放課後、ベランダで
家猫のノラ
第1話 クラックビー玉
この学校には部活棟と呼ばれるボロい二階建ての建物がある。
一つの階に四部屋ずつあり、全ての部屋が片側は廊下、反対側は窓になっている。
二階の部屋の窓の先はベランダになっている。
科学部の部員である僕は、二階の奥から二番目、科学部の部室の窓を開けた。
部室に充満したビー玉を焦がす匂いが外に逃げていく。
「は?」
隣のベランダで長い黒髪が、風になびいていた。
彼女は僕に背を向ける形で柵に腰掛け、今にも落ちていくような…
「何やってるんだっ!!」
彼女の手を掴んだ。彼女は心底驚いたように目を丸くしてこちらを振り向いた。
よかった。ひとまず助かった。
心臓はまだ血液を激しく送り続ける。
一度息を深く吐いて、口を開いた。
「どうしたんですか」
彼女はさらに目を丸くした後、堪えきれないという風に笑った。
「違うよ、私はただ絵を描いてただけ。ほらあそこに鏡があるでしょう。あれを見ながら自分を描いていたの」
彼女が指差す方向には確かに姿見があった。指差す彼女と、僕が写ってる、
「死なないから、手、離してくれる?」
ちょうど気づいたことを言われ、僕は急いで手を離した。
「ありがと、これでやっと描ける」
彼女はふふっと笑い、キャンバスのほうに向き直り、つまり僕に背を向けて、ベランダの床に散らばった筆を取った。
もう用はない、僕がベランダに対しても、彼女に対しても、彼女が僕に対しても。
そう思い、僕は部室に戻ろうとした。
「君はなんでこんなところにいたの?」
彼女は相変わらずイーゼルにかけられたキャンバスへ体を向けながら言った。
独り言、そう片付けてもよかった。
「今部活でビー玉を焙ってて、匂いがひどかったので換気したかったんです」
今にしてみれば、鏡、キャンバス、筆、いくらでも絵を描いているんだと分かる要素はあったのに全部見えてなかったのか。
どんだけ焦ってんだ。
「さっきからする変な匂いはそれか。ビー玉の炒め物は食欲そそられないね」
僕は取っ手にかけた手を下ろし、彼女に背を向ける形で柵にもたれかかった。
「そういうそっちも変な匂いですよ」
見晴らしがいい。
二階とはいえかなりの高さだ。
「油絵だからね。慣れるよ」
風が顔に当たる。
「ビー玉炒めには戻らなくていいのかな?」
「僕はまだ一年で、いてもいなくてもなんの支障もないんですよ。たぶん今だって、僕がいなくなったのに誰も気づいてないです」
「でも君は窓を開けるんだね」
今の自分が鏡に映らなくてよかった。
「ていうか好きじゃないんですよ。ビー玉を焙ると、クラックビー玉っていう割れやすいものになるっていう作業なんですけど」
「見たことあるよ。去年の文化祭で配っていなかった?とても綺麗だった。確かに割ってしまったけど」
「毎年恒例だそうですね、今年も配るのでまたもらったらどうですか?」
「君はなんで嫌いなのかな?」
「見かけだけじゃないですか。僕はその『綺麗』が分かりません」
「君はどんなものを『綺麗』だと思うのかな?」
「科学や数学の『真理』ですね。揺るがなくて、噓がなくて、誰の目にも見えないのに誰の目にも明らかなもの。見える形にしたら揺らいで、噓にまみれてしまうものです」
「語るねぇ」
「ずっと考え続けてることなので」
「そう。…見える形にしたら揺らいで噓にまみれる、美術への否定かな?」
「そうですね。あの鏡は真理を写す、だけど人の目を通して描かれた絵は違います」
僕はしまったと思った。完全に口が滑った。その証拠に彼女は黙った。
「ごめんなさい。八つ当たりです」
本当に俺は変わらない。
「『今部活でビー玉を焙ってて、匂いがひどかったので換気したかったんです』そう君が言った前、君は少し返事をすることを迷った。
『そういうそっちも変な匂いですよ』そう君が言った後、君は何かを思い出した。
『でも君は窓を開けるんだね』そう私が言った時、君は照れて頬を赤らめた」
僕は驚いて彼女の方に振り返った。相変わらず彼女は僕に背を向けている。
「今目をまんまるにしてるのは誰でも分かるね」
彼女はまたふふっと笑った。
「驚いた?私目はいいんだよ」
「見てたんですか?」
「君が否定した人の目で私は世界を見ているよ」
僕は何も言えなかった。
「でも君はなんだかひどく複雑な多面体だね。二次元に落とし込むのは難しい」
「みせて…見せてもらえますか。その…今描いている絵を」
「完成したらね」
最終下校時間を告げるチャイムが鳴った。
「帰らなくちゃ」
「そう、ですね」
「今日はありがとうね」
いつの間にか片づけられた、鏡、キャンバス、筆。
夕陽の刺すベランダにいる彼女はなんだか消えてしまいそうだった。
揺らぎと噓、そのもののような。
「放課後、ベランダで」
彼女の驚いた目はまるでクラックビー玉のようだった。
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