ー Episode 4 ー 亀裂と深淵のプレリュード
「と、虎…!?な、なんでこんなとこに虎がいるんだよ!」
「落ち着けビゼライ、大丈夫だから!」
「…その声はセランフォードか」
虎の頭を撫でるようにして岩の向こうから現れたのは、騎士のような、軍人のような格好をした男であった。
後頭部で高く結ばれた黒髪は毛先が青紫に染まっており、彼が歩くのと合わせて揺れている。
「殿下、鍛錬中申し訳ありません」
「シェロもいたのか。その者は」
「太陽のシビュラ様でございます」
「…お前がか」
冷徹に光る吊り上がった灰色の瞳はビゼライを捉える。品定めをされているようで、ビゼライは苛立ちを覚えた。
「ビゼライです。…どうも」
ビゼライは男を睨んだ。彼が雄神の残りの一人であろう。
「…私はバルザ。雄神だ。………お前は、嫌な目をしている。神が憎いか」
「は」
それだけ言うと、彼は虎を連れてまた岩の向こうへ去っていった。愛想の欠片もない男である。
「なんだあいつ…」
「ビ、ビゼライ…」
「…神なんか憎いに決まってるだろ。…嫌いだ」
神への嫌悪。それはここに来たところで変わるものではない。今隣にいるセランフォードも、シェロも、悪い神とは言えない。それはビゼライも分かっている。だからこそ、アノンやバルザのような棘をむき出している神への嫌悪が余計に強くなる。そして同時に、ビゼライは自分の神への「嫌悪」が何に向いているのか分かってきて、嫌になるのであった。
「……街に参りましょう。ビゼライ殿」
「…あぁ」
セランフォードとシェロの後ろを歩くビゼライは、城を出てからの間もずっと、自分の中に浮かぶ疑問について考えていた。恐らくその疑問はビゼライだけではない、セレタニアの人間全員が思っていることな気がした。だが、今その疑問は口にするべきではない。少なくとも、セランフォードとシェロに話すことではないように思えた。
「なぁ、さっきの場所はなんだったんだ。あの虎は?」
ビゼライは浮かぶ疑問を、別の疑問で覆うことにした。
「バルザ様の魔法だ。あの方は虎を召喚できる。虎は幻影だから、生きてる本物ではないんだけどな」
「幻影って…そんなこともできるのかよ」
「バルザ殿下はいつもあの場所で魔法と剣の鍛錬をされています。あの岩たちは鍛錬のために用意したものです」
「鍛錬に岩が必要なのか?」
「バルザ殿下が使われるのは高威力の攻撃魔法です。地割れが起きる可能性もあるので岩の用意をされています」
「城の床が割れたらまずいしな」
「じゃああの人は攻撃魔法の強さで雄神に?」
「あぁ。魔法もお強いが、剣の腕も相当だ。すげぇよな」
「ふーん…」
いつの間にか、ビゼライたちは街に到着していた。祭りなのかと勘違いするほど、多くの店と大勢の神々で賑わっている。実に活気のある街である。
「酒を買うんだよな。どこに行くんだ?」
「いつも利用している酒屋がありますので、そこで」
「へぇ、そうなのか」
「この街じゃ人気で有名な酒屋なんだぜ。販売もしてるし、その場で飲むこともできる」
「人間と変わらないんだな」
「はは、たしかに。そうかもしれないな」
賑やかな街を歩いていると、周りの神々がこちらを見て何やら話している様子が伺えた。ビゼライが不思議に思って眺めていると、一際大きな声でこちらに手を振る者たちが見えた。
「あ!シェロ様だわ!今日もお美しい!」
「見て見て!セランフォード様よ!!」
「官神様〜!!」
「セランフォードの旦那ー!!またうちの店来てくれよー!!」
「え…あんたらすごい人気だな…」
声を聞いている限り、官神はとても好かれている存在らしい。だがその中でも、特にセランフォードを慕う声が多かったように思えた。たしかにこの気前の良さと人当たりの良さである。男女構わず好かれるのはビゼライにも理解できた。
「嬉しいことに、結構な人気でな。街に出るたびにこの歓声だ」
