第1章ー Episode 5 ー 厭世と黒い影
「なんでここにあんたがいるんだよ…!」
「ボクは神王様とお話ししに来ただけ」
「話すって…扉越しで一方的に話すだけだろ」
「それで十分だし!!」
「ああそうかよ」
「にしても、今のお前の滑稽な顔!マヌケで最高だったよ!重いならボクが持ってあげようか?あはは!」
「誰があんたなんかに頼るか…。ほんとにあんた最悪だ」
教会での態度といい酒屋での態度といい、アノンは完全にビゼライを下に見ている。ギラギラと揺れる瞳を細めて楽しそうに笑うアノンに、ビゼライは心底腹が立った。
「教会に引きこもってたから非力なんでしょ?頼ってもいいんだよ。お前が、ボクに、頭を垂れて懇願するなら!」
「ふざけんな!」
「あはは!今のお前、犬みたいだよ」
「はぁ…!?犬って…。…あんた、普段から誰にでもこうなのかよ」
「何言ってんの。お前だけに決まってる」
アノンは己の左右の髪の三つ編みをいじりながら答える。まぁセランもムカつくけど、と笑った瞳には強気な光が宿っていた。
「…なんでオレに当たるんだよ」
「だって、お前見てるとイライラするんだもん。笑いものにしなきゃやってらんない」
「イライラしてんのはあんたの勝手だろうが。オレは何も…」
「ううん。お前が悪い。どう考えてもお前が悪い」
「なんでだよ…!?」
「人間ごときが神に選ばれたのに喜びもしないし。神王様と同じ神殿に住めるのに感謝もしないし。なんなの、お前」
「喜ぶも何もオレは嬉しくないからだけど」
「すっごい光栄なことなのに!!!馬鹿!!!」
神王含む神たちを崇拝しているアノンである。きっと、今のビゼライの境遇はアノンにとってはこの上ない幸せなのかもしれない。しかし、ビゼライにそんな思いなどはなからありはしない。むしろ譲ってやったって構わないほどであった。
「まぁ…オレ以外の人間にとっては光栄なことなんじゃないの。オレは嬉しくもないけどな」
「お前、ほんとに腹立つ。…人の気も知らないでさ」
「それはオレが言いたい…。……なぁ、どうしてそんなに神、神、神って言うんだよ。そんなに自分を崇めてほしいわけ」
「違う!問題はボクのことじゃない。……神は、神っていう存在は、絶対だ。神は全ての始まり、世界のすべて。神は崇めるものでしょ」
「なんだそれ…」
「お前、あの国で育ってきたんなら神は崇めるものだって分かってるんじゃないの」
「……昔はな」
今こそ神不信なビゼライであるが、昔は本当に神を信じていた。崇めていたのだ。
この男の言う通り、あの国で育ったから。
「…あのさぁ、ボクは…」
「アノーン!!どこ行ったー!!」
「うげっ」
神殿の外から聞こえてきたのはセランフォードの声であった。
彼の尋ね人は今まさに逃げようとしている。お目付役も気苦労が耐えなさそうだ。
「せっかく神王様とお話しできると思ったのに、お前と喋ってたせいで時間取られた。最悪」
「そっちから来たくせにオレのせいかよ」
「アノン!!いるんだろ!」
呼吸を乱しながらビゼライの部屋に駆け込んできたセランフォードをよそに、アノンは窓から飛び出て行った。
覗いてみれば、屋根をつたって軽やかに走り去って行く赤髪が見える。
「あー!!くっそ…また逃した…!!」
セランフォードは両手で髪を掴んで天を仰ぎ、眉を下げて嘆いた。
「…悪いなビゼライ、慌ただしくして。休んでたんだろ」
「…休めるわけないだろ」
「そ、そうか…」
参ったな、と頭を悩ませるセランフォードは、ビゼライの足元に置かれた酒の箱に気がついた。一瞬きょとんと顔を硬直させる彼の表情には疑問が浮かんでいる。
「それ、どうしたんだ?なんでここに酒が…」
