第一部【不久の太陽】

第1話【EPISODE OF......】

「もうたくさんだ!」


 二〇三八年の畳部屋に、彼の声がこだまする。右の壁が、三度鈍い音を発した。普段は耳に障る騒音も、今は心地よかった。優しく包み込む羽毛のようだった。彼の、カワチ大輔だいすけ》の心はもう、ファンデルワールスよりも繊細だったのだ。


 名門O大学を卒業した彼は、焦りから手当り次第面接を受けた。同級生が受かる中、大学生の三分の一を遊びと趣味に費やしていた彼は、「どうせ受かる」という布団の上に大の字で寝ていたのだ。自業自得としか言いようがない。その所為で仮面を被った薄給会社に受かってしまったのだから。


 辞職しようにも上司や同僚からの圧で話を切り出せず、頼みの綱である親も物心が着いた時には既に亡くなっていた。育ての親である祖父母も昨年に他界した。今まで顔も名前も知らぬ相手とのやり取りで精神を保っていたのだ。二十三歳が背負う荷物の重さではないが、現実は無情にもその荷物を揺らしてくる。それが今、とうとう崩れてしまったのだ。


 ――そうだ、会社の上から飛び降りてやろう


 己の死体の置き土産。空洞の信頼を寄せる上司は、会社を辞めるほどの余韻に浸ってくれるだろうか。絡まりあって見えないだけで自由端の存在する絆で結ばれた同僚は、病院に通うほど心の底から喜んでくれるだろうか。彼の肺はそんな期待gasで満たされた。


 いつもの日常。アマテラス粒子のように発生源が分からない上司の叱責、ニュートリノのように心をすり抜ける同僚からの希望の言葉。視線は前、言葉の向きは己の内とは器用な事だ。全ては保身のため、カワチ自身の事なんぞ彼らにとってどうでもよかったのだ。

 だが、彼の心はもはや気体も同然。死への活力を得て昇華しきった心は、もはやサンドバッグにもなり得ない。


 彼にとって、今はコンクリートさえも暖かかった。地上は明るく、空は暗い。ただ満月のみが彼を見つめていた。理想だけはただ高く、現状に過程を打ち砕かれ、往時の栄誉に縋った彼を。


 柵を越え、同族が織り成す夜景を望む。そよ風が河内をそっと撫でた。彼は吹き飛ばされぬよう、五分、いや二十分ほどその場に踏ん張った。


 屋上で凛と咲くスノードロップは、微動だにせずただカワチを眺めている。カワチはグッと歯を食いしばる。


 祖父から授かった護身術、そして祖母から譲り受けた仕事守を携えて、仰向けとなり 空を見つめた。最後に見るのもは美しいものでありたい、その思いで直線の上から覗く満月に目線を合わせる。


 ――小学生の頃、宇宙飛行士になるのが夢だったな。懐かしい……


 世界と分つその直前、満月が空より黒い漆黒に呑まれた。カワチに救いの手を出すような雰囲気がした。体が"それ"に引き込まれるように感じた。


 ――そうか、あれが死神なんだ


 同族が、一斉に仕事場の電気を消した。


 〔ホログラフィック宇宙論この世界は、どこかに存在する二次元平面の情報を投影したものだ


「ここは……」


 カワチは、淡い光を垂らす白天井と目が合った。


「俺は、死ねたのか? もしかして異世界転――ッ!」


 異世界? いや、一般にそう呼ばれている場所には程遠い。研究室のように無機質な部屋を苦し紛れに彩った部屋に、カワチは座り込んでいた。

 作り物のような観葉植物、色を付けるために設置したような本棚、とても柔らかいとは言い難い絨毯、年季が入ったように褪せたソファ、中心が抉れているニスの剥がれた机、漆黒のキャンバスに青、白、黄、橙、赤といった彩りの乏しい"斑点"を疎らに打った現代美――いや、違う、斑点が動いている。どうやら窓のようだ。これは失敬。


「なんなんだここは。宇宙?」


 窓の外を見るためにカワチは立ち上がったその時、


「嗚呼、如何にも。ここは君の思っている通りの宇宙だ」


 体全体を震わすような声が横から聞こえた。首を捩じ切る勢いで振り向くと、誰もいなかったはずの褪せソファに女性が座っていた。


「御機嫌よう、カワチ大輔君。二十三年の長旅に労いの言葉を送ろう。さぁ、そこに座って疲れを癒してくれ」


 カワチが寝ていた場所には、二つの椅子が"浮いていた"。乱れたような本棚も、大学図書館の様な厳かな雰囲気を放っている。生気を感じなかった植物も、今では熱帯で力強く生きるシダ植物のようだ。


 黒く凛としたツリ目で視線を送る彼女はカワチが座るのを待っているようだ。少しでも無礼を働けば、瞬く間に腕を吹き飛ばすような雰囲気を放つ彼女に、カワチはその場でイオン結晶の如く硬化した。


「そう恐れられると悲しいではないか。無闇に他人の腕を切り離す訳ではないさ。安心し、軽い気持ちでいると良い」


 錆び付いたブリキ人形のような動きで座ったカワチを確認すると、彼女も着用している燕尾服を正しカワチと目を合わせた。


「私の名はアズマ。この世の理を司る機械仕掛けの神の一人だ。君の自己紹介は結構、既に確認済みさ」


 カワチは、アズマの目に違和感を覚えた。どうやら彼女の瞳孔は黒ではなくシアンなようだ。


 磁力か反重力か、不思議にも椅子は宙に浮いている。椅子は、まるでカワチ自身の質量に合わせるように高さを変えた。一切の抵抗を感じないその座り心地は、"浮いている"という表現では物足りないほどだった。


「あの、ここって何処なんですか? 俺は屋上から飛び降りたはずなんですが」


 カワチは、木漏れ日を抱える森のような落ち着きを醸し出す部屋を眺めながら言う。


「ここは彗という宇宙の秩序を正す組織、その内の天の川支部にあたる基地だ。我々は"ある条件"に当てはまった人物が死亡した際に、その者の魂をこちらに招待させてもらっている。魂だけなら、神隠しにもなりえず、法にも抵触しない。合理的であろう?」


 アズマは妖しく微笑みながら答えた。その時にサメのように鋭い歯が淡い光に照らされた。


「ある条件というのは?」


 河内は誘導されるかの如く、そのような質問をした。


「年齢、性別、国籍、身分等は一切問わないただ一つの条件さ。端的に表せば、『その惑星における宇宙開発の発展に貢献した者』。それが直接だろうと間接だろうとな。例えばそう、敵国に潜入し彼らの施設の情報を自国に報せたことで、彼らの通信を撹乱させる中継衛星の開発に成功。それが遠くに旅立つ有人宇宙探査機と管制を繋ぐ中継器の元となった、という具合にな」


 カワチは、妙に具体的な例も入ってこないほど、何も考えられなくなってしまった。カワチ自身はただ盲目的に働いていたのみ、貢献する余裕なんて持ち合わせていなかった。


「なんで俺なんですか? それだったら望遠鏡を発明したガリレオ博士とか、相対性理論を提唱したアインシュタイン博士だっているじゃないですか」


「あぁ、彼らもここに招待したよ。古代ギリシアから君の住んでいた時代までの天文学者、更には君のような一般の者も遍く、な」


 カワチは遂に反射的に出る言葉さえも弾切れを起こした。心当たりが全くないのだ。何せ、彼が大学で研究していた分野は生物学、それも遺伝子に関するものなのだから。


「覚えていないのか? 斬新で興味深い研究をしていたはずだが」


 カワチは首が一回転する勢いで否定した。


「覚えていなくとも君がここにいる事実は変わらないさ。本題に戻そう。幼児のような喧嘩をするために君を呼んだ訳では無いからな。君を天の川支部に招待した理由は、そう、天の川支部入隊していただきたい。勿論断ってもらって結構。その場合は全てを忘れ生老病死の地上に戻るか、この世の全てを知った後にこの世界を遊覧する魂となるかは自由。無論、天の川支部を退役した時もこれら二つは選択可能だ」


「うーーーーーーーーーーーーーーーーーん」


 カワチは激しく迷っている。宇宙の軍から自分が巨大な宇宙艦隊を引き連れる艦長となった姿にロマンを感じつつ、今すぐこの世の全てを知りたいという好奇心が拮抗していた。


「ちなみにだが、君の想像しているその宇宙艦隊はこの場所には無い。単純に効率が悪いからな。時間もかかる、燃費も悪い、加えて収納する場所もない。そんなものアンドロメダ支部しか造らない」


「えっ」


 カワチは、ここに来た時よりも驚いていた。その瞬間、カワチの気持ちが大きく後者に傾いた。


「だが、」


 アズマがそう発した時、カワチの針は再び中心に戻った。


「だが、入隊すれば君は新たな魂の器が与えられる。名は恒護こうご


「おぉ」


 カワチの興味が天の川支部へと傾いた。


「彼らは"物理・情報・空想"に分類される力を有し、」


「おぉ」


「水素を取り込み核融合を動力源とする者となる」


「おぉ! 凄いですね」


「そして、天の川支部に入隊した暁には、現状七つの星を散策することや、住人と交流することも可能だ」


「えー、いいなぁ」


「ちなみに痛覚は無い」


「マジすか!? なります!」


 カワチはその特徴に今日で最も食いついた。余程痛みというものが嫌いだったのだろう。


「ハハハ、そういってもらえて嬉しいよ。だが、君の思う以上に、そう簡単になれるものではない。恒護は各星に一人のみの存在、兵士ではない特別な存在だ。大量に居ては困る。そこでだ、」


 アズマはカワチに冷たい視線を向ける。軽く興奮した彼を抑える為だろう。


「君には試験を受けてもらう。だが、試験とは言っても知識や技術を問う訳では無い。これを飲み込んでもらう、ただそれだけさ」


 どこからともなく机の上に現れたのはカプセルに入った炎の揺らめく球体だった。大きさは飴玉よりも小さいが、煌々と光り輝いている。しかし驚くべきところはそこではなかった。


「これは? 」


「太陽の欠片さ。」


 河内は目の前が暗くなった。なぜ欠片が取り出せているのか、なぜ重力が弱いのに形を保てているのか。疑問点は多くあった。


「まぁ、待て。順当に説明するさ」


 アズマはカプセルを手に取って言う。


「星がどのようにその形を保っているのか、君は勿論知っていることだろう。一言で表せば星の持つ強大な重力と核融合による反発力が釣り合うからだ。だがこれは私の仲間、即ち機械仕掛けの神の協力により採取、維持されているもの。核融合は止まっているが保っているエネルギーは本物さ。持ってみるといい。ソンブレロ支部の神が生み出した最高の断熱性と耐久性を持ったこのカプセルでさえ、この感覚だからな。勿論カプセル内は真空だ、空気を入れてしまってはプラズマ化するからな」


 カプセルはいつの間にか机の上に戻っている。カワチはそれを、自販機の下にある硬貨を取り出すようにゆっくりと持った。


「あっつ!」


 カプセルが勢いよく手から飛び出した。綺麗に机の窪みに納まったカプセルは、窪みの中から周囲照らしている。あの小ささでこの光量、間違いなくエネルギーは本物だ。


「恒護はこれを核としエネルギーを作り出す。要するにこれを取り込まなければ、話にならないというわけだ。しかし、恒護になれば痛覚を感じないが、今の君にはまだそれが残っている。私の言っていることが理解出来るかな?」


 カワチは説明に理解が追いつかなかった。だが、こっそりと自身の手を抓って分かった、カプセルを手に取って分かったのはただ一つ、"これ"を飲み込めば太陽の熱さを直接感じるということ。


「そうか、納得して貰えたのなら光栄だ。この試験で試すのはただ一つ、精神性だ。恒護の任務には苛烈なものもある。受け入れ難い現実を受け入れなければならない時が来る。立ち向かわなければないない相手が現れることもある。それらに耐えられない者は天の川支部に必要ない。なぁ、カワチ君」


 カワチは、部屋が一瞬絶対零度に凍てついたように感じた。気がつけばアズマは目の前から姿を消していた。急速に劣化した部屋に一人取り残されたカワチは、カプセルに入れられた弱々しい太陽を見つめる。


 しかしカワチは軽く胸を躍らせていた。


 最後のフロンティアと呼ばれる宇宙、そこでどんな生活が待っているのか、それこそまさしく“神”のみぞ知る事であろう。

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機械仕掛けの宙を廻りて ドフォー @dofor0114

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