第2話 短編小説【螢のヒカリ】

 ある日、母さんが暫く家に帰ってこない日が続いた。心なしか父さんも憔悴しきっていて、僕がいつものように擦り寄っても無表情で寝室へと入り扉を閉めた。夕ご飯も食べずに大丈夫なのだろうか?電気も暗くしたままだ。心配になった僕は寝室の前に座り込み、父さんに呼びかける。


『母さんはどうしたの?』


 返事はない。


『ねぇ?母さんは何処にいるの?』


 依然、返事はない。


『父さん!母さんは…』


 ドンッ


 寝室の奥から何かが扉目掛けて飛んでぶつかる音がする。続け様に父さんが何かを叫んだ。

声を荒げてはいるが何故だろう?悲しみの匂いがする。もしかしたらまた泣いているのかもしれない。


『父さん。大丈夫?』今度は小さく呼びかける。


 扉が開き険しい表情をした父さんが怒鳴る。けれどやっぱり悲しみの匂いがする。父さんの顔が濡れて、目が真っ赤になっている。その場にへたり込んだ父さんに擦り寄ると、父さんは初めて僕を抱き締めた。

悲しみだけじゃなく、何か失うことに対する恐怖。後悔。その奥深くにある信じたいという僅かな希望の入り混じったつぎはぎだらけの心が、僕の心臓に弱々しく反響する。

『ごめんな。』そう聞こえたような気がした。


 父さんは、母さんが帰って来なくなってからずっといつもより帰りが遅くなった。

朝出掛けて、夕方頃には必ず帰って来ていた父さんが、今では晩遅くに帰って来る。

その際、父さんからはいつも悲しい匂いの他に、嗅いだことのない嫌な匂いがしていた。


 暫くそんな日が続いて、やっと母さんが家に帰って来たんだ!…けれど。

母さんからは少し変な匂いがした。何か苦い、鼻の奥に残るような、本来生命とは無縁であるはずの光を焦げ付かせたような匂い。


『ほたちゃあん!久しぶりぃ!』


 痣にすり減らされたか細い腕が、いつものように僕を抱き締める。

優しかった母さんの匂いを嗅ぎ分ける。やはり母さんだ…けれど…さらにその向こう側に、あの時の父さんと同じ嫌な匂いがした。


 それからの母さんは毎日辛そうにしていた。父さんが居ない時に一人涙を溢すことも度々あった。母さん。何があったの?何か辛いことでもあったの?大好きな母さん。

心配になった僕は母さんに歩み寄り、側に座り込む。頭を擦りつけ、差し出された手を綺麗にしてあげた。少し変な味がしたけれど、母さんは嬉しそうに僕を抱き上げると、いつものように優しく抱き締めてくれた。

僕は心地良くなって、そのまま深く、深く、沈んで行く夢を見た。


 目を覚ますと、微睡む視界の先に嗚咽入り混じる哀歌の響く音がした。

母さんに目ヤニを取り除いてもらわないと視界が悪くてたまらない。少し寝過ぎてしまったのかもしれない。母さん?そっちへ行ってもいいかな?目ヤニを取ってよ!


母さん?何しているの?


 母さんは目を赤く腫らしながら、手櫛で髪をといていた。いや…違う⁉︎

髪の毛が母さんの手櫛に纏わりついて落ちて行く。少しずつ、少しずつ落ちて行く。ぱさり…ぱさりと落ちて行く。


母さん?一体どうしちゃったの?


 寝室から父さんが何かを嗅ぎ付けて起きて来た。父さんの嗅覚はいつでも母さんの異変を正確に嗅ぎ分ける。父さんは母さんを見るなり、母さんが僕にするようにして強く、優しく抱き締めた。

父さんも、母さんも、小さく震えている。父さんは母さんの背中をさすりながら、言葉をかけ続けた。二人からはとても悲しい匂いがしたけれど、抱き合う二人の胸の陰影に、静かに立ち昇る何かが見えた気がしたんだ。

暗い海の底から浮かび上がる気泡が、弾けた先で太陽の光を吸い込むように。

父さんと母さんの息苦しさが静かに解けて、小さくも力強い光が放射して見えた。

二人に歩み寄ると、僕に気付いた父さんが頭を撫でてくれた。


『お前分かってるんやな。心配してくれてるんやな。』


言葉じゃなくても心は分かるよ。だって僕達は家族じゃないか!


 ここでちょっとだけ僕についての話をしようと思う。僕は父さんや母さんとは時間の流れが少しばかり異なる。

産まれて一年で人間での十八歳。二年で二十四歳。それ以降は一年で四年も歳を取る。

いや。そもそも時間なんて概念自体人間が勝手に作り出したものだから、一年経てば自分が何歳になるのかなんて気にしたこともない。

先のことに一喜一憂なんてしなければ、昔を振り返って後悔はしない。流れる命の期限は常に僕を今この瞬間に繋ぎ止める。

日がな一日ゴロゴロしたり、ご飯を食べたり、トイレに行ったり、たまに粗相をしたり。そんな当たり前でいて簡素な暮らしを飽きることなく、人間の何倍も駆け足しながら生きているのが僕だ。だから僕はのんびりを急ぎ、退屈を励む。眠ることに価値を見出し、粗相で居場所を作る。

それでも愛されてしまう。そう。僕は僕のままで愛されるんだ。母さんが抱き締めてくれるように。


 けれど人間はそうはいかないんだよね?


 僕よりたっぷり時間があるはずなのに、急いで、不安になって、のんびりしていると怠け者だと言われてしまう。

ありのままでは愛されないと信じるから、周りに合わせようとして、どんどん息苦しくなる。何よりも常に昔や、先を生きようとして今を見失う。きっと進化するって不器用になるってことなのだろう。そう思う。


ねぇ?父さん。母さん。


僕達は、生きているんだよ?


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