花粉症バッティング

秋都 鮭丸

1

 この世の全てのスギ・ヒノキ、ついでにブタクサ滅ぶべし。


 三月も半ば、長きにわたる、大学生の春休み真っ最中。だらけきった私を外へ連れ出したのは、同じ学科のイサムラであった。

「バッティングセンター行こうぜ」

 三日ぶりの外出。上がり始めた気温と日差し。少し衣服選択を間違えば、暑さに包まれるやっかいな季節だ。存外強めな春の風。その風が何を運んでくるか、私はすっかり忘れていた。


 イサムラとともに、近場のバッティングセンターにたどりつく。錆びた茶色と鈍色が、壁、床、機材を侵食し、冷たく湿った空気が覆う、まさに寂れたこの施設。人の気配は一人か二人、ゲームコーナーが虚しく鳴らす、愉快な音だけ響いている。

「まぁ、野球やってたわけでもない俺らには、80 km/hが限界だろ」

 イサムラは1000円札を専用コインに替え、備え付けのバットを手に持った。球速ごとに分かれた打席のうち、最も端、初心者向けの打席に向かう。私も後を追ったが、そこである違和感に気付いた。


 鼻がむずむずする。


 鼻がむずむずする。急速に鼻水が生成されている感覚がある。息を短く二回吸う。咄嗟に鼻と口を抑えようとしたが、それより早く、奥深くから、放たれる飛沫。いわゆるくしゃみ。

 奴らだ。

 奴らはもう、この街まで来ていた。毎年毎年、春に浮かれる街を襲い、私を苦しめる悪の権化。ティッシュの消費量を約20倍にし、入眠を妨げ、集中力を低下させる。目には痒み、喉は鼻声、洗濯物すら外には干せない。この世で最も忌むべき存在、奴らが街に降りてきている。


 言わずもがな、花粉である。


「せっかくだから勝負するか! 1打席20球の内、いくつ前に飛ばしたか、とかで」

 イサムラが何か言っているがそれどころではない。私は大慌てでポケットティッシュを探す。今私はポケットティッシュをいくつ持っている……? 足りるか? 代替品はあるか? あぁもう鼻水が垂れる!

 とりあえず一つ、ポケットティッシュを取り出せた。開封済みの使いかけ。枚数は心もとないが、ないよりマシだ。すぐさま1枚引き抜き、鼻にあてがう。それはもう景気よく、透明に澄んだものが溢れ出る。一度出したら止まらない。奥から奥から次から次へ、身体中の水分が、鼻から外へと抜けていく。

「負けたら牛丼おごりな」

 もうダメだ、次の1枚を……え、牛丼? まぁいいけど、さっさとやってくれ、ティッシュが足りない。


 かぁん、と乾いた音。ぎぃん、と鈍った音。ばすっ、と揺れる、ネットの叫び。ヒットも凡打も空振りも、私の耳には届かなかった。全てをかき消す鼻かみ連鎖。出しても出しても止まらぬ洪水。最初に出したポケットティッシュは、ほんの一瞬で空になる。

 あといくつだ……? 私はあといくつ、ポケットティッシュを持っている?

 一度鼻を抑え、恐る恐るリュックの中を覗く。ポケットティッシュは一つ、二つ……


 二つだ。残りのポケットティッシュは二つ。これは非常にまずい事態だ。私が愛用しているポケットティッシュは、一つ10枚入り。つまり、鼻をかめるのは残り20回。堪えきれず垂れ始めた鼻をすする。

