なんてことない日(後編)
今日の昼食にもパンは出してもらっているが、この店には何度も足を運んでいる。
美味しさを知っているのはもちろん、ビストニアの人から初めて教えてもらった店だからというのも大きいのだろう。パンの配置も覚えてしまった。
「いらっしゃいませ〜」
ドアをくぐり、いつも通りトレイとトングを手に取る。そしてレジ前に見慣れぬものを発見した。瓶詰めされたピーナッツバターだ。値札の近くに『期間限定』のポップが付いている。
「あの、これって今回が初めてですか?」
「店のオーナーの実家がピーナッツ農家で、毎年この時期になると売ってるんですよ〜。こちらを塗ったピーナッツバゲットも販売しております」
「じゃあピーナッツバゲットを一本と、ピーナッツバターをひと瓶」
ピーナッツバターならお土産にピッタリだ。
調合作業中に食べるパンに塗るシリーズにも加えられる。別におやつを用意してもらえるとはいえ、甘いものも欲しいと思っていたところだったのだ。
店員はお店に並べられたバゲットを持ってくると、真ん中にさっくりと切り込みを入れた。そこにピーナッツバターをたっぷりと塗って渡してくれる。
店を出て、瓶をバッグに入れる。
早速ピーナッツバゲットに噛り付いた。この店のバゲットはほどよく硬くて美味しいのだが、今日はそこにほんのりとした甘さのピーナッツバターが加わっている。
ピーナッツ本来の美味しさも前面に出しつつ、パンの美味しさも邪魔しない。まさにピーナッツ農家とパン屋がタッグを組んだからこそのバランスである。
外であることも忘れ、うんうんと頷きながら食べ進めていく。
するとどこからか視線を感じた。それはもうじいいいいいいいいいっと。
嫌な空気はないが、力強い視線だ。圧を感じる。
パンを口から離し、きょろきょろとあたりを見渡す。すると少し離れたところにいた、ウサギ獣人の子供と目が合った。
いや、正確には少女が見ていたのは私ではなく、私の手元のパンなので目が合うことはなかったのだが。
「えっと、これ、食べたいの?」
「あ、ごめんなさい。えっと、それ、どこで買ったのか教えてほしいなって。お姉さん、とっても美味しそうに食べてるから。でも、わたし、その情報と交換できるものがないの」
「別に大したことじゃないから気にしないで。これはすぐそこの赤い屋根のパン屋さんで買ったの」
そこの、と言いながら店を指さす。
けれど少女の表情は暗いままだ。
「ダメよ。教えてもらったらちゃんと対価を払わないと」
「うーん……」
薬屋の店主も似たようなことを言っていた。
私が想像する以上に、ビストニアでは『食べ物に関する情報』を重要視しているのかもしれない。
だが本当に大した情報でもないのだ。
小さい女の子の顔を曇らせてしまうことの方が私にとっては一大事である。
どうしたものか。少し考えて、頭に浮かんだのはあのパン屋を教えてくれた獣人の顔だった。
「あ、そうだ! なら最近食べたもので美味しかったものを一つ教えて?」
私があの店の情報を手に入れた時と同じ質問を目の前の彼女に投げかける。
未だにこの質問がどのような意味を持つのかは分からぬまま。だが私の選択は正しかったらしい。途端に少女の顔が華やいだ。
「にんじんのスープ! おばあちゃんのスープは大陸一美味しいの!」
即答である。目をキラキラさせて、両手の拳はぎゅっと握られている。
本当に好きなのだろう。家族の手料理が一番と言えることが少しだけ羨ましい。だがそれ以上に微笑ましさが勝る。自然と頬が緩む。
「そっか。私もにんじんのスープが食べたくなってきた。頼んでみようかな……」
「それがいいと思う!」
「教えてくれてありがとう」
「お姉ちゃんもありがとう」
すっかりと元気になった少女にお礼を告げ、手を振って去っていく。
パン屋の場所を教えただけなのに、なんだかとてもいいことをした気分だ。
「今日は薬売ったらすぐ帰ろうかな」
料理長に『にんじんのスープ』をリクエストしなければ。
それからバゲットも。
いや、作業中に食べる分だけ空き瓶に分けて、残りを料理長に渡してしまった方がいいだろうか。
料理長の料理はもちろん、お菓子も絶品なのだ。
ピーナッツバターを使った美味しいお菓子を作ってくれるかもしれない。想像しただけで涎が垂れそうになる。
串焼きにピーナッツバゲットまで食べたのに、もう次のことを考えるだなんて……。
我ながら食い意地が張っていると思う。
だがどれも美味しいのだから仕方ない。
食欲は簡単に抑えられるようなものではない。食べすぎなら次の日や、その次の日に回せばいい。一日で食べなくてもなくなりはしない。きっと次の日にだって作ってもらえる。自分で作ってもいい。
私に与えられた選択肢は一つではない。
焦って選ばなくてもなくならない。本当に気楽なものだ。
今日も今日とて私は羽が生えたような足取りで城下町を闊歩する。
すれ違う人達は誰も私が『ギィランガから嫁いできた聖女』だと気づかぬまま。
美味しいものの香りで満ちたこの街に溶け込むように、買い物に来た獣人達の中に紛れていくのであった。
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