「…あいつが置いてった。…城に届けろって」
「酒屋の旦那が?あー……そうか、なるほどな。で、いつ行くんだ?」
「…さぁ」
「手伝ってやるよ。それ、重いだろ」
「いい。いらない」
「でも」
「これくらい一人で持てる」
「そうか?じゃあせめて階段は支え…」
「いい。もう登れるから」
ビゼライの中には、まだ先ほどの鬱屈が絶えず渦巻いていた。
こうして何事もなかったかのように話しかけてくる彼に、鬱陶しさすら感じている。
どうしてここまでころりと切り替えられるのだろう。
「……。ビゼライ」
「何」
「あんたの言ったことは、最もだったよ。人間は神に縋るものなんだもんな」
「は?なんだよ、それ。全員が全員そうなわけないだろ」
「…え、あ、そう、だよな。悪い、アノンからそう聞いていたから、つい。…失言だった」
「思ってたけど、あんたのそういうの、なんなわけ。慰めとか同情とかいらないから。どうせ神になんてオレたちのことは分からないんだ」
「…俺は…」
セランフォードが、小さく、何かを呟いたのが聞こえた。
人間も神も云々…と言っていたように聞こえたが、はっきりとは分からなかった。
「切り替え早くて、羨ましい限りだよ」
「ビゼライ…。…いや、悪い、もう口を閉じるよ。…じゃ、俺はもう行くな。…アノンを追いかけないと」
そう言って、セランフォードは出て行った。
一体何が言いたかったのか。もしかしたら言いたいことなんてなくて、とりあえず同情の言葉を、慰めの言葉を、と考えていたのかもしれない。彼の『優しさ』というものの裏に、なんだかそういう類の醜い思いを考えてしまい、ビゼライの胸には不快感が募った。
それを取り払うように頭を振り、ビゼライは改めて足元の酒に目を向ける。
正直言って、今は城の神々とは会いたくない。
自分の思いを叫ぶだけ叫んで、一人歩いてきてしまったのだ。何を言えばいいと言うのだろう。
神には神なりの意見があるのだろうが、自分の発言が間違いだとは思わない。取り下げも謝罪もする気はない。
ただ、流れる空気だけが濁っている。
「明日にするか…」
酒なんて一日二日置いておいても問題ないだろう、と考えて、ビゼライはもうこのまま一日を終えようとした。しかし、
「ビゼライ様」
背後に響いた声が、それを許してくれそうにはなかった。
「シファン…」
「お酒、城に届けないのですか?先程酒屋のオーナーが来ていたでしょう」
「…そのうち行くからいい」
「おや…早くお届けしませんと、ギベルク様は追加で購入してしまうかもしれませんよ。そうなったらもう一箱、貴方様に届くかもしれません」
ふふ、と笑いながら、シファンは箱に目を向ける。
朝の様子を見るに、ギベルクはかなりの酒呑みのようであった。今頃またリスティーに泣きついているかもしれない。彼が追加で購入する未来も見えなくはなかった。
「迷惑すぎる」
「ご一緒いたしましょうか?」
「いらない」
ビゼライは重い腰を上げて箱を抱えた。かなりの重量があるそれに、ビゼライはよろめく。
「これくらい…一人で持てる」
「ふふ、そうですか。さすが太陽のシビュラ様でございますね」
少し馬鹿にされている気もしたが、ビゼライは気にせずよろよろと神殿を出る。ただでさえ大きな神殿であるから、部屋から外に出るだけでも重労働であった。これからまだ浮遊する階段を登り、城門を抜け、広間まで運ばなければならない。
ビゼライは明日の己の腰と腕が不安になった。
「なんでオレがこんなことを…」
なぜ自分が神のためにここまでしなければならないのか。ビゼライは少し、いやかなり、あの酒屋のオーナーに腹が立った。
ようやく階段までたどり着き、一度地に箱をおろして息を整える。やはり腰と腕に相当な負荷がかかっているようで、伸ばすのも反らすのも痛かった。
