春に嵐
染よだか
春に嵐
春に嵐
さよならだけが
人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合何だろう
(寺山修司「幸福が遠すぎたら」)
さみしい、ような気がするけどたぶん気がするだけ。ホルモンバランスの乱れとかビタミンAの不足とか、そういうふわっとしたなんらかによってあたしのか弱い神経がどうにかなっちゃってるだけ。なんてことはわかっちゃいるんだけど、ベッドの上でSNSをひたすら眺めるばかりのこんな一日だと、さすがに考えちゃうのだ。ああ、なんてさみしいのだろう、って。
呼べば駆けつける男なんていくらでもいるし、そもそも付き合って三か月の彼氏がいる。デートは毎週末、会えない日にも通話は欠かさず、昨日なんて4℃のハートネックレスを贈ってくれた。モチーフの真ん中でピンクの石がキラキラ揺れるデザインで、華奢なピンクゴールドのチェーンがいかにも女の子といった感じの、まあつまり絶望的にダサいのですぐメルカリに出品した。売れるころには忘れてるだろう。
「やばいねこれ。男の夢っていうか、願望?」
帰宅したばかりのミユナがちゅるちゅるしたピンクのグラデーションネイルでハートをつまみ上げて笑った。現役地下アイドルが言うとまったく冗談に聞こえない。ゆるっと巻かれたツインテールが肩のところでぴょこぴょこ揺れた。
「それね、8000円で出品中」
「えー。だれが買うのそれ」
「なんと定価18000円、プラス税だって」
「たっか!」
二十三時半。ミユナの勤めるコンセプトカフェはバー営業もしているから、遅番の日はいつも終電ぎりぎりになる。もう少し早く帰ってきてくれたらいいのにと思うけど、プラチナキャストとかいうちょっとえらい立場にいるからそうもいかないらしい。アイドルだって食べなきゃ生きていけないし、あたしなんか事務の派遣社員だ。女二人暮らしの経済力はあまりに弱い。
「ミユナだったらタダでもいーよ」
ピンクのひらひらコスチュームにハートのネックレスを合わせたミユナの姿を想像して、似合うだろうなあと思った。イノセントピンク、ミユナのテーマカラーだ。ミユナはもともとメルヘンちっくメロディー(略してメルメロ)という狂ったネーミングセンスのアイドルグループに所属していて、と言っても三人だけの小さなグループだったのだが、結成数か月でイエロー担当の不思議系ガールが飛び、その半年後にはしっかり者キャラだったはずのブルー担当ができちゃった婚で脱退した。デビューからおよそ一年でソロになったミユナには「ピンク担当ゆめかわイノセントガール」というふわふわしたキャッチコピーだけが残り、そのためか、イベントやライブのたびに持ち帰るプレゼントはいまだにマイメログッズといちご味のお菓子が大半を占めている。
「えー、じゃあもらおっかなあ。なっちゃんからのプレゼントってことで」
「ガチ勢に恨まれそうで怖いんだけど」
「なっちゃんしか勝たん!」
先月のバースデーイベントでもマイメログッズは大量だったが、中には腕時計や財布といった高価なものも紛れていた。冗談みたいなラブレターをいくつももらっていることも知っている。勘弁してほしい。そんなのは本気の恋なんかじゃなく、盛大な勘違いってやつだ。都合のいい思い込み。あんなやつら、ミユナのほんとの好物だってろくに知らないくせに。
「ねえ、あの人とはもう別れたってことだよね。次はもう決まってるの?」
「決まってない。でもこないだ行った合コンで知り合った人と最近LINE続いてるから、今度デートしてみる」
「ふーん」
ほんとうは気乗りしないけど、なんとなくやりとりを続けてしまうのはさみしいからだ。さみしい、ような気がする。暇なとき不意に訪れるむなしさのことをそう呼ぶことにしている。だってその方がかわいい。
それから、男と別れたときにいつもそうするように、互いに脱いだり脱がせたりしつつ、ふざけあいながらお風呂に入った。ワンプッシュのクレンジングを分けあい、ていねいにメイクを落とすと、あたしたちはそれだけで十七のころに戻れるような気がした。あたしたちがまだ誰のものでもなく、誰のしるしも必要としなかったころ。制服をかわいく着崩す以外の自己表現を知らず、唇はリップがなくても薄桃色に濡れていた。
「なっちゃん、髪伸びたね。ほら、見て」
白くぼやけた浴室の鏡にはあたしとミユナの裸体が並び、肌と肌が触れあった箇所から境界線は曖昧になった。ミユナの指先があたしの髪を一束掬い、胸元まで逃がしている。伸ばしたんだよなあ、とぼんやり思う。
量が多くて毛先がはねやすいから、長い髪は扱いにくくて苦手だった。それでも今日まで大切に伸ばしてきたのは、ロングの方が好きだと彼が言ったからだ。髪だけじゃない。てろてろした小花柄のワンピースや控えめなローヒールパンプス、ナチュラルだけど手の込んだメイク。あたしを形づくる「かわいい」の要素は、ぜんぶ彼がもたらしたものだった。
