ある春の思い出

ミナガワハルカ

思い出はただ、あなたの胸に

 春になると、わけもなく体がうずく。

 雪融けた大地から草花が芽吹き、木々の枝先がふっくらと丸みをおびはじめるころ、まるで花のつぼみがほころぶようにして開いていく、わたし。

 寝ているあなたにそっと近づいて、いつもより強く自分の体をすり寄せると、目を覚ましたあなたはすぐに私に気づいて、気怠けだるそうに私の背中をでる。その触れ方はとてもやさしくて。

 あなたの指が頬をくすぐって、私は幸福に、静かに目を細めるのだ。


 あなたは、少し強引に私を引き寄せ、口づける。

 あなたの長い髪が私に触れ、あなたの香りが私を包む。ちょうどあなたの胸に添えられた私のてのひらは、あなたの胸の柔らかさを感じ取る。

 いつまでも、こうしていたい。

 それなのに、あなたは急に私の体を離してしまう。体を起こして伸びをすると、ベットから出て行ってしまう。

 私が恨めしげにねて見せると、あとでね、と笑うあなたの笑顔は、とてもまぶしくて。私は何も言えなくなってしまう。


 それから、あなたが用意した朝食をふたりで食べる。

 あなたが、たっぷりのバターが染み込んだトーストをかじると、その唇は、ルージュを塗ったように艶やかに潤う。ちろりと、唇を割って現れる舌が赤い。

 わたしがあなたを見るたびに、あなたは優しい笑顔を私にくれて。その度に私は、すぐに目線をらしてしまう。


 でも。

 この春のような幸せに満たされながら、しかし私の心には、冬のような影が忍び寄る。

 考えまいと思いながら、でも、頭から離れない。

 私はもう十五歳。

 私とあなた。ふたりに残された時間は、長くない。

 そのことを、あなたはわかっているのだろうか。

 私は、あなたとの幸せを積み上げて、やがて必ず訪れる終わりの時を、今だけは忘れていたい。


 それなのに。

 春の暖かな日差しが窓から差し込んでいるというのに、あなたは机に向かう。

 花は咲き誇り、小鳥は歌い、空はこんなにも青いというのに。

 仕事だ、とあなたは言うのだろう。でもそんなもの、私には関係がない。

 しかめっ面でキーボードを叩くあなたの脚を、私は軽く噛んでみる。

 白く、柔らかな肌に、私の歯が食い込む。もちろん、あなたの肌を傷つけるようなことはしない。甘く、甘く、私の思いを流し込むように、歯を立てる。

 しかしあなたは、反対の足でぞんざいに私を押し除けて、キーボードを叩く音はそのリズムを変えない。

 それだから、いつまで経っても子供な私はやっぱりねて。どこかへ行ってしまうのだ。


 しばらくして、大きく伸びをしたあなたは立ち上がり、ようやく私を探しはじめる。

 私はソファーに寝そべっていて、ソファーの背もたれが私を隠す。

 あなたは私の名前を呼びながら、少しのあいだ部屋を探して。それから、みつけた、と言って、背もたれ越しに私を覗き込む。

 でも、私は顔を上げない。

 そっぽを向いたまま、目を閉じたまま、少し体を動かして、寝心地の良い体勢を求める。

 あなたは気を引こうと、私が寝ている横に座って、頭を撫で、手を取る。私のてのひらの感触を楽しむように、指を動かし、愛撫する。

 でも私は答えてやらない。

 目を閉じたまま、陽だまりの暖かさを存分に楽しむ。あなたに撫でられている手を引っ込め、お腹の下に隠してしまう。

 あなたは困った顔で、私のおでこに唇を寄せる。


 だが。

 あなたはふいに悪戯いたずらな笑みを浮かべると、部屋の隅に据えられたキャビネットに歩み寄った。そして、その上に置かれた小箱を開けて、私を見る。


 その瞬間。

 私の体を稲妻が走る。


 ああ、私は。その中に何が仕舞われているか、知っている。

 あなたがなぜ、そんな微笑を浮かべているのか、知っている。

 そう、あなたはを取り出すのだ。


 それを感じ取った私は、一瞬にしての虜へとしてしまう。

 もう、渇望を抑えることができない。

 体の芯から湧き上がる、根源的な渇望。

 いけないと理解わかっていながらも、求めずにはいられない、背徳の愉悦。


 あなたは取り出したを私の顔の前に持ってきて、左右に振る。

 焦らすように。なぶるように。

 これが欲しいんだろう、これから逃れることはできないのだろうと、笑うあなたの目がそう言っている。

 なのに私は。わかっているのに。息荒く、を目で追ってしまう。



 ああ、ちゅ〜る!



 その味は神の与えたもうた甘露。

 私は耳をピンと立て、尻尾をゆらゆらと振って、袋詰めされた快楽を求める。


 あなたは満足したようにちゅ〜るの封を切り、やっと、やっと私にそれを与えてくれる。

 私はすべてを忘れ、無我夢中でむしゃぶりつく。あなたの手で差し出される、ちゅ〜るに。

 ああ、舐め取っても舐め取っても溢れ出してくる奇跡の聖餐。

 ああ、私は一心不乱に舌を動かし、その享楽を味わう。


 しかし。

 幸福の時は一瞬で過ぎ去る。


 空になった袋をひらひらと振って、もうおしまい。あなたは笑う。

 

 カロリーと塩分。

 我に返り、その罪悪感にさいなままれる私を尻目に、あなたはまた、仕事に戻ってしまう。


 私はのそのそと体を動かし、床に落ちる春の日の中に寝そべると、あなたを見つめる。

 あなたは私の視線に気づいているのか、いないのか。また険しい顔に戻って、資料を片手にマウスを操作する。


 私はぼおっと、そんなあなたの横顔を見つめる。

 その横顔を見ながら、私はあなたに問いかける。


 私のこと、好き?

 そう聞きたいのに、うまく言葉が出てこない。


 あなたのこと、好きよ。

 伝えたいのに、やっぱり言葉が出てこない。


 私の話す言葉はあなたには通じないけれど。でもこの気持ちだけは伝えたくて、私は声を上げる。なのに、あなたは困った顔で、何を鳴いているの、って。


 だから私にできるのは、あなたに体を擦り寄せることくらい。

 あなたの白い足に、甘く甘く歯を立てることくらい。

 あなたがいなければ、私は生きていけない。私にはあなたがすべて。

 私はそれを、全身を使って表現するのだ。

 体をこすりつけ、あなたの脚に尻尾をからめる。


 私はもう十五歳。

 私はあと、何年生きられるのだろう。

 二人の時間はあとわずか。

 せめてそれまで、できる限りたくさん、幸せな時間を作っていきたいのだ。

 この世でたった一人の。

 私だけの。

 ご主人様と。

 思い出を。

 あなたの胸に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある春の思い出 ミナガワハルカ @yamayama3939

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