螢のヒカリ
門山唖侖
第1話 短編小説【螢のヒカリ】
僕がこの家に引き取られて来たのは赤ん坊だった頃。それは桜の花が咲き誇る四月。
薄ピンク色の花弁が青のキャンバス一杯に風を彩るとても美しい季節。
僕は泥だらけで溝の中に佇んでいたところを優しい女の子に助けてもらった。
僕は産まれてすぐに親に捨てられていたから、本当のお母さんの顔は知らない。泥だらけで目も見えていなかったからね。
だから、捨てられていた僕を引き取り、ミルクを与えてくれた人が新しいお母さんとなった。
でも僕はお母さんとは見た目も違えば、言葉も通じない。けれど、僕を産んですぐに居なくなったお母さんよりも愛情深くて、毎日抱き締めてくれるから新しいお母さんが大好きだ。僕が何をしても沢山褒めてくれる。もふもふはないけれど、とても温かいお母さん。
本当に大好きだよ!
ちなみにお母さんには二人の女の子の子供がいる。二人は本当の子供。しほちゃんと、なるちゃん。勿論見た目は僕とは違う。
元はと言えば、なるちゃんの友達が捨てられていた僕を見つけてくれたんだ。
だから僕を連れ帰ってくれたなるちゃんは命の恩人ということになる。
なるちゃんはお母さんみたいに僕のことを沢山抱き締めてくれる女の子。
子供が出来たらきっと素敵なお母さんになるんだろうなぁって思う。
お姉さんのしほちゃんはいつでも、とても優しい匂いがする。だから僕は匂いに誘われて頭をすりすりしに行くんだけど、すぐに僕から逃げちゃうんだ。
だからしほちゃんの服をカミカミしたり、おしっこをかけてあげたんだけど、余計に怒らせちゃったみたいでなかなか振り向いてくれないんだ。
ダンボールの中に入ってみたり、御鍋の中に入ってみたり、テレビの上に乗ってみたり、お腹を見せてみたり、ベッドを占領してみたりしたけれど、結局僕を一番に見つけて抱き締めてくれるのはいつでもお母さんだ。
だから僕はお母さんが大好き。
ある日、そんなお母さんに大好きな人が出来た。その人はお母さんよりおっきくて力持ち。匂いは何だか頑固そうな匂いがする。
けれど、僕のことを可愛いとか言って撫でてくれる。でも何故だろう?
僕と会う時はいつも目に涙を浮かべたり、沢山くしゃみをするんだ。
何か悲しいことでもあったのかなぁ?
お母さんが大好きな人と一緒に帰って来る時、お母さんはとても楽しそうにしていて、幸せな香りがするんだ。
お母さんの大好きな人も、お母さんを見る時の目はすごく優しくて、見ていると僕まで幸せな気持ちになる。
そんな風にしてこの小さな世界で僕は、沢山の愛情を受けて幸せに暮らしていたんだ。
それは蝉の奏でる歌が、陽光に溶けては生命に降り注ぐ季節。別れは突然やって来た。
母さん達が何やらバタバタしていて、四角い箱に沢山物を詰め始めたんだ。
はじめは、あの物達は僕と同じで四角い箱に入るのが好きなんだとばかり思っていたんだけれど、中にはシャカシャカ鳴き声を上げる青色の袋に詰め込まれる物達までいて、それ以降青色の袋を見かけることはなかったから、箱と袋は言わば天国行きと地獄行きなんだと知った。(ちなみに僕は青色のシャカシャカをカミカミするのが大好きなんだけれど、これは内緒だよ?母さんに怒られるからね。)
そうこうしている内にあの男の人がやって来たんだ。母さんの大好きな人。
名前はよし君と言うらしい。よし君は家に入るや否や僕目掛けて一直線。頭やら背中やらをしつこく撫で回した。
たまにしか会うことがなかったし、正直男の人はあんまり得意じゃないから、僕は逃げたんだけど、その度にすぐ捕まって撫で回されるんだ。勘弁してほしいよ。もう子供じゃないんだから。
僕がよし君から逃げ回っている間も、母さん達はずっと忙しなく動き続けていた。
やっとのことで作業が終わると、母さんがこちらに向かって来た。はじめはいつものように抱き締めてくれるもんだとばかり思っていたけれど、僕は突然緑色の小さな檻に閉じ込められて、何処かへ連れて行かれた。恐怖に満たされた檻の中で、僕は必死に叫んだ。
助けてしほちゃん!助けてなるちゃん!助けてお母さん!何故こんなとこに閉じ込めるの?
僕の声は四角い鉄の箱の出す騒音のせいで虚しく掻き消されてしまった。
四角い箱は箱でも、この箱は嫌いだ。
大好きなしほちゃんとなるちゃんがどんどん離れて行く。僕達家族じゃなかったの?
僕はまた捨てられてしまったんだと思うと悲しみが堰を切ったように溢れ出した。
ガチャン。数時間後に檻から出された場所は僕の全く知らない場所。知らない匂いの場所。新しい匂いに臆病になる僕は、檻から出てもうずくまったまま動けないでいた。
そしたら、よし君が性懲りも無く撫で回しに来たから
『ウゥゥ。シャアー!』ちょっとばかし威嚇してやった。ざまぁみろ!びっくりしているぞ!僕に構わないでよ!
『螢?何怒ってんの?』
母さんだ!母さんはよし君と一緒に来ていた。やっぱり母さんは僕を見捨ててなどいなかった。けれど…しほちゃん、なるちゃんはそこには居なかった。
僕のことが嫌いになったんだ。いらなくなったんだ。
ねぇ?母さん?僕は悪い子だったのかな?
その日から僕、母さん、よし君の三人暮らしが始まった。
母さんが出掛ける時は、よし君と二人きりになった。僕はまだよし君に心を許したわけじゃない。トイレを掃除してくれようが、ご飯を用意してくれようがそう簡単には信用しない。距離を保ってじぃーっとよし君を観察する。少しでも変な動きをしたら、鋭い爪の餌食にしてやるぞ!
まぁ、たまにいつもとは違う缶詰めのご飯をくれる時だけは仕方なしに食べてやるけど、僕は物に釣られたりしないんだからな!
気安く触るんじゃないぞ!
『ウゥウゥ!シャアー!』僕を怒らせると怖いんだぞ!
だなんて…今考えても子供染みていたように感じる。あれから暫くは警戒心を解けないでいた僕だが、共に暮らして行く中で、めげずに僕に歩み寄ろうとするよし君の姿勢はいつしか、本当の父さんを思わせた。言うまでもないが僕は父の存在すら知らない。現実的に考えて、父がいたから僕がいるわけだが、以前にも言ったように僕は捨てられていたのだ。実の両親の顔は知らない。
ちなみに、今の父さんは母さん程僕のことを甘やかしはしなかった。僕が粗相をすれば本気で叱るし、機嫌の悪い時は迂闊に近寄らないようにしている。
実は父さんは母さん以上に繊細な人だ。
傍目には冷静沈着、無表情故に冷たい印象を与えるが、その実とても人間味溢れる人で以外にも涙脆かったりもする。素直というやつだ。いつだったか母さんが留守の時に、父さんが一人涙している姿を見たことがあった。
勿論僕には理由など分かるはずもない。けれども気持ちは伝わる。僕は父さんの側に座り込み頭をすりつけた。
父さんはそんな僕の頭にそっと手を乗せると、何か言葉を呟いた。僕には意味など分かるはずもない。いや…分からなくてもいい。それだけでいいと感じた。言葉だけが全てではない。伝わるんだよ…父さん。一人で抱え込んじゃ駄目だ。父さんには母さんや僕がいる。世界はそんなに狭くはないんだ。僕はここに居るから。大丈夫だよ。
【続く】
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