第3話 短編小説【螢のヒカリ】

 近頃身体が重くなったように感じる。以前のように駆け回ったり、高い場所に登るなんて芸当は勿論、トイレの後にお尻を綺麗にすることすらままならない。つまり腹がつかえて顔がお腹辺りまでしか届かないわけだ。以前なら足をピンと勇敢に突き上げ、お尻を綺麗にしたものだ。


 他にも母さんが私を抱き上げる際に、毎回小さく呻き声を上げるようになったし、粗相が父さんにばれて、急いで逃げようにもすぐに捕まってしまい叱られる羽目になるし、何をするにも億劫になってしまう。腹は頻繁に空くし、何よりもゴロゴロ寝ている時間が倍になった。


 思えば私も人間にして四十代。当然と言えば当然なのだが…。


 そう言えば今日は母さんが慌ただしく動き回っている。いつもは洗い物を『飽きた』と言って途中で放棄してしまうくせに、最後までしっかり洗いきった。部屋中其処彼処に散乱した本やメイク道具を綺麗に棚や箱に納め、私の天敵でもある喧しくがなりたてる【あいつ】を使って部屋中のゴミを一掃している。ゴミを食べるなんてにわかには信じられないだろうが、あいつはいかなるゴミも咀嚼一つせず飲み込んでしまう。皮膚は硬く、私の猫パンチを物ともしない。けれどあいつには弱点がある。それは、母さんや父さんが居ないと一人では何も出来ないのだ。一人では何も出来ず、硬く柔軟性に欠けている。おまけに喧しく騒ぎ立てるしか脳がない。ゴミ等という明らかに身体に悪いものを好んで食べる。そういった連中を人間は青二才と言うらしい。だとすればあいつは紛れもなく青二才だ。

少なくとも私は、お尻こそ綺麗には出来なくなってしまったが、あいつよりは自立した大人だ。


 母さんが青二才を上手く扱っている間、私は部屋の隅、寝室、もしくは押入れに避難する。だが、父さんは寝室と押し入れに私が逃げ込むのを見るや否や目を爛々とさせて、サバンナのチーターよろしく私を捕まえに来る。猫科が猫科に捕獲されるという何とも意味不明な構図ではあるが、父さんが私を威嚇する際に『シャアー』と唸るのは事実だ。


 父さんは恐らく私が以前に寝室で、父さんの布団にだけ二度もマーキングをしたことを恨んでいるのだろう。いや…三度だった気もする。私は普段嗅ぎ慣れていない匂いがあると不安になってマーキングをするのだが(ちなみに父さんの名誉の為に述べておくが、父さんの布団が臭いわけではない。)結局は父さんに叱られまた不安になる。勿論父さんも、マーキングをされないか不安なのだ。これらの出来事から、不安というものは、広く伝染し、やがては自身に返ってくるということを猫ながらに学んだのだ。


 ちなみに、猫ですら学ぶというのに一向に学ばないのが人間であるらしいことを知ったのは随分後のことだ。全生物の中で、人間は唯一進化し続ける生き物だと言われており、当事者達はそれを、他生物よりも自分達は優れているからだと鼻高々に主張するが、残念ながら、学びが必要なまでに未熟であることの裏返しらしいのだから、実に皮肉なものだ。それらは後に出会うある方に聞いたのだが、人間は多くを学ぶ為に人間をしているにも関わらず、どうやら自身が人間であることすら忘れてしまっている節があるというのだ。かくいう私も、赤ん坊の頃からずっと人間と暮らしていた為、自身が猫であるという事実は知らなかった。それを知ったのも随分後のことだ。


 テレビで雌猫が出て来ても、私にしてみればそれは何か他の生き物に他ならない。

私にとっての最重要事項は、ご飯がちゃんと用意されているか、トイレは綺麗に維持されているか、適度な距離感で接してくれるのか。それだけだ。自身が何であるか?などにはさらさら興味がない。


大切なのは【私である】ということのみだ。


 だから何かと比べて一喜一憂したりする必要もなく、いつの瞬間においても私は私を生きるのみなのだ。


 どうやら歳を重ねるとお喋り好きになってしまうらしい。


 さて。話を戻すが、母さんがなぜ慌ただしく動き続けていたのか?それはついに、私の最も忌むべき存在が我が領域に踏み込もうとしている前触れに他ならない。

ここからでも、やつの匂いを正確に嗅ぎ取ることが出来る。忘れもしない…あの匂いを。


【続く】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

螢のヒカリ 門山唖侖 @aroun1981

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