移住
「やばい……これダメになるかも。国内にいる間、ずーっと通っちゃうかも」
「まったくでござる。ここは天国でござるな」
陽炎パレスの大浴場でキュールとランは、恍惚の表情を浮かべていた。
『鳳』の女性メンバー二人は、『灯』の拠点である陽炎パレスに訪れて以来、その素晴らしさに感動していた。伝説のスパイチーム『焔』から受け継いだという建物は、とにかく内装が豪華。遊戯室に大浴場、そして、十人以上で食事をとってもまだスペースが残る食堂。大浴場にはガス給湯器で沸かされたお湯がボタン一つで流れてくる。
ディン共和国には、これほどの壮麗な建物はそう存在しない。
しかも『鳳』が暮らしているのは、首都にある小さなマンション。あまり国内にいることもない彼らは、それを二つ借り、六人共用で暮らしている。窮屈は否めない。
「もう一生、暮らしたいかも。ここに」とキュールはお湯に身体を沈める。
「まったくでござるな」ランも頷いた。
のぼせてきたところでお湯から出て、脱衣所で身体を拭いた。脱衣所も広くスペースが取られているので、二人同時にあがっても何も困らない。
一日の任務の疲れが取れるような清々しさで、二人は厨房に向かった。冷蔵庫には冷えた飲み物が保管されている。
「あー、二人とも。早く来てよぉ」
厨房にはファルマが待っていた。なにやら大きな紙袋を持っている。
「クラウス先生がねぇ、お土産にスイーツを買ってきてくれたよぉ。今日は、フルーツをたっぷり使った、ジェラートみたいでぇ」
紙袋には、溶けないよう丁寧に梱包された、氷菓子が並んでいた。果物がふんだんに使用されたような、果肉混じりの華やかな色。
「「ん…………っ‼」」
キュールとランは同時に唾を飲み込んだ。
湯上りにこれほど向いているスイーツもない。
クラウスは国内にいる間、防諜任務をいくつも請け負っているらしく、あちこちの街に移動し、その度にお土産を買って来てくれる。
ランとキュールは互いに視線を合わせた。考えることは一致していた。
「「ワタシたちは陽炎パレスに移住します‼」」
「――――っ⁉」
ファルマが面食らったように目を丸くした。
二人はさっそくクラウスの部屋に押しかけ「『鳳』も陽炎パレスに暮らしていいですか?」と尋ねていた。突然の質問にクラウスは「ん? 嫌かもしれないな」と反応し、数秒思案して「考えてみたが、やはり嫌だな」と回答し、改めてキュールとランに向き合った。
「――嫌だが?」
「どれだけ嫌なんですかっ⁉」
こっぴどく拒絶された。
『鳳』に友好的なクラウスでも、さすがに『鳳』を完全に住まわせる案は嫌らしい。
「あまり説明していなかったがな、そもそも陽炎パレスは、国内でもっとも優秀なスパイチームが身を安らげるための建物だ。メンバーの素性は機密情報として秘匿せねばならないし、充実した暮らしを得られる代わりに、非常時には命を賭した任務に行かねばならない責務を負う。さすがに線引きは必要だろう」
そもそも『鳳』がこの陽炎パレスに滞在している時点で、異例中の異例らしい。移住はさすがに図々しいか。
「しかしクラウス殿」ランは引き下がらなかった。「龍沖では『鳳』は『灯』に勝利し、本来、クラウス殿は『鳳』のボスになる予定だった。それを我らが譲歩してやったのだ。建物に住まわすくらいは良いござろう?」
「その約束は既に破棄されている。違うか?」
「ぐ……っ」
「代わりに、こうして招いているんだ。ここにいる間、お前たちがつまみ食いすることも黙認し、土産だって渡し、僕自ら菓子も焼いている。それで勘弁してくれないか?」
クラウスが妙に優しいのは、龍沖の件を引け目に感じているからのようだ。
ここで無理に突っぱねれば、クラウスとの関係を壊し、二度と招かれないかもしれない。彼が焼いてくれるフィナンシェは美味だ。手放すのは惜しい。
「くぅ! この陽炎パレスのことを事前に知っていれば、譲歩などせぬかったのに!」
ランが地団太を踏んだ。
キュールは複雑な心地で、ランを慰める。確かにクラウスを『鳳』のボスにしていたら、別の未来に辿り着けたかもしれない。しかし、その場合は『灯』との関係悪化は免れなかっただろうが。
クラウスは小声で「本音を言えば、これ以上『焔』の居場所を踏み荒らされたくないからな」と呟いている。彼にも彼なりに迷いはあるようだ。
「だが、お互いが国内にいる間なら、泊まりに来る分には構わないさ。歓迎するよ。僕の部下にとっても大きな刺激となっている。可愛がってやってくれ」
穏やかに告げてくる。それが彼の譲歩できる、ギリギリのラインらしかった。
キュールが、だったら仕方がないね、と受け入れようとした時だった。
「嫌でござるっ‼」
駄々をこねる子どものようにランが叫んだ。
「自分もここで暮らしたいでござる! 面倒な当番は、全部『灯』の連中に丸投げして、飯は勝手につまみ食いして、のんびりと寛ぎたいでござる! クラウス殿にお土産を買ってきてもらって、サラ殿にお菓子をつくってもらいたいでござる!」
「強欲だな」
クラウスは既に面倒なものを見るような、冷たい目でランを見つめている。キュールは巻き込まれたくなかったが――。
「キュール殿も本音ではそうであろう⁉」
「え?」
「度々クラウス殿に媚びているではないか。本当は同居して、ラブロマンスな日々を送りたいのでござろう⁉ お見通しでござるよ」
なんてことを言うんだ、とキュールは顔が熱くなる。確かにそういう願望はなくもないが、アレは舞台俳優を見る少女的な願望であって、本気には――。
「んんっ? 俺様っ、ぎゃんぎゃん喧しい実験台を見つけました」
「……キュールさん。今の話、ぜひとも詳細を伺いたいですね」
冷ややかな声がぶつけられた。
振り返るまでもなくグレーテとアネットの声。いつもより数段、冷たい。
纏っているのは――確かな殺気。
「「ひぃっ⁉」」と身を震わせ、二人は同時に駆け出した。背中から届いてくる殺気から逃げるようにクラウスの部屋から退散。もはや移住など考えられなかった。
※本作は『スパイ教室 短編集03 ハネムーン・レイカー』特典SSを修正したものです。
次の更新予定
2024年12月20日 12:00
スパイ教室【番外編】 竹町/ファンタジア文庫 @fantasia
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