブが水槽の外に逃れ出てきた。
「に、逃げろ!」
真っ先にスタンリー博士がスティーブに噛みつかれた。鋭い悲鳴が研究所内にこだまする。
「この人食いサメが!!」
研究員たちはスタンリー博士からスティーブを引き剥がそうとした。しかしがっちりと噛みついたスティーブの歯はスタンリー博士を抉るだけだった。
『殺すくらいなら、何故言葉を教えた!?』
スティーブの声が聞こえ、研究員たちは驚いた。
『何故教えた!? 絶望させるためか!? 一体僕は何だったんだ!?』
スティーブは空気中でもエコロケーションを用いることができ、鼓膜を震わせて研究員たちの耳に言葉を届けていた。
『どうせ僕はサメだ! 人間が憎くてたまらない、血が欲しくてたまらないんだ!』
初めて本格的に血の匂いを嗅いだスティーブは暴れ回った。体長3mのサメが暴れ回った結果、研究所はめちゃくちゃになった。
『血だ! 血が欲しい! 僕は、僕は、僕はあああああ!!!』
体当たりで動けなくなった研究員にスティーブは噛みついた。研究員も応戦し、スティーブの身体を様々なもので殴りつけた。
「しかし所詮サメ! 水がなければ動けまい!」
それでもスティーブは研究員たちを襲い続ける。一連の地獄絵図を部屋の隅で眺めてたハルは、咄嗟にここがどこかを思い出した。
「そうよ!」
ハルは消化器で壁を壊し始めた。水圧に耐えられるよう頑丈に出来ていたが、内側から何度も衝撃を与えられたことで壁に穴が開き、そこから海水が入ってくる。
「スティーブ! 私の声を聞いて、スティーブ!」
ハルは研究所の中央で暴れ回るスティーブへ声を掛けた。既にスタンリー博士は事切れ、他の研究員たちも深手を負っていた。
『ハル!?』
スティーブは空気中を漂ってきた振動からハルの声を検知し、一瞬我に戻った。
「今だ!!」
スティーブと勇敢に戦っていた研究員が、研究所の隅にあった銛でスティーブを貫いた!
『があああ!』
スティーブの悲鳴が鼓膜に直接届く。
「やめて、これ以上、みんな、やめて!!」
ハルはスティーブの鼻先にしがみついた。
『ハル、僕は怖い! 皆を傷つける! 自分が怖い! 僕はハルまで傷つけてしまう! ハル、僕は一体なんのために生まれたんだ!? 教えてくれよ、ハル!!』
スティーブは剥き出しになった自身の本能に怯えていた。
「ねえ、スティーブ、海に帰ろう、ね?」
血まみれのスティーブを落ち着かせようと、ハルはその固い皮膚にそっと口づけをする。海水は少しずつ研究所を満たし、その穴は水圧により次第に広がっていた。
『わかったよ、ハル』
その時、水圧に負けた壁が一斉に崩壊した。一気に流れ込んできた海水にハルは身を委ねた。ハルはここでスティーブと死ぬつもりだった。しかし、その身体はふわりと舞い上がり、ぐんぐんと水面目掛けてハルは昇っていった。
「ぷはっ!」
それは永遠のようで一瞬のようだった。そこは研究所の外の海岸だった。酸素を賢明に取り入れたハルが辺りを見渡すと、血まみれのサメがそこにいた。
「スティーブ!!」
ハルはスティーブにしがみついた。鮫の肌がごつごつとハルを傷つける。
『ああ、僕は、君を救うことができたんだね』
「でもスティーブ、あなたは……」
スティーブの腹には、深々と銛が突き刺さっていた。
『僕のことなら心配しないで、僕は海に帰るんだ』
「ああ、スティーブ……」
『それにね、やっぱり僕はサメだ。今にも君を食べてしまいたいって思ってる』
スティーブは血の匂いに反応する本能と必死に戦っていた。
『もう大丈夫だよ、僕なら。でも言葉が言えるうちに伝えなきゃ。ハル、愛してる』
「もういいのよ、スティーブ」
『愛してる。言葉を教えてくれた君を僕は愛しているよ。ほら、僕は歌だって歌えるんだ、君が教えてくれたから』
ハルはスティーブに必死に頬を付けた。ハルには、確かにその血まみれのサメが笑ったように見えた。
――デイジー、デイジー、教えておくれ
――僕は君のことで気が半分狂いそうだ
――結婚式はかっこ悪いかも、四輪馬車なんか買えないから……
サメはそこで歌うのを止めた。
『さようなら、愛しい人』
サメはそうひとこと言うと、身を翻して海中深く沈んでいった。その後、彼の姿を見たものはなかった。
***
壊滅した海洋研究所の後始末の後、ハルはあの海岸を訪れた。もしかしてスティーブに会えるのでは、と淡い期待を抱いていたが静かな波の音が全てを否定する。
「まだまだわからないことだらけね、この世の中も、私も」
ハルはそう呟いて、海洋研究所職員の身分証を海に投げ捨てた。そしてハルは海に向かって、別れ際にスティーブからもらった歌の続きを歌った。
――でもきっと素敵だろう、自転車の後ろに座った君はさ
その歌声は海の上を滑り、きっとどこかで生きていると思われる愛しいものへ届くと彼女は信じた。
〈fin〉
博士の異常な実験~または私が如何にサメを愛するようになったか~ 秋犬 @Anoni
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