第1章ー Episode 6 ー 懐古の茶会
「あれを一人で運んだのか!!おいおいすげぇなぁ兄ちゃん!!」
「あんたが運べって言ったんだろ!おかげで腕が痛くてたまんないんだけど…!」
ある日の午前、ビゼライはロダの酒屋で文句を垂れ流していた。差し出された一杯の水を横目にカウンターに手をかけ、前のめりになって言葉を連ねる。
先日、酒一箱を神殿から城まで魔法もなしに運んだビゼライの腕は、案の定痛みを放っていた。
「いやぁ、さすがに手伝いがいると思ったぜ。あの仮面の兄ちゃんとか、セランとかよ」
「神の手なんか借りない!あれくらいオレ一人だって運べたし」
「でも痛ぇんだろ?」
「くっ…」
「お前さん面白えなぁ、ったくよ」
「間抜けって言いたいのかよ」
「んなこた言ってねぇよ」
ビゼライはようやく座って水を飲んだ。勢いに任せてぐいぐいと飲み干す。
「神様ってもんに、なんか恨みでもあんのかい」
「恨みっていうか…嫌いなんだよ。どれだけ祈ったって崇めたって、救ってくれやしないから」
「へぇ…。はは、なるほどなぁ」
「何がおかし…。…?」
神が嫌いだと言うビゼライを眺めるロダの瞳は、笑っているように見えた。嘲笑か、侮蔑か、はたまた愛しさか懐古か。そんな何かしらを秘めた瞳であるように思う。
「…なに?」
「ん、なにって?」
「…いや、別に」
何か言いたげな目だ、とは言う気になれなかった。この男からは、どこかビゼライを黙らせるようなオーラが放たれているのかもしれない。
「……昔話なんだがな」
ロダはビゼライの空になったグラスを手に取り、また水を注ぎながら独り言のように呟いた。
「お前さんみてぇに神を嫌う奴が周りにいたわけよ。…そいつを思い出して、ちと懐かしくなっちまった」
「え?神なのに?」
「まぁ、そうだな」
「…ふーん。…変なやつもいるんだな。神のくせに神を崇める奴もいるし」
「ははは!そりゃあどっかの赤い兄ちゃんがくしゃみするぜ」
今日もこの後来るかもな、なんて笑うロダを見つめ、ビゼライは『神でありながら神を嫌う』その人物についてもっと知りたくなった。自分を理解してくれる相手かもしれないという淡い期待と共に、ただ純粋に、なぜ嫌うのかの理由が気になるからである。
「そいつの話、もっと聞かせてくれよ」
「お、どうした。気になるのか」
「そりゃあ、まぁ」
「へぇー?そうかそうか。しかし困ったな。こっから先はこの俺、ロダ様の知られざる武勇伝も混じってくるからな!…高く付くぜ?」
ロダは途端に得意顔になり、目を輝かせた。
台に足を乗せて腕を天に掲げ、英雄のようなポーズをとった。その姿はどこかの狩人の星座さながらである。
「え、な、なんだよ、武勇伝って」
「ははは!若かりしロダ様の天下統一物語よ。かつて勇ましい国王として君臨し、神王さんさえも凌駕して国を感動と喝采の渦で取り巻き、男も女も子供も、誰もがロダ様を愛して貢物も大量でだな…」
「嘘くさ」
「ちょ、おいおい!一蹴かよ、ひでぇな。…ったく…。生きる道が違ったら、俺だってそうなってたかもしれねぇだろ?理想くらい語らせてくれよ」
「理想なのかよ」
「あ、やべ」
ははは!と誤魔化すように大きく笑って、ロダはビゼライの頭をがしがしと撫で回した。
結局、神を嫌う人物のことは分からずじまいであったが、またいつか聞けばいい、とビゼライは無意識に「いつか」の話を考えていた。
「こんにちはぁ!」
カラン、とベルを鳴らして意気揚々と店内に足を踏み入れて来た影には、赤い髪が揺れた。しかし、その晴れた顔はビゼライを見た途端に歪んでいく。
「…は?なんでここにお前がいるわけ」
「…帰るべきだったよ、ほんと」
「じゃあ今すぐ帰って。ボクの憩いの場の空気を汚さないでよね」
「会ってすぐ喧嘩かぁ、若いねぇ!もう仲良いだろ、お前さんら」
「仲良いわけないだろ!!」「仲良いわけないじゃないですか!!」
「息ぴったりなんだがなぁ」
ロダは面白そうに笑い、アノンの席に水を差し出した。
そのグラスとビゼライのグラスとの間には、二席分の距離がある。
「アノンはいつものかい」
「はい」
「常連の言い方…」
「そうだけど。何?悪いわけ?」
「喧嘩売る言い方しかできないのかよあんたは…」
カウンターに肘を乗せ両手で頬杖をつくアノンは、グラスの水に視線を移して不貞腐れた。ロダは鼻歌を歌いながら酒を用意している。
店内には明るい曲調の音楽が流れ、他の客たちの賑やかな声が響く。
ビゼライは自然と引き攣っていた頬が緩んだ。なんだかとても、穏やかな時間のように感じる。ビゼライは一口、水を飲んだ。
「お前、お酒頼んでないの。ここ酒屋のはずだけど」
「いいだろ、別に」
「水飲んでるだけって、ただの迷惑客じゃん」
あまりの正論に、さすがのビゼライも言い返せなかった。ビゼライが酒屋の売上に貢献しないまま数十分居座っているのは事実である。
「ロダさん!こんな奴、出禁にしちゃいましょうよ!出禁!」
「ちょ…!」
「いいんだよ。今回は特別さ。俺の昔話も聞かせちまったからな」
「えー!?何それ!!お前だけずるい!ロダさん普段聞いても教えてくれないのに!」
聞かせた、と言うほど聞いてもいない気がするし、なんならはぐらかされたような気さえするが、どうやらロダの口から話されること自体珍しいことのようである。
「普段話さないのか。あんたの武勇伝とやらは」
「話さねぇよ。いろんな奴に話しちまったら、モテすぎて大変なことになっちまうだろうが。開店直後からアツい気持ちを持ったお嬢さん方が押しかけてきたらどうすんだよ」
「はぁ…なんだそれ…」
「ちょっとぉ!ボクも聞きたいんですけど!!!」
もうここまで来ると、その武勇伝とやらがどれほどすごいものなのか、逆に気になってくるというものである。真偽は定かではないが、今日得た微量の情報は忘れずにいよう、とビゼライは思った。
「…ところで、お前何こんなところで水飲んでるわけ?雄神様たちからお声がかかってるんじゃなかったの」
「へぇ!雄神さんたちから。すげぇじゃねぇか」
「いや…」
茶会の招待状。
今朝、シファンから渡された一通の手紙である。
なんでも、雄神三人が揃って改めて、ビゼライの歓迎をしたいらしい。ギベルクやリスティーはさておき、あの鋭い瞳でビゼライを見るバルザが歓迎をしているとはとても思えなかったが、ビゼライは嫌々ながらも承諾したのだ。きっとその旨はシファンから城の彼らへ伝えられているだろう。
「楽しんで来いよ。城なんて場所、一般神からしたら憧れの場所なんだぜ」
「ロダさんなら入っても良さそうですけどね。雄神様たちもここのお酒飲んでるんですし」
「何言ってんだ。雄神さん直々に城になんて呼ばれたら、足が震えて転んじまう」
談笑する二人をよそに、ビゼライは重い腰を上げて席を立つ。茶会といっても、なんの話をすればいいのか全く見当がつかない。ビゼライが口を開いても、セレタニアの戦への愚痴か神への鬱憤しか出てこないのである。何が楽しいというのか。
「行ってこいよ。今しか聞けない極秘情報とかあるかもしれないしな!」
「お前ばっかりほんとにムカつく。せめて礼儀はちゃんとしろよな」
「はいはい…」
ビゼライは酒屋を出て城に向かった。賑わう街は相変わらず祭りのような騒ぎで、雲一つない晴天の下、目眩がしそうであった。
「門、開かないんだけど」
城の前に到着したビゼライは、またも城門に苦しめられていた。セランフォードやバルザの開け方を見るに、この門は魔法を使わなければ開かない。人間のビゼライには開けられないのである。
「申し訳ありませんビゼライ殿!」
城から走って出て来たのはシェロであった。光に照らされた空色の髪がキラキラと輝いている。
シェロは魔法を繰り出し、歯車に水の龍を巻きつかせて門を開いた。今は対侵食ではないからか、龍が戦闘時よりも小さく、可愛らしい姿である。
「どうぞ、お入りください。皆様がお待ちです」
「どーも」
「よく来てくれたのぉビゼライ!本日はそなたの歓迎パーティーじゃ!!」
広間に入るや否や、ビゼライの目には浮き足立ったギベルクの姿が映った。
その後ろには料理を配膳するリスティーが見える。
「すごい品数だな…」
まさに豪華絢爛な食卓である。早々に食べ切れる量ではない。
「この量、コックたちも大変だろ…」
「はは、違うよ太陽くん。この城にコックはいないよー」
「え…?」
リスティーの口から放たれた一言に、ビゼライは考えを巡らせる。コックがいないというのにこの品数である。となれば、街で買ってきたか、誰かが作っているか、魔法で作り出しているかしかあり得ない。
「…じゃあこの料理、どうしたんだよ」
「あっちでバルが作ってるー」
「え」
リスティーが指を指した方向を見ると、エプロンをつけたバルザが立っていた。
「作ってる…?あ、あんたが…?」
「なんだ。似合わないとでも言いたげだな」
「いや…」
「バルは料理上手なんじゃよ〜!!どれも絶品でのぉ、最高なんじゃ!」
「…魔法で作ってんの?」
「そんなわけがあるか。魔法で作れば中身のない味になる。…早く席につけ。冷めるぞ」
ビゼライはバルザに背を押され、席に座った。シェロが美しく並べられたグラスに酒を注いでいく。
「では改めて…ビゼライよ、神の国へようこそ〜!!」
「ど、どーも…」
キン、とグラスがぶつかる音がする。ビゼライは、バルザ、ギベルク、リスティー、シェロの四人と乾杯をした。
各々、料理に手をつけ始める。パン、肉、魚、野菜、スープ、目の前にはどんな料理も揃っていた。腹の虫をそそる香りに、ビゼライは息を飲む。
「なんでも好きなの食べなね」
「こちら、取り分けのお皿です」
「好きなだけ食べるといい。残しても仕方がない」
「そなたが運んで来てくれた酒もあるぞ!」
「歓迎パーティーって言うけど…オレなんかの歓迎、本気でしてんの」
盛り上がる彼らを前に、ビゼライは疑問を口にした。ビゼライの中にはまだ、先日の気まずさが燻っていたからである。バルザに対しては特に、またあの瞳で何か言われるのではないか、と思った。
「何を言う。この国を救うそなたのことを、歓迎しないわけはなかろう」
「そうそう」
「でも、オレは」
「ビゼライ殿は突然この国に来たのです。受け入れられないことがあるのは、当然のことですよ」
「…お前のように、神を信じぬ者ならば特にな」
「そなたはこの国にいるだけで、きっと多くの者の救いになる」
「覚醒までの道は長いだろうけど、太陽くんは太陽くんなりに、この国を楽しんでよ」
「そんな、悠長な…」
オレは早くセレタニアに帰りたいんだ。神なんて信じられないんだ。
そんなことを言いそうになる口は、彼らの優しい微笑みの前に塞がれた。
「…いや。…まぁ、どーも」
この空気に飲まれる。ビゼライはそんな気がして、顔を逸らした。
どれほどの時をここで過ごそうと、セレタニアのシビュラとしての、神を信じず神に背く者としての、自分は揺るがない。揺るがせられない。今までそうやって生きて来たのだから。
神々を前に気を許しそうになる自分が、ビゼライは怖かった。
「ギベルク、酒ばかり飲むな。私の料理を食べろ」
「もちろんじゃ!つまみと共に飲んでおる!」
「そうではない」
「太陽くん、シェロ。何食べたい?おれが取ってあげる」
「わ、私もよろしいのですか?私は主賓では…」
「主賓とか関係ないのー」
「殿下…。ありがとうございます。それではお言葉に甘えて…そこの、魚が食べたいです」
「はいよー。太陽くんは?」
「オレは…じゃあ、そこの肉で」
思い返して見れば、こんな風に賑やかに誰かと食事をするのはいつぶりだろうか。ここに来た当初の食事は気持ちも乗らず、ただ話を聞きながらスープ一杯を飲んだだけであったから、本格的な食事は初めてである。セレタニアでさえ、こんな大勢での和気藹々とした食事は、ビゼライがまだ幼かった日に行われた祭りが最後であった。
まだ戦争の兆しもなかったとき、神を讃える祭りと称して、民たちを教会に招いて食事や余興を楽しんだ日があった。当時はまだビゼライの父親がシビュラの任を背負い、ビゼライ自身は後継ぎとして大層可愛がられていた。神を慕い、自分たちを救ってくれる存在なのだと、まだビゼライも純粋に信じていた時代である。
それももう、どれほど昔の話か。
「ビゼライよ。せっかくの機会じゃ。何か聞きたいことや話したいことはないか」
「おれたちの話でもいーよ。ギベが教えてくれるから。たぶん」
「そなたでも良いではないか…」
「おれには無理ー」
「お前は話すのが面倒臭いだけだろう」
「そんなことないってぇ」
「聞きたいことって言われても…」
聞きたいことも話したいことも特には思いつかない。しかし、無言の食事というのもなんだか虚しいものである。どうしたものかとビゼライが頭を悩ませていると、酒のつまみを食べていたギベルクが口を開いた。
「突然聞かれても困るか。すまんな。…では、我から一つ良いか」
「いいけど。何」
「そのペンダント。いつも肌身離さずつけておるが、何か意味があるものなのか?」
「ああ、これは…」
ビゼライの首には、雫型をした青緑のペンダントがかけられている。
このペンダントは、いつもビゼライが着ている緋色の上着と共に、代々シビュラの装飾品として受け継がれているものであった。
「手放したら駄目だって、いつも父さんに言われてきたんだ。なんの意味があんのかは分かんないけど、大事なものなんだって」
「ふほいへふ。……ん、美しいと思っておりましたが、それほどまでに大切なものだったとは」
「何か重要な意味があるのであろうな。では今後はペンダントも含め、ビゼライを守るとしようかの」
「いつ侵食が起きるかも分からない。お前自身も注意しておけ」
「ありがとう、ビゼライ。少し気になったものでな」
「いや、いいよ。これくらいなら別に」
ビゼライはペンダントについて話す父親を思い出して少し懐かしい気分になった。
今となってはもう昔の話であるが、ビゼライにも、親がいた時代があったのである。
「…あのさ」
「なんだ」
ティーカップで紅茶を飲むバルザが、ビゼライの細々とした声を聞き取った。
料理を作った本人は、どうやら未だ茶しか飲んでいないようである。
「あのさ、あんたらっていくつなの。年齢」
「ほう。面白い質問じゃの」
「えー…おれたち生まれたのどれくらい前?もう分かんないや」
「わ、私も、少し気になります」
「………。」
ギベルクとリスティーは相談しながら難しい顔をし、シェロはうずうずとしながら魚を頬張り、バルザは黙した。
「うーむ…数千年は昔じゃからのぉ…全く覚えとらんな…」
「そうだねー…おれたちよりも年上なら世界の始まりとかから生きてるんだろうけど」
「そうじゃの…。我らが子供の時は既に大人がおったからな…」
「…あんたも?」
黙して話さないバルザに、ビゼライは問いかけた。バルザも二人と同じ雄神であるのだから、きっと同じ回答であろう。
「……知らん」
「…え?」
「バルザは我ら雄神では末っ子じゃからのぉ」
「そう考えると可愛いよねー」
「やめろ」
「え、す、末…?」
「バルはどんくらいだろー?…五千とかかな。分かんないけど」
ギベルクやリスティーよりも遥かに気迫のあるこの男が、まさかの末っ子である事実。虎を連れているようなこの男が、三人の中で一番年下である事実。とても信じられたものではない。しかし一番年下が五千歳ともなれば、もはや年上年下などは関係ないようにも思う。
「太古から生きてらっしゃるなんて…尊敬いたします」
「…そういうあんたは?どれくらいなんだよ」
「私ですか?私は…そうですね。千五百年ほど前には既に殿下の従者であったように思います。なので…二千と少しでしょうか。申し訳ありません、曖昧なもので」
「それでも二千かよ…」
「すまんのビゼライ。そなたの思う回答であったか」
「あぁ、まぁ」
予想よりも遥かに桁違いの年齢に慄いたビゼライは開いた口が塞がらない。彼らが『神』であるということを明確に突きつけられたような気がする。それほど長く生きるのは、どんな感覚なのだろう。
「雄神に選抜された頃からならば覚えておるんじゃがの…」
「おれもー」
「雄神に?」
「うむ。あの頃はまだ我もリスもなんだか幼かったのぉ」
「ねー。幼いって言っても子供ではなかったけど」
「若さゆえの危なっかしさはあったように思うぞ」
「それはある」
「懐かしいのぉ。我もそなたも、あやつに引っ張られながら慣れない城暮らしで頑張っておったわ」
「あやつって誰だよ?」
ギベルクが話し、リスティーがうんうんと頷く会話の中にバルザは出てこない。そして、「あやつ」と呼ばれた人物が一人、見え隠れする。
「我らはバルが来る前は、別の男と三人で雄神だったのじゃ」
「…え?そうなのか?」
「そーそー。で、そこでバルが雄神になって、四人で雄神やってたってわけ」
「あやつは我やリスよりも年上での。若き日の我らの面倒を見てくれたのじゃ」
「それに、まだ子供だったバルを育てたのもあの人だしね」
「バルが剣を教わったのも、あやつにだったな」
「あの男の話はするな。…不愉快だ」
眉を顰め、顔を歪めたバルザは席を立ち、厨房へ行ってしまった。
苦しそうな顔であった。
「…どうしんだよ、あれ」
「ふむ…。バルは、あやつに懐いていた。だからこそ、あんな形での別れが許せなかったんじゃよ」
「別れ?」
「…お月様になっちゃったの」
「月にって…。どういうことだよ」
「我ら神は最期、体が光の粒子と化す。そして月に吸い込まれる。…月の一部になるんじゃ」
「え…。じゃあ、今の月は」
「月光は、過去に死んでいった神様たちの光だよ」
「…ある日、突然だったんじゃ。いつも通り、国を守るために四人で戦っておったんじゃが…。戦いが終わった時には、あやつの姿はもう…」
「体がなくなるって、本当に嫌な死に方だって思ったよ。…分かんないんだもん。何もかも」
「…そう、なのか…」
隣で共に話を聞くシェロも、食べる手を止めて神妙な顔をしている。
ビゼライは今まで、神の最期など考えたことがなかった。ただ月は神が司っている、そう聞いていただけである。しかし、司る、の意味が、月そのものになる、だとは誰が思っただろうか。最後の見送りも、弔いもできないで死んでいく神を、ビゼライは少し不憫に思った。
「しかしそれももう、二千年は前の話よ」
「まだシェロもセランもアノンちゃんもいなくて、城はおれたちだけでさー。すごい静かだったよね」
「そうじゃのぉ…。まだシファンも神殿にはおらんかったし、賑やかさに欠けておった」
「今はたくさんいるから、賑やかで毎日楽しいよね」
リスティーは自分の向かいに座るビゼライとシェロを眺め、いっぱい食べな、と微笑んだ。
「どけろ。置けない」
「おお、また美味そうなものが…!」
厨房から戻って来たバルザが手にしていたのはデザートであった。
甘くて美味しそうなタルトである。
ギベルクが食べ終わった皿をどかし、机にタルトを置けるだけの空きを作る。
「えー美味しそー!さっすがバル、天才的〜」
「これくらいどうということはない」
「切り分けましょうか」
そう、シェロが名乗り出た時であった。
「ピー!」
どこから入り込んできたのか、真っ白な鳥が一羽、ギベルクの元に飛んで来た。
足に紙が巻き付けられているその鳥を見ると、皆突如として顔色を変える。
「え、何、どうしたんだよ」
「シファンから侵食発生の知らせじゃ」
ギベルクは素早い手つきで紙を広げ、小さな文字を読んだ。
リスティーやバルザも覗き込んでいる。
「…東の街で侵食が発生していると」
「え?あそこら辺って、小さな神殿がたくさんあったよね。今までは森とか崖の上とかだったのに…急に街って…」
「偶然じゃろう。侵食は生き物ではないからの。自分で発生場所を選んでおるわけではない」
「そりゃそうだけどさー…」
「とにかく急を要する。向かうぞ」
「あぁ」
「オレも行く」
既に広間から出かかっているギベルクとバルザの背を見ながら、ビゼライは自ら名乗りをあげる。
「おれは…どうしよう…」
「殿下は…」
「あんたはここに残ってろよ」
「……。あ、うん。やっぱ邪魔だよね、おれ」
戦えない故に現場に向かうことを迷うリスティーに、ビゼライは言い放った。
邪魔だからなどではない。彼には彼にしかできない重要な役目があることを、ビゼライは知っていたからである。
「もし誰かが怪我したら、治せるのはあんたしかいないんだろ」
「え…」
「なら、あんたはここで皆の帰りを待った方がいい。治すのは、一番大事な仕事だろ」
「太陽くん…」
「殿下、まさか治癒魔法を…?」
「あー…うん。なんかカッコ悪いから、内緒にしてたんだけど。…でも太陽くんのおかげで、ちょっと自信持てたかも。ありがと」
「ふん、別に。あの時治してもらったの、助かったから」
ビゼライはリスティーに背を向け、シェロと共に広間を出ようとした。
「待ってシェロ。…今日もちゃんと、おれのとこに帰ってきてね。いってらっしゃい」
「…!行ってきます、殿下。必ず、貴方様の元へ帰ってまいります」
そうしてリスティーを残し、ビゼライとシェロは城を出た。
東に向かう道中も、シェロはずっと嬉しそうにしていた。話を聞くと、どうやらリスティーとシェロは、戦いでお互いが離れる時、毎回必ず『行ってらっしゃい』『行ってきます』の挨拶をするらしい。今回も無事に自分の元に帰って来ること、必ず貴方の元に帰ること、それらを誓う挨拶なのだ、と。その挨拶が、戦いの最中も自分を奮い立たせてくれる、と、シェロは教えてくれた。
「素敵だな。そういうの」
ビゼライはお互いを思い合う二人の関係性を美しく思った。
二人が侵食現場に到着する頃には、ギベルクやバルザの他に、アノンも駆けつけていた。炎を巧みに操り、侵食を消していっている。
「シェロ遅い〜!…って、なんでお前もいるわけ」
「いちゃ駄目かよ」
「守られるだけのお前が何しに来たの。戦えないなら帰って。邪魔」
「これアノン。そうキツイことを言うでない。…ほれビゼライ、我の魔法陣の後ろに入れ」
「でも…!現にほら、今だってギベルク様のお手を煩わせているじゃないですか!」
「これくらい問題ない。我は雄神じゃぞ」
「アノン。口を動かしてないで戦え。お前は強いのだろう」
「バ、バルザ様…!!ボクが…強い…!!…はい!!このアノンにお任せを!!」
バルザの言葉に歓喜したアノンの繰り出す炎は勢いを増し、バルザやシェロの繰り出す虎や水の龍に負けない速さで侵食の漆黒を退け、ヘドロの怪物を消した。
「すごい、アノン。一瞬で侵食が消えた」
「シェロもすごかったよ。ま、ボクの方が強かったけど!!」
「あやつもなかなかに扱いやすくて可愛いものよ」
「あいつのどこが可愛いんだよ」
「さーて、これで片付いたかな?それじゃあ…」
「アノン!下がれ!!」
気を抜いたアノンの足元で蠢いた何かを、バルザの剣が襲う。
しかし、その『何か』は剣を避け、逃げるように這って地面に消えていった。
「避けた…?」
「え…生き物でも、ないのに…」
「どういうことだ…」
「…知能があるのか…?…王に報告せねばならんな」
ギベルクの一言に、ビゼライは城でのリスティーの発言を思い出す。
『今までは森とか崖の上とかだったのに…急に街って…』
前回の戦いでビゼライが見たのは、確かに、知能を持たず、攻撃を避けるなんていう能のない化け物たちばかりであった。それ故に、彼らの攻撃が当たり、次々に消えていったのである。しかし、知能を持つとなれば、発生場所を選ばれるなんていう事態にもなりかねない。
「侵食って、ただの怨念なんだろ?知能なんてどうやって…」
「分からぬ。…とにかく、今は引き返すぞ」
ビゼライたちはなんだか晴れない気持ちのまま城へ戻った。
城に戻ったビゼライたちは、リスティーにこのことを報告した。
軍師としての仕事が増えるのは素直に喜べないな、と彼はため息をこぼす。
「おかえり、シェロ」
「ただいま戻りました、殿下」
「…なんか、先行きが見えないね」
「そうですね。今後はより一層警戒が必要かと」
リスティーはシェロの乱れた髪を櫛で梳かしながら不安そうな顔をした。
軍師としての仕事が増えれば役には立てるが、戦略などが必要なその状況は良いとは言えない。リスティーの胸には、そんな葛藤が渦巻いているのだろう。
「式典とやらも催すのだろう。…何事もなければ良いが」
「うむ…今不安になっても仕方があるまい。ささ、バルのタルトを食べようぞ!」
「…そうだね。おれ、冷やしといてあげたんだから」
「ありがとうございます、殿下」
「アノンちゃんは?一緒だったんでしょ。城に戻ってこないんだ」
「あいつ、また酒屋にでも行ったんじゃないの。…はぁ、どっちが迷惑客だか」
「へー、酒屋。アノンちゃんが入り浸るなんて相当だね」
シェロが丁寧に切り分けたタルトを受け取り、皆で食べる。
その途端、この場にいる全員の頬が緩んだ。
「これ…うま…」
「んん〜!!さっすがバルじゃあ〜!!」
「おいし〜!!」
「すごく美味しいです…!!」
「うまく焼けた。良い加減だったな」
あたりには甘い香りが漂い、全員の手は絶えず口と皿を行き来している。
談笑しながら戦いの後の癒しを享受している時、ビゼライはふと思った。
「…そういえば…今日セラン見ないけど、どこ行ってんだろ」
「セランか。確かに…城でも見てないのぉ」
「なんだよあいつ。オレの護衛じゃなかったのかよ…」
「ふぉっふぉっふぉっ。あやつが気に入りか」
「は?違うけど」
セランフォードはいつも何かとビゼライに構ってきた存在である。この国に連れて来られた時も、神々に挨拶して周った時も、一人帰ろうとしたあの時も、隣にいたのは彼であったから、今日一日見ないことを不思議に思った。
「神殿にいるのではないでしょうか。セランはシファン殿を慕っていますし」
「あぁ、神殿か」
セランフォードは確か、シファンのことを先生と呼んでいた。
何か話をしているのかもしれない。
「帰る時も、まだいるかな」
そう考えながら、ビゼライはタルトの最後の一口を頬張った。
「…はい。ええ、そうです。どうやら、バルザ様の剣を避けたとか。知能を持つ侵食の可能性を考える必要があるかと。…はい、先日の影の件は、私も存じ上げております。…はい、警戒と用意を進めます」
神殿の奥、通路を進んだ先で、シファンはギベルクから伝えられた件を神王に報告していた。今までよりも強めた警戒と、戦いの用意、そして、犠牲と、代償の覚悟。それらが必要になってきていると、シファンは心を痛めた。
「…お待たせしました。さて、お話の続きを。…セラン」
「…はい。…すみません、こんなこと。先生には、もうほとんどを教えてもらったはずなのに」
「どうか気にしないで。今でも私を頼ってくださって嬉しいのですから」
「先生…」
「聞かせてください。貴方を、暗い顔にさせてしまうものがなんなのか」
「………。人に、寄り添うって、なんですか?」
「…え?」
「分からないんです。どうしたら良いのか」
「セランにはもうできているように思いますが…。貴方はいつも優しく、他人の手を取ることができるでしょう」
「違う…違うんです。駄目なんです、俺の、それじゃ」
「セラン…?」
「先生、教えてください。…俺はもう、あの頃みたいにはなりたくないんです」
夕暮れ時の薄暗い神殿に、苦しそうに霞んだセランフォードの声が響いた。
Prayer Phantasm ー虧月の審判ー 緋川ミカゲ @akagawamikage
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