 これは、出すしかないのか。ティッシュを丸めて鼻につめ、鼻水の漏出をせき止める伝家の宝刀、鼻ティッシュを。

 いやいやダメだ冷静になれ。あれは鼻がふさがる閉塞感、口呼吸による不快感、ついでに見た目が異常者だ。私はまだ、鼻ティッシュを実行しないだけの理性が残っている。


 そうこういう間にティッシュは7枚減った。


「久しぶりすぎて全然当たんねぇわ。前に飛んだのは20球中6球だけだ」

 気付くとイサムラの打席は終わっていた。ネットをくぐり、バットを差し出し、「こりゃ牛丼代を用意せねゃならんなぁ」と頭を掻いている。

 私の打席が終われば、バッティングセンターから牛丼屋に向かうことになるだろう。ここから最も近い牛丼屋であれば、道中にコンビニがある。ここに立ち寄ればティッシュもマスクも確保できる。この打席を、20球をやり過ごせば——。

 私は、差し出されたバットを受け取り、ネットをくぐり、鼻をすすった。


機械にコインを入れると、目の前のピッチングマシンが起動する。無骨で細長いスコップのような機械の腕が、回転するように動きだし、先端にボールを一つ補充する。回転は加速、頂点から腕を振り下ろし、握ったボールを放り投げる。ボールはそのまま私の打席、いわゆるストライクゾーンめがけて空を切り、ホームベースの上を抜け、ばすんっ、と後ろのネットに沈み込む。そんな軌道を眺めつつ、私はティッシュを1枚減らした。


「おい、もうボールきてんぞ」

「大丈夫、次は打つ」

 私は今度こそ打席に立ち、久々に握るバットを構えた。鼻をすする。うーん、やっぱり垂れそう。

 再度ボールは放たれた。私もたまらず鼻垂れた。集中を欠いたバットは空を切り、ネットはばすっ、と揺れ踊る。

 私は再び打席を離れ、残り12枚となったティッシュをさらに1枚減らす。うむ、次の1球は見送り。その次でまたチャレンジしよう。


 といった具合で、鼻をかんだり、バットを振ったり、ネットが揺れたり、たまにはかすり、鼻をすすってなんだかんだで、残り1球までこぎつけた。ティッシュは残り3枚。これなら、コンビニまで耐えきることができるだろう。私は安堵の息を吐く。

 これまでの19球と同様に、ピッチングマシンは動きだす。寸分違わぬ動きを経て、ついに放たれる最終球。後の不安と憂いが消えて、幾分晴れやかな私の瞳は、その姿を正確に捉えた。もはや鼻垂れることすら意に介さず、雑念の消えた一振りが、ボールを大空へ打ち返す。風に乗り、さらに勢いを増すそれは、ある一つの目的地に向かっていた。そう、今まさにコンビニに駆け出さんとする私のように——。

 そしてボールは着弾した。「ホームラン」と書かれたプレートに。


「えっ」

 途端に鳴り出す電子音。ホームランを知らせるアナウンス。大盛り上がりのイサムラ。駆け寄るスタッフ。残り2枚のティッシュと私。ころころネットを転がるボール。


「ホームランおめでとうございます! こちら景品です」

 そういって渡されたのは、このバッティングセンターで使えるコイン1枚。つまり打席1回分。アイスやガムの当たりさながら、もう一回、をさせようというのか?

「俺が前に飛ばしたのは6球、お前は1球だけだが、その1球はホームランか……うん、よし、お前はもう1打席打っていいぜ。延長戦だ」

「なにもよくない、牛丼をおごらせろ」

「なんだよ、そんなに腹減ってんのか?」

「ティッシュが残り2枚なんだ。まもなく残り1枚になる」

 私は合間に鼻をかむ。

「え、俺ティッシュ持ってるけど」


「……あ、マジ?」


 結局もう1打席も大した結果は出なかった。前に飛んだのはせいぜい3球。2打席通算しても勝者はイサムラ。いささか低レベルな争いだったが決着はついた。

 コンビニに寄り、ティッシュを補充、マスクも装備。牛丼一杯イサムラにおごる。彼のティッシュに免じて、大盛りにしてやった。

「持つべきものは友だよなぁ」

「こっちのセリフだ」

 私は答えた。静かに鼻をかみながら。


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花粉症バッティング 秋都 鮭丸 @sakemaru

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