第2話 いつもの事
「ふんふふ〜ん♪」
鼻歌を歌いながらお屋敷の廊下を軽い足取りで歩いているのは、私がお仕えしているリリアンヌお嬢様だ。
明るめの淡い茶髪に、優しい薄紫の瞳が印象的だ。
「アリス、みんなにはバレてないわよね?」
こちらを振り返り、うふふっと笑うお姿がとても愛らしい。
「ええ、ハリスが会議と称してみなを会議室に集めております」
「そう、ありがとう」
お嬢様の手には大きなバスケットが握られている。もちろん、お荷物は私がお持ちすべきなのだが、
「これくらい自分で持つわ」
と、拗ねてしまわれたので、断念した。
とはいえ、これはいつもの事である。
それから館の外に出て、庭をしばらく進んで行くと、色とりどりの花が咲き誇る一角に着いた。そこにはかなりの大樹がそびえ立っており、その下の芝生のスペースに大きな影を落としていた。
「さぁ、シートを広げましょう! アリス、手伝ってくれる?」
お嬢様はバスケットを置き、バスケットとは反対の手で持っていたシートをバサバサと広げ始める。
主を手伝わないことなどありえないのだが、それでも必ず頼んでくださるのも、お嬢様にはいつもの事だった。
「もちろんでございます」
私はそんな素敵な心をお持ちである主に仕えられる喜びと感謝を示すべく、深々と頭を下げる。
「ありがとう。じゃあ、そっちを持って」
お嬢様からシートの端を受け取り、木陰に広げていく。
「ふぅ、良い感じじゃないかしら!」
このお屋敷いちばんの大樹だけあって、かなり大きなシートはすっぽりとその陰に収まっている。
「はい。お嬢様、少し休憩なさってはいかがですか? お茶をお入れいたします」
お嬢様はたくさんお動きになってきっと喉が渇いていることだろう。そう思ってお茶休憩の提案をしてみる。
「いや、後ちょっとだから──」
「なにやら、とても楽しそうなことをなさっていますね」
男声ではあるがやや高めで美しい、とても優しい声。
私とお嬢様は、驚いて同時に声がしたほうを振り返る。
そのお声からどなたかは想像がついていたので、私はお顔を確認してすぐに頭を下げる。
「あああアルベール様!?」
お嬢様は驚きのあまりそう叫んだきり固まってしまっている。
「ふふふ、そこまで驚かれなくても」
アルベール様は、悪戯が成功した子どものように楽しそうに笑っておられる。
アルベール様はリリアンヌお嬢様の婚約者である。まっすぐに下ろされた漆黒の髪は腰まであり、満天の星が降る夜空のような濃紺の瞳が、アルベール様の美しさをより一層引き立てている。
私の目の前を通り過ぎるときに、
「おつかれさま」
と声をかけてくださるのも、貴族にはありえないことなのだが、アルベール様にはいつもの事だった。
「ありがとうございます」
私は顔を上げずに小声でそうお答えし、さらに深く頭を下げる。
「どどど、どうしてこちらに?」
驚きのあまり動けずにいる間に距離を詰められたお嬢様は、だいぶパニックになっていらっしゃるようだ。
「ふふ、貴方に会いたくなってしまいまして」
それはお嬢様の質問に答えていることになるのだろうか……。
純粋に疑問に思ってしまったが、頬が薄い桃色に染まっているお嬢様を見て、何も言わないでおいた。
お嬢様はアルベール様と目を合わせようとしない。正しくは、目を合わせられないのだ。
お嬢様とアルベール様は、3ヶ月前に婚約者として顔合わせをしたとき以来、3度目の逢瀬である。アルベール様は政務でお忙しいため、頻繁に会うことはかなわない。とは言っても、政略結婚が普通である現代では珍しく、2人の仲は良好である。会えない分を埋めるかのように文通を行っており、その数はざっと30通にもなる。アルベール様は顔合わせのとき、いやもしかするともっと前からお嬢様にぞっこんであるが、お嬢様はアルベール様の甘く優しいアプローチに、恋に落ちかけと言ったところなのだ。
「ふふ、かわいらしいですね」
お嬢様は顔を背けたままだが、こちらからもどんどん頬が赤く染まっていくのが分かる。
かわいらしいというアルベール様のご意見には同感なのだが、これ以上はお嬢様のキャパオーバーだ。
そう判断した私は、さりげなく助け船を出すことにした。
「アルベール様、お茶はいかがでしょう。少し歩きますが、あちらにガゼボがございます」
アルベール様は少しだけ不満そうな顔をしたけれど、すぐに優しい微笑みをむけてくださる。もう少しお嬢様とふたりきりの世界に浸りたかったのだろう。
「いや、アリス、気遣いは嬉しいけれど、僕もこちらに参加したいな」
アルベール様は、そう言って今敷いたばかりのシートを指さす。
私はたった数度会っただけの従者の名前を覚えているアルベール様に驚きを隠せなかった。
「……アリスを覚えていてくださったのですか?」
それはお嬢様も同じだったようで、目を真ん丸に見開き、ぱちぱちと瞬きをしていらっしゃる。
アルベール様はそんなお嬢様に優しく微笑み、頷いた。
「ええ、もちろんです。貴女の大切な家族なのでしょう?」
家族……?
アルベール様は何をおっしゃっているのだろう。
従者が主と家族など、許されることでは――
「はい。大好きな家族です」
リリアンヌお嬢様は、満開の笑顔で、迷いなくそう言い切った。
「リリアンヌお嬢様と、私が、家族……?」
何とか絞り出したものの、身体が熱くなり、一筋の水滴が頬を伝うのを感じた。
「あ、あれ……? 目から水が……?」
思考はまとまらないのに、水はどんどん溢れて止まらない。
「あ、アリス? どうして泣いているの? もしかして……私と家族とか、い、嫌だった……?」
急に泣き出した私に、お嬢様はおろおろと不安そうな顔で尋ねてくる。
「ち、違います……そ、そのように言っていただけるとは、思って、いなくて……」
あぁ、駄目だ、敬語までもが崩れてしまう……。
お嬢様は違うと言われたことに安堵し、そしてきょとんと小首をかしげる。
「当然でしょう? アリスは確かに私の侍女だけれど、私はアリスのことを本物の姉のように思っているわ」
もう、本当に驚いてしまって、何の言葉も出てこない。
ただ、涙だけが溢れ続けている。
「あああアルベール様! 喜んでくれると思ったのですが、アリスがもっと泣いてしまいました……! どどど、どうしましょうどうすれば!?」
お嬢様は自分の言葉でさらに泣いてしまった私に、軽くパニックになってアルベール様に助けをお求めになっている。
助けを求められたアルベール様は嬉しそうに、リリアンヌお嬢様にとびきり優しい笑顔を向ける。
「リリアンヌ嬢、落ち着いてください。 アリスは喜んでいるから、泣いているのではないですか?」
優しく幼子をあやすような口調と声色に、お嬢様も少し冷静さを取り戻されたようだ。
「え……そうなの?」
泣いてしまって喉がしまり、声を出せない私は、何とか肯定の意思を伝えようとして首を縦にぶんぶんと振った。
「……そうなのね……。はぁぁぁ、安心したわ……。 私のお姉様は涙もろいのね」
心から安堵したというような表情をなさってそうおっしゃるお嬢様の笑顔は、花が開いたように美しく、優しく、私に向けられている。
「ふふ、アリスはかなり驚いているようだけれど、これはいつもの事なんだよ?」
……?
これ、とは何のことだろうか。
アルベール様の発言の意味が分からない。
先程のお嬢様の言葉と笑顔でさらに涙の量を増やしている私は、何も言えずにアルベール様の次の言葉を待つ。
「リリアンヌ嬢は、私と初めて出会ったときから、アリスのことは家族だと、姉だと言っていたんだ。会話に出るたび何度もね。もちろん手紙でも。だから、いつもの事、と言ったんだ」
アルベール様はそう丁寧に説明をしてくださり、リリアンヌお嬢様に向けるそれとは異なるが、やはり慈愛に満ちた笑顔を私に向けてくださった。
アルベール様まで、私を泣かせにきているのだろうか。
「……っ」
ついに前を向いていられなくなってしまった。
そんな私の背中に、暖かいものがそっと添えられる。
「アリス……」
それは、お嬢様の小さくて少し丸い、かわいらしい手だった。
「……こんな身に余る幸福……あってよいのでしょうか……」
全身の水分が無くなってしまったのではないかというくらい泣いてしまった。
侍女という立場で、主とその婚約者の前で号泣してしまった恥ずかしさがこみ上げてきたので、せめてものプライドで今の私にできる最高に綺麗な礼をした。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。リリアンヌお嬢様、アルベール様も、おふたりの寛大なお心に最大級の感謝と忠義を献上いたします」
おぉ、というアルベール様のお声が聞こえる。
「美しい礼だね」
「ええ、とっても! 見惚れてしまって声も出ませんでした……!」
顔を上げると、リリアンヌお嬢様が瞳をきらきらと輝かせて私を見ていた。
「リリアンヌお嬢様の専属侍女たる者、このくらい当然でございます」
こんなに清らかな心をお持ちのお嬢様にお仕えできる喜びを示すように、精一杯の笑顔で答える。
「ふふ、ありがとう、アリス」
そんな私の気持ちを読み取ってか、お礼を言われてしまった。
「とんでもございません」
心から喜んでお仕えしているのだから、むしろご褒美だ。
微笑み合う私たちを見守ってくださっていたアルベール様が、突然クスッと笑った。
「ふふ、リリアンヌ嬢とアリスは本物の姉妹のようですね。先程の驚いた顔なんて、本当にそっくりでした」
先程とは、アルベール様が数回しか会っていないアリスの名前を覚えていたときのことだろうか、それとももっと前、アルベール様が突如現れたときのことだろうか……。
なんて、嬉しさと動揺でどうでも良いことが頭を巡るが、お嬢様の声に現実に引き戻される。
「アリス、嬉しいですね!」
きゅっと私の腕に抱きついて向けてくださった笑顔は、無邪気で、本当にまぶしくて、まるでかわいらしい妹のようだわ、と、身の程知らずにも思ってしまった。けれど、他ならぬ、私が仕える主がそう言ってくださるのだ。思うだけなら許されるだろう。
「……はい」
きっと、私は満面の笑みを浮かべているだろうと自分でも分かるほど、頬が緩みきっていた。
「……ちょっと妬けちゃうな」
「え?」
アルベール様の発言が聞こえていたのか否かは分からないが、お嬢様がアルベール様を振り返ったことで、私の腕は解放される。
その瞬間、アルベール様は優雅に腰を曲げ、その綺麗なお顔をお嬢様の目の前に持ってきた。
アルベール様の漆黒の髪がさらりと流れ、ベールのようにお嬢様を囲う。
「私のことも、家族と同じくらい大切だと思ってくれる日が来ることを、願っています」
からかっている様子の無い、真摯な目。
アルベール様の濃紺の瞳に真正面から見据えられたお嬢様の頬が赤く染まっていく。
その様子を見て満足したのか、アルベール様は微笑んで、お嬢様から離れた。
お嬢様はというと……完全に放心状態である。
2人の様子を見て、そして2人にかけていただいた言葉を思い出して、リリアンヌお嬢様も、アルベール様も、本当にお優しい方だと改めて思った。
貴族社会でこんなにも純粋に優しさを持ち続けることは容易ではないだろう。
だからこそ、おふたりには幸せになってほしいと、とてもお似合いのおふたりだと、そう思うのであった。
「今回はアリスに良いところを持っていかれてしまったな。リリアンヌ嬢の私への好感度は特に上がっていないだろうし……はぁ、気長に頑張るとするか」
アルベール様のそんなぼやきが聞こえてきたが、案外お嬢様は(アルベール様はアリスのことも大切にしてくれて、アリスに正しく気持ちが伝わるよう助けてくださいましたわ。やっぱり素敵な方ですわね……)と思ってらっしゃって、好感度はかなり上がっていると思いますよと、妹の恋路を応援する姉として心の中で反論しておいた。
リリアンヌお嬢様の優しい日常 夜星ゆき @Nemophila-Rurikarakusa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。リリアンヌお嬢様の優しい日常の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます