キャット VS シャーク

ハル

 

 真夏のある日、深木ふかき市の碧洋へきよう海水浴場は、阿鼻叫喚の地獄と化した。


 突然大きなアオザメが現れ、海水浴客を襲ったのだ。それも、ある者の腕を噛みちぎり、ある者の脚を食いちぎり、ある者の腹に食らいつき――という襲い方で、明らかに捕食ではなく殺戮が目的だった。死者は十二名、負傷者は二十七名にものぼった。


 深木市在住の大学教授で、サメの食物の研究をしている張井はりいれんは、事件を知って愕然とした。


 サメがこんな襲い方をするはずがない。そもそもアオザメは外洋性のサメ、海水浴場に現れること自体まれだっていうのに……。


 数日後、漣をさらに愕然とさせるニュースが報道された。


 碧洋海水浴場から五キロほど離れた海上にある医学研究施設「マリンティカ」から、飼育されていたアオザメが逃げ出していたことがわかったのだ。しかも、「マリンティカ」ではアオザメに人間並みの知能を与えたうえ、非人道的な実験の道具にしていたという。


 つまり、あのサメは人類に復讐しているのか……。


 サメの気持ちもわかるが、手をこまねいているわけにはいかない。このままでは、深木市の海では海水浴もサーフィンもダイビングもできないのだ。海が美しく波が穏やかで生息する魚の種類も多い深木市は、それらの名所として有名で、大事な収入源にしているというのに――。また、漁ができないのも大問題だ。


 もちろん、深木市も全力を挙げてサメを退治しようとした。だが、人間並みの知能を持つサメなのだ。どんな餌を撒いても釣り針につけても寄ってこない。


 いったいどうすれば……。


 漣はすっかり途方に暮れて酒をあおっていた。サメを愛している漣は、いまやサメという生き物自体が全深木市民から――いや、全日本国民から憎まれていることも悲しかった。と、


「にゃーお、にゃーお」


 黒猫のカーターが甘えた声を上げてすり寄ってくる。サメと同じくらい猫も好きな漣は、三年前に保護猫譲渡会で一目惚れしたカーターを引き取り、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。


「よーしよしよし、カーター」


 抱き上げると、カーターは膝の上で丸くなって目を細めた。


「おまえは本当に可愛いなぁ。おまえを見ているとどんな悩みも消えるような気がするよ」


 微笑んでカーターの頭を撫で、喉を掻いてやる。カーターがゴロゴロと喉を鳴らしたとき、漣の頭の中で電球が点灯したような気がした。


 そうだ、この手があった!


 うまくいくだろうかという不安もあったが、それよりも高揚感のほうがずっと大きい。踊りだしたいくらいだったが、カーターのリラックスタイムを邪魔するわけにはいかないので我慢した。


     ***


 翌朝いちばんに、漣は深木市長の秘書課に電話をかけ、昨夜思いついた作戦を話した。


 幸い市長の秘書も市長も大の猫好きだそうで、漣の作戦を実行してくれることになった。


 数日後、碧洋海水浴場に巨大なモニターが設置された。


 モニターに流されたのは、某動画投稿サイトで大人気の猫チャンネル、「きょうのダドリー」の動画だ。アメリカンショートヘアのダドリーと飼い主の他愛ない――だが、かけがえのない日常を撮ったものである。


 大好物のマグロにかぶりついたり、猫じゃらしにじゃれついたり、おなかを見せて身をくねらせたりするダドリーは、猫嫌いでも骨抜きにし、猫好きなら骨血肉内臓抜きにするほどの可愛さに満ち満ちていて、


「きゃーっ!」


「うぉーっ!」


「ひぃーっ!」


 見物客も絶叫していた。――これはこれで阿鼻叫喚だ。


 かく言う漣もそのひとりだった。もっとも漣の場合は、叫んだあとに心の中で、「でもうちのカーターにはかなわない!」と言っていたし、猫を飼っている見物客はみな同様だっただろう。


 と、突然その絶叫がぴたりとやんだ。


 海に青い背ビレが現れ、あのサメが顔を出したからだ。


 誰もが凍りついてサメを凝視するなか、


「どうか聞いてくれ!」


 市長の声が響きわたった。市長選を間近にひかえた演説のときよりも真剣な口調だ。


「君が人類を憎むのは当然だ。人類は君にひどいことをした。何百回何千回謝罪しても足りないほどの……。だが、『マリンティカ』のスタッフは全員逮捕されたし、厳罰に処されることはまちがいない。憎しみを忘れてくれとは言わない……言えないが、せめてそれを無関係なひとびとにぶつけるのはこらえてもらえないだろうか。この、地上でいちばん可愛らしい動物である『猫』を見れば、凝り固まってしまった君の心もきっと溶けると信じている。君よりもずっと愚かな人類でさえそうなのだから……」


 サメはしばらく身じろぎもせずにモニターを見つめていた。サメの憎しみと猫の可愛さが熾烈な戦いを繰りひろげているのがわかる。


 やがて、サメの目の光がふっとやわらいだように見え、その顔が海の中へと消えた。数十秒の沈黙ののち、


「ダドリー、ばんざーい!!! 猫、ばんざーい!!!」

 

 砂浜を揺るがすほどの大歓声が沸き起こったのだった。


     ***


 それから、深木市の海水浴場や漁場にあのサメが現れることは二度となかった。


 だがひとびとは、深木市の海で泳いだり船に乗ったりするときは、必ず猫グッズを身に着けるようになった。


 海水浴場の近くには「打土賀田だどかた神社」という神社も建立され(もちろん名前の由来はダドリーとカーターだ)、猫が刺繍されたサメ除けのお守りや、ひとつひとつの珠に猫の肉球が描かれたサメ除けの数珠、招き猫ならぬ「サメ除け猫」なども授けられて、常に参拝客でにぎわっているという。

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