「ハートのネックレスも贈りたくなるよね」
思わずつぶやいてみた。ミユナは聞こえないのか聞いていないのか、なにも言わずにシャンプーを泡立てていた。
「こんなこと言うと嫌味みたいに思うかもしれないんだけど、かわいいって言われるの、ちょっと怖いような気がするの。相手がなにを考えているのか急にわからなくなって、逃げ出したくなる。……お前が悪いって言われてるような気がする。お前が悪い、お前のせいだ、って。……でもそれと同じくらい、心のどっかで安心してるんだ。怖いのにほっとしてる。これでよかったんだ、これが正解なんだって思うの。よくわかんないよね」
十七のころ、ミユナから突然泊めてほしいと電話が来て、あたしの部屋でいっしょに寝たことがある。シングルベッドで身を寄せあって、囁くようにないしょ話をした。外では雨が降っていて、ときおり唸るような風の音が聞こえた。
「わかるよ」
無責任にそんな返事をしたことを、今でも後悔している。あたしはそのときなにもわかっていなかった。ミユナが優秀な成績を保つためにどれほどの努力をしてきたか。両親が望む「いい子」であるためにどれほどの言葉を呑み込んできたか。それがどれほど痛ましいことか……そのときはまだ、なんにもわかっちゃいなかった。
「昨日、ママが出ていって」
雨音の中、すすり泣く声が小さく混ざるのを聞いた気がした。
「……わたしのせいだって、言った」
それで、なぜだろう、いてもたってもいられなくなってしまって、気づいたらそうしていた。ミユナはまったく抵抗しなかった。まるでそうなることがわかってたみたいに。
「……なっちゃんも、わたしがかわいいからキスしたの?」
「ちがうよ」
「じゃあ、どうして」
言葉につまったあたしと入れ替わるようにして、にわかに雨足が強まる気配がした。
その一瞬、青い閃光がミユナの濡れた頬を照らした。
「……さみしいから」
世界が破れ落ちるみたいな雷鳴があった。
春の嵐だった。
付き合う男が変わるたび、あたしの「かわいい」は簡単に形を変えた。そうすれば新しいあたしになれると信じていた。つまり新陳代謝。すべての恋は幻想だった。
「わたし、なっちゃんのにおいが好き。嗅いでると安心する」
それがミユナの思うしるしなんだろう。ミユナは布団に潜ったままあたしの腋に顔を擦り寄せ、すんすんと鼻を鳴らしている。
男と別れたときにいつもそうするように、お風呂を出てからあたしたちはセックスした。たいした会話もないまま、互いのしるしを確かめるように、そして祈るように。ミユナの乳首はイノセントピンクじゃないし、いちごの味もしない。茶色くくすみ、口に含むとほのかにしょっぱかった。薄い胸が跳ねるたび、思い出したようにハートが揺れた。4℃のネックレスは素顔のミユナにまったく似合わず、あたしはそれがうれしかった。
「ミユナは煙草のにおい」
「うそだぁ。バレたことないもん」
ミユナとあたしは十七で煙草を覚え、よく二人で隠れて吸っていた。教師や親にはもちろん、ほかのだれにも秘密だった。あたしの住むマンションの最上階には非常用のはしごがあって、そこから屋上にのぼれば見つかることはなかった。いくつかの弱音が煙となって空に消え、あるいは肺を汚した。
「一度罪を犯すとね、身体のどこかにしるしが刻まれるんだって。それで、死んだあとにそのしるしを閻魔さまが見つけて、地獄に堕とすんだって。ママが言ってた。わたしの身体にもそのしるしがあるんだって」
煙草をふかしながらミユナが言った。右目の下に青紫の痣があった。あの嵐のあとのことだ。
気温はだんだんと上昇し、桜が咲いて風に流れ、春が来ていた。あたしたちは三年生になり、クラスが離れた。新しいクラスであたしは初めての彼氏ができて、その人のために煙草を辞めた。ミユナは少しずつ学校に来なくなっていた。
「……ほら。ちゅーするとちょっと苦い」
頬を引き寄せ唇を吸うと、あのころと変わらないマルボロの苦味が染みついている。それだけでどれほどあたしが安堵しているか、ミユナは知らないのだ。
「で、いつなんだっけ」
あたしの枕を奪いながらミユナが言う。
「なにが?」
「デート」
「来週かな」
「ふーん」
シングルベッドがいびつな音をたてる。起き上がったミユナがあたしの顔を覗きこみ、長い髪が滴るようにこぼれた。
「じゃあそれまでは、なっちゃんはわたしのものだね」
借りものを模倣するだけではしるしにならない。
あたしたちが変わらずあたしたちであるということを知るためには、どうしてもそれが必要だった。
春に嵐 染よだか @mizu432
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