「帰りたい…」
昨日ここに連れてこられ、あの赤髪だの酒屋だのに絡まれ、戦闘に直面し、今は重労働をしている。自分は一体なんのためにここに来たのか。これも覚醒への道だというのか。冗談ではない。太陽神だとかなんだとか言って、覚醒なんて曖昧なものを課せられ、帰せないと脅されている。そして結局なぜ太陽の神が月を救うのかも分からない。
「…神が、そんなに偉いのかよ」
ビゼライはそんな戯言をほざきながら、箱を上げて、登って、箱を上げて、登ってを繰り返し、階段を一段一段進んで行った。
宙に浮く階段は、重い荷物を乗せても微動だにせず、ビゼライはそれに少し感心し、謎の安堵を覚える。
「いたっ」
箱を持ち上げた瞬間、指に痛みが走った。見れば赤い線が刻まれている。縁で切ってしまったようである。
「最悪…」
手当てなどできる状況ではない。親指の腹で傷口をこすり、ビゼライはまた一歩一歩進んだ。
「…っ…はぁ…着いた…」
かなりの時間をかけて、ようやく城の門前にたどり着いた。腕と足が震えている。情けない姿である。
「って…これどうすれば…」
当然であるが、城の門は閉じている。ビゼライは門の開け方を知らない。どうやって中に入れと言うのか。門に触れ、押し込んだり引いたり、左右に引っ張ったりしてみたが、当然門は開かない。見当違いなことをしているビゼライは端から見れば滑稽であった。ビゼライは急に恥ずかしくなり、この姿を誰かに見られてはいないものかと辺りを見回す。
「愚か者よ」
「うわっ」
振り返れば、そこに立っていたのはバルザであった。虎の姿がないのを見るに、鍛錬中ではないようである。
「あんたは…雄神の」
「…お前、ここで何をしている。それはギベルクの酒だろう」
「届けるよう命令されたんだよ」
命令などされたわけではいないが、腹が立っていたビゼライは強く誇張して言った。
「…それは誠に命令か」
「…な、なんだよ」
「…お前は愚かだ。神を憎むのなら相応の覚悟をしろ。必ず、身を滅ぼすことになる」
「覚悟って…。憎むやつが身を滅ぼすほど、神は偉いのかよ」
「…神は力を持っている。貴様も知っているはずだが」
「意味が分からない。あんたとは会話が噛み合わないな」
「……。」
眉をひそめたバルザは、何も言わずに視線をそらした。ビゼライから離れ、歩いて行ったかと思えば、彼は城門の正面、丸く縁取られた台座の上に立ち、腰に携えた剣を抜いて地に突き刺した。
「うわっ…!」
台座から突風が巻き起こり、城門へ伸びていく。風は城門の歯車を稼働させ、門を開いた。
思えば、今朝もセランフォードが雷の力で門を開けていたように思う。この門は魔法を使わなければ開かない仕組みなのかもしれない。
開いた門を抜けて、バルザは一人歩いて行ってしまった。神の手は借りないと言い張るビゼライであるが、この重い酒たちを持つ自分に見向きもしないバルザに青筋が立ちそうになった。
「…はぁ…!!」
もはや引きずっているに等しい箱をなんとか城の中まで運び終えたビゼライは、もう限界であった。
箱を置き、床に倒れ込む。もうここまでくると、よほどこの酒が重いのか、己が非力なのか、分からなくなってきた。
「ビゼライ!?」
広間の方から駆け寄ってきたのはギベルクとシェロであった。
「まさかここまで一人で運んできたのか?苦労をかけた、すまんかったな」
「本日中に持ってきてくださるとは思いもせず…。ビゼライ殿、なんの手伝いもできず申し訳ありませんでした」
「なんだよ…やっぱり明日でもよかったんじゃないか…」
「そんなことはない!!我はとても嬉しいぞ!追加で買うにも買えず、困っておったのじゃ!」
「…追加で買われたら殴ってやるところだった」
「そ、それは勘弁してほしいのぉ…」
「……。じゃ、オレはもう帰る。酒は届けたからな」
ビゼライはよろよろと立ち上がり、すぐさま城から出ていこうとした。
「待っておくれ、ビゼライ」
「…はぁ…。…なんだよ」
「先刻はすまんかったな。そなたの言う事は、我らには図星じゃった。…神王には尋ねたのか?」
「……いや」
「そうか…。…シファンを通して、今後は我らも神王から人の子の話を聞こう。それでも…そなたの許しは乞えないであろうが」
「…別に。許すとかの問題じゃないから」
ビゼライはギベルクの真摯な向き合いから視線をそらした。謝られてどうこうの問題ではないからである。そして、それを許すも許さないも、ビゼライが答えることではない。
「…それで…こんな話の後に悪いのだが…。そなたに頼みがある」
「頼み?」
ギベルクはシェロに目配せをし、シェロは頷いて答えた。
「ビゼライ殿に、式典にご出席願いたいのです」
「………は?式典?」
「はい。ビゼライ殿は神の国と月を救ってくださる存在です。シビュラであるビゼライ殿の存在を、神々全員に知らせるための式典を行おうと考えております。出席は我々官神と雄神の殿方、そしてビゼライ殿になります」
「出ないよ、そんなの」
「頼むビゼライ。神々がそなたの存在を認識していて損はない」
「特別何かをなさる必要はありません。城のバルコニーから街に向けて姿を見せていただければ良いのです。ですのでどうか…」
「ええ…」
「準備や段取りはこちらで決めるゆえ、そなたに手間はかけさせぬ。一日だけ、時間をくれぬか」
この国にいる以上、面倒事は次から次へと起こることであろう。式典に出なければ出ないで、別の面倒事に巻き込まれるかもしれない。第一、人間と神とでは容姿が違うのであるから、人間であることはすぐにバレる。…そうすれば、軽んじられることもあるかもしれない。
「……まぁ、立ってるだけでいいなら」
「良いのか!」
「ほんとにオレは何もしないからな」
「あぁ、構わん!」
「ありがとうございます、ビゼライ殿」
「…そなたは優しいのだな。さすがはセレタニアのシビュラよ」
「…何言ってんだよ」
「それでは、詳細はこちらで決まり次第また改めてお伝えいたします」
「うむ、とりあえずは一安心じゃな。では…ビゼライが運んでくれたこの酒、さっそく飲むとするかのぉ〜!」
満面の笑みで箱に手をつけたかと思えば、ギベルクは魔法で箱を宙に浮かせ、広間まで飛ばした。
そんなことがありなのか、とビゼライは痺れる腕を震わせながら悔しくなった。
「ギベルク殿下…。お酒はほどほどに…」
「分かっておる分かっておる〜!シェロも飲むか?」
「わ、私は…従者として飲むわけには…」
「ならばリスも呼べば良い。あやつは今どこにおるのか…。また部屋でだらだらしておるのかのぉ」
「温室で水浴びと伺っております」
「また水浴びかえ…」
そなたもどうじゃ、とギベルクがビゼライを見る。ビゼライは酒を好まない。
ビゼライが首を横に振ると、ギベルクは子犬のような顔をして悲しんだ。
「しかし、ビゼライに頼むとはオーナーも面白い奴よのぉ」
「受取りに行った際、ビゼライ殿に頼むと申され…驚きました」
「ふぉっふぉっふぉっ。そやつに一度会ってみたいものよ」
「…会ったことないのかよ。あんたこんなに酒飲むのに」
「ないのぉ。我ら雄神は有事以外、城の外には出ないからの。…しかし一度酒屋で飲んでみたい気はする」
「へぇ」
そんな話を聞いて、ビゼライは城を出た。背後からは酒をつぐグラスを選ぶギベルクの楽しそうな鼻歌が聞こえる。
「…いったぁー…やっぱやめようかな、もう…」