「少し恥ずかしいのですけれど…光栄なことです」
二人は嬉しそうに笑った。恐らく二人は官神という立場がなくても好かれるだろう。自分とは似ているようで似ていない存在である。ビゼライは二人を遠く感じた。
「この店です」
「邪魔するぜー!」
シェロとセランフォードが躊躇なく入っていった酒屋は立ち飲みの店で、陽気な音楽に合わせて踊っている者たちや、酒を飲み交わして談笑している者たちなど、幅広い客層の自由な店であった。
「げ、お前は」
「あ、あんたは昨日の…!」
カウンターには酒瓶を抱えるアノンがいた。ビゼライを無理やり連れてきて忽然と姿を消した、気に食わない赤髪の男である。
「らっしゃい!お、セランじゃねぇか!シェロも!」
カウンターの奥、店の裏から出てきたのは、体格のいい大男であった。
店の者なのであろうが、彼自身もジョッキを片手に酒を飲んでいる。
「よぉ旦那!いつもの酒を買いに来たんだ!」
「いつものな!ギベルクさんのかい」
「あぁ。今朝飲みきっちまったみたいでな」
「朝っぱらから酒たぁ最高だな!」
旦那と呼ばれた彼はセランフォードと同じ、大衆の中心になるような雰囲気の男であった。茶髪の毛先を黄色に染めて、頭頂部でまとめている。その髪型は何というか、南国で育つあのアナナスのようである。黄緑に輝く瞳はいかにも楽しそうに細められていて、口を大きく開けて豪快に笑っている。
「その隣の兄ちゃんは?初めて見る顔だな。その髪はひょっとして人間かい?」
「こいつは太陽のシビュラだ。月の復興のために協力してもらってる」
「ビゼライです」
「へぇ!太陽神の末裔様か!そりゃまた大層な兄ちゃんだな」
シビュラが太陽神の末裔であることは、官神のセランフォードでさえ知らなかった情報である。なぜ一介の酒屋である彼が知っているのだろう。
「俺はこの酒屋のオーナー、ロダだ!一般神だからな、官神さんや雄神さんよりは劣るが、まぁ仲良くしてくれや!」
「あ、あぁ…」
差し出された手をとり、ビゼライは握手を交わす。力強く握られたその手は、どこか安心する温もりがあった。
「兄ちゃん、酒は飲めるか?」
「え、あぁ…少しだけなら飲んだことはある」
「そうかそうか!んじゃ飲もうぜ!出会いに乾杯!ってな!」
ロダはがっしりとビゼライの肩に手をかけ、酒を注いだ樽ジョッキを掲げた。
ロダの襟につくファーがビゼライの頬をくすぐる。やはり一般神と官神や雄神では、服装から違うように思える。官神や雄神は比較的豪華で煌びやかな、それこそまさにギリシアの神話のような服装に飾りをつけているが、一般神の服はそれらと比べるとどうも系統が違う。ビゼライには、ロダの服は狩猟民族の衣装のように見えた。
「ちょっとロダさーん!そんなやつに構ってないで、ボクの話の続き聞いてくださいよぉー!!」
「はいはい分かったよ。ちょいと待ってくれや」
背後でアノンが声を上げる。彼はどうやらここの常連らしい。
「あいつ、いつもここにいるのか?」
「おうよ。俺は愚痴聞き役なんだけどよ、まぁー毎度毎度良い話を持ってくるんだわ。聞いてて飽きねぇよ、アノンの話は。兄ちゃんも相談あったらここに来な。何でも話すといいさ。ま、力になれるかは分からんけどな!」
「はは、あぁ。まぁ、機会があったら」
愚痴をこぼしたいのは今まさにこの状況である。背後に面倒な赤髪がいること、そもそもこの国に来てしまったこと。ビゼライにとってはもうほぼ全てが話の種であった。
「おいアノン!お前こんなとこにいたのかよ。酒場に入り浸ってるなんて初耳だぞ!」
「うるさいなぁ、ボクがどこにいようとボクの勝手でしょ!」
「はぁ?俺はお前の目付を頼まれてるんだよ。いいから城に帰って来い」
「やだ!」
「アノン。神王様にご心配をかけるのはやめた方がいいと思う」
「え、神王様が心配してくれてるの!?」
今までずっと酒のつまみを選んでいたシェロが口を開く。アノンにどんな言葉が効くか、シェロは分かっているようだった。
「嘘…神王様に心配を…!ボク帰る!ロダさん、お代置いておきます!」
「まいど!じゃあなー!」
「すげぇ…走って帰ってった…」
「アノンは神王様のことを崇拝しているから」
昨日アノンが言っていた、神を崇めて敬って、というのは、彼自身が神王を崇拝しているからだったのかもしれない。それにしても、アノンは他の神と比べると、一際「神」への執着があるように思える。自身も神であるというのに、神に執着し、神を崇め、讃えている。ビゼライからしてみれば全く理解できない、今後も永遠に分かり合えることのなさそうな男である。どうしてそこまで神を愛するのだろう。
「ロダさん。お会計をお願いします」
「おう!」
ビゼライたちはいつも買うというこの酒を箱一ダースと、ロダ推薦のつまみとシェロが選んだつまみを購入して、店を出ようとしたとき。
「皆!おるか!」
勢いよく店の扉が開き、ギベルクが現れた。その後ろにはバルザとリスティーの姿も見える。神話の英雄が勢揃いである。他とは違う迫力に、周りの神々も歓声を上げる。しかし、彼らの雰囲気はそんな呑気なことを言っていられる状況ではないようであった。
「ギベルク様!?なんで貴方が街に…まさか…」
「侵食を確認した。広範囲に及ぶ。向かうぞ」
「殿下も向かわれるのですか」
「うん」
「悪いビゼライ。あんたも来てくれるか?」
「え、あぁ、でもオレが行ったら…」
「大丈夫じゃ。我が守ろう」
ギベルクは爽やかに微笑む。それはビゼライにとってはとても頼もしい微笑みであった。未だ納得はできないが、シビュラとしてこの国の復興を目指さなければ帰れないのなら、侵食は一度目にしておくべきだろう。ビゼライは雄神三人とセランフォード、シェロと共に酒屋を出た。
購入した酒はカウンターにおいたままである。ロダはいつの間にか店の裏に下がっていた。
「なんだよ…これ…」
到着した場所は、景色一面が漆黒に染まっていた。漆黒の境界線はじわじわとビゼライたちに迫ってくる。
「来るぞ」
バルザのその一言に連れられるように、漆黒から怪物が現れた。その数は五十を優に超えている。全身を黒いヘドロのようなものに覆われた、気味の悪い人型の何か。今からこんな物と戦うというのだろうか。
「こ、こんなの倒せんのかよ…」
「あぁ。大丈夫だ」
「ビゼライよ。我の後ろにいると良い」
ギベルクに手招きされて、ビゼライは彼の後ろに下がる。
ところで、彼はなんの能力で雄神に選ばれたのか。攻撃魔法のバルザ。軍師のリスティー。そこに並ぶギベルクの能力を、ビゼライはこの状況から察していた。
「それ」
ギベルクは手の内から大きな魔法陣を浮かばせ、自分たちの前に構えた。まるで盾のようである。
「これでもうそなたが攻撃を受けることはない。安心しておくれ」
「悪い。助かる」
「ふぉっふぉっふぉっ。お安いご用じゃ」
魔法陣に守られたビゼライは、この真っ黒な景色を見渡してみた。
そして漆黒の奥に頭だけ見えた城と神殿は、魔法陣がかかっているように見える。魔法陣が城に覆い被さっているのである。とてつもなく巨大な魔法陣であるのは確かだった。
「我の能力は守りの力。お一人様から一国一城まで、なんでも守って見せようぞ」
「すごいんだな、あんた」
「ふぉっふぉっふぉっ。ただの飲んだくれだと思っておったか」
「いや…」
「我の守りが突破されたことはまだ一度もない。バルの攻撃ともいい勝負なのじゃ」
「最強の盾と最強の矛、どちらが勝つか」
「ほぉ。古代の東国の成語か。まさにその通りじゃな」
そんな余裕を見せて談笑する二人の周囲には、漆黒の境界線が迫っていた。
セランフォードの言っていたことが本当ならば、飲み込まれたら終わりである。
「なぁ、これ大丈夫なのか」
「もちろんじゃ。だが、ほれ。あれを見てみよ」
ビゼライが視線を