第2話 希望的観測

 8月31日、うちの学校は、夏休み明けの一週間をテスト期間としており、昨日ようやく終わったところというわけだ。

 僕は部活棟のベランダで、湿気にも負けないらしい彼女の黒髪を眺めていた。

「君はテストの手ごたえはどう?」

 彼女はこの前の絵を描きながら、ときおりこうしてこちらに話しかける。

「…正直、舐めてましたね。中間から期末でかなり難易度が上がった気がします。英語なんかは赤点になるかも」

 僕はそれに答えるだけで、こちらから話しかけることはしない。

「赤点は困るね。君出席日数は足りているの?高校には留年という制度があるんだよ」

「それぐらいは知ってますよ。あと僕健康ですし」

「健康でも、学校に行けない日だってあるよ」

「はぁ」

 留年と脅しておきながら、そんなことを言う。

「…『死ぬわけじゃない』」

「え?」

 彼女は筆を止めて、髪を抑えた。空模様が少し怪しくなってきたか。

「ほら、よく言うでしょう?テストで赤点を取っても、出席日数が足りなくても、留年をしても、『死ぬわけじゃない』って」

 確かに、よくクラスでも耳にする言葉だ。死なないから、大丈夫だよ。と。

「私は、それで大丈夫になる意味が分からないんだ」

「どうしてですか?」

 生物の終わりは死だ。究極的に言えば、死を避けられれば大丈夫なのだ。

「死なないからこそ、辛いんでしょう」

 彼女は、あのクラックビー玉のような目で、何を、見て、感じているのだろうか。

「先輩は、人間、ですね」

 生物、というくくり、科学的な思考では、至らない結論。

 彼女は、人間的に思考し、息をして、死ねないでいる。

「そう?」

 彼女は、筆を進めた。

「辛くなったら、死んでもいいのかな」

 また、彼女の存在が不確定なものとなる。ゆらぎが生まれる。

「みんな、すぐに、忘れてくれますよ」

「そう。それは希望的な、絶望への励ましだね」

 自分が、死んだとき、何も、残らないことが、彼女の、希望的な絶望。

 それなら、僕は、この伸ばした手を、引っ込めるべきだ。

 勝手に、照らし合わせて、自分のエゴで、彼女に、大丈夫と、希望的な希望を見せるのは、やめるべきだ。

 彼女はいつも通り、いつの間にか画材を仕舞っていた。空を見れば、雲がこちらに迫ってきている。食べられてしまいそうだと思いながら、僕も帰り支度をする。

「そういえば、なぜ君はここに来ていたの?科学部は今日やっていないみたいだけれども」

 雨が、一滴、手すりに落ちた。

「観測しに来たんです」

 彼女はさして興味もなさそうに相槌を打つと、大きなカバンを肩にかけた。


「放課後、ベランダで」


 これは、僕の、勝手で、エゴで、口をついて出てしまった言葉。

 普遍的に、観測していたい言葉。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後、ベランダで 家猫のノラ @ienekononora0116

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