城を出て城門までの道を歩いていると、ぼそぼそと声が聞こえた。見てみれば、庭に座り込んで左足の太ももを撫でるリスティーがいた。
温室で水浴びをしているのではなかったのだろうか。
「…何してんの」
「あれ、太陽くんじゃん」
近寄って見れば、その手で撫でる太ももからは血が流れていた。彼はそれを痛がっていたようである。しかし、彼の右手には短剣が握られていた。
「血、出てるけど。何?あんたそれ自分でつけたの」
「…まぁ」
「何してんの…」
リスティーは頬を赤くしながら、うるさいなぁ、と目をそらす。この状況で何を恥ずかしがっているのか、ビゼライには皆目検討がつかない。
「…練習してたんだよ。回復魔法の」
そう言うと、リスティーは傷口に手をかざし、傷の治癒を開始した。傷はみるみる塞がっていったが、その白い肌には跡が残ってしまった。
「やっぱり、跡を消すまではまだできないんだよね」
「…あんた、風の魔法じゃなかったの」
水浴びの後、濡れた身体を風の魔法で乾かしている、とシェロが言っていた。風以外も使えるのだろうか。
「そうだけどさ。…なんか悔しいじゃん。おれだって雄神なのに、魔法全然使えなくて戦えないの。だからせめて、皆の傷を治すくらいはしたいなって」
「ふーん。あんた本当に頭だけで雄神になったのか」
「…そうだよ。ギベもバルも強いから戦えるけど、おれはどう戦うかを考えることしかできない。皆の戦い方を指示しといて、自分だけ傷つかないの。なーんか嫌じゃん?」
「はぁ」
ギベルクには、また部屋でだらだらしている、と言われていた彼である。初対面のときも水浴びしていたこともあり、仕事はしてなさそうに見えた。現にビゼライもセランフォードに本当に雄神か尋ねたほどである。
「それで?練習のために自分で傷つけてんの」
「だってそうするしかないしー。皆強いから、怪我してる人いないんだもん」
普段の彼が無気力でだらだらと怠けているのはきっと事実なのであろう。しかしこうして、裏では魔法の練習をしている。水浴びを好む彼が、自分で傷をつけてまで励んでいる。きっと傷を治しきれなかったら、水浴びの際に沁みて痛いだろう。
「じゃあこれ治してくれよ。さっき切った」
ビゼライは先程箱を持ち上げた際に切ってしまった指を差し出した。もう血は出ていないが、触れると痛い。
「えっ…。…ふふん、いいよ。こんくらいの小さい傷なら任せてよね」
得意げに笑ったリスティーは、ビゼライの指に手をかざすとすぐに傷を治した。もう跡も残っていない。
「小さい傷なら跡まで消せるんだけど。やっぱおれもまだまだだよねぇ。…早く大きな傷も治せるようにならないと、侵食に歯が立たなくなっちゃう」
立ち上がったリスティーは、めくっていた衣服を直して手櫛で髪を梳きながら呟いた。また怪我したらおれの練習台になってよ、と笑って、温室の方へ歩いて行く。
「水浴び行くの」
「そー。シェロには温室にいるって伝えてあるし」
ビゼライに軽く手を振って、リスティーは去って行った。ビゼライは何もなかったかのように跡の消えた指を眺め、また親指の腹で撫でた。彼の太ももの傷は消えてない。大丈夫なのだろうか。
「神の心配とか…いらないか」
ビゼライは城門を抜けて階段を降り、神殿に戻った。もう日暮れである。また今日も、あの巨大な月が輝く夜が来るのだ。
「おや、ビゼライ様。おかえりなさいませ」
「シファン。…どっか行くの」
「食材を買いに街まで出てきます。すぐに帰ってまいりますが、少しの間留守にしますね」
「神王と一緒にいなくていいのかよ」
「ええ。これも神王様のご要望ですから」
ビゼライが神殿の前まで戻って来ると、ちょうど籠を抱えたシファンが出ていくところであった。
護り人を遣いに行かせるとは、神王も大概である。
「そ」
素っ気ない返事で答えるビゼライに一礼をして、シファンは街へ降りていった。
神殿に入り、ビゼライは自室へ戻ろうとした。そこでふと、足を止める。音一つしない、静かな神殿である。シファンがいようがいまいが、何も変わらない。そう、神王の部屋の守り以外は。
ビゼライは神殿の奥、普段はシファンがいて入れないその場所へ歩みを進めた。奥には細い通路があり、その先から光が漏れている。ビゼライは通路を進み、王と呼ばれる人物がいるであろう部屋の前までたどり着いた。ビゼライの部屋とは違い、その部屋には入口に布が暖簾のように吊るされていて、めくって入らなければ中の様子が見えないようになっている。この先に、神王がいる。正体不明で姿も見せない、何もしない王が。
「………。」
なんの音も聞こえない、ただビゼライの呼吸だけが響くその空間が、ビゼライにはやけに気味悪く思えた。本当にこの先に人がいるのか。生きているのか。なんの気配もしないその部屋へと続くこの布一枚が、ビゼライにはとても重く、高い壁に感じた。
「くそっ…」
気味が悪いが、ここまで来たのだ。この神殿の護り人であるシファンが留守にする機会など、今後ないかもしれない。ならば、怒りの一つくらい吐き出しておきたい。
「神王…あんた、ここにいるのか」
なぜか声が震えた。それは恐怖とも緊張とも違った。得体のしれない何かが、ビゼライの身体に纏わりついている。
「あんた、なんで出てこないんだよ。侵食とかなんとか、国が大変なんだろ。なんで何もしないんだよ」
当然、返答はない。
「それにあんた、オレたち人間の声が聞こえてるって本当なのかよ。祈りの声も、嘆きの声も、全部聞こえてんのかよ。なんでそれ、他の奴らに伝えないんだ、オレたちは神に救いを求めて、必死になって祈ってるのに…!!」
人の気配すらしない。
「ここから出ないあんたにだけ届いてたって、なんの意味もないだろうが…!!」
ただビゼライの声だけが、虚しく響いている。
「………。……馬鹿らし」
思いが微塵も伝わっている気がしない。ビゼライは部屋に背を向け、通路を引き返した。
自分の部屋に戻ったビゼライは窓の外から見える、日暮れに染まる街を眺めながらシファンの帰りを待った。
ギベルクはまだ酒を飲んでいるだろうか、シェロは濡れたリスティーの髪を梳いているかも、アノンはまたセランフォードから逃げていたりして。なんて、そんなことを考えた。そしてそれと同時に、自分が帰らないまま丸一日が過ぎたセレタニアの教会を思った。国民たちは、今日の朝焼けをどんな顔で眺めただろう。シビュラが不在でも昇る朝日を見て、何を思っただろう。シビュラのいない教会で、神に何を祈っただろう。
覚醒なんていうものを課せられてしまったからには、セレタニアへすぐには帰れない。神たちと共に、月のカウントダウンに怯えながら侵食と戦っていかなければならないのだろう。
「……ん…?」
ビゼライはふと、窓の外に異様なものを見た。
何か黒い影が、群れをなして空を飛んでいるのである。鳥とは違う。烏の大きさでもない。
「なんだ、あれ…」
大きい影である。もしかすれば、人と同じくらいの大きさがあるかもしれない。この国では普通のものなのだろうか。
「……怖いな」
得体のしれない謎の黒い影に、ビゼライは不吉な予感を抱いた。
「…………。」
足音が去って行った。すぐそこに立っていた、太陽の彼。
窓の外を眺める。
黒い影が見えた。
嫌な影。恐ろしい影。破壊の影。
また、犠牲が出る。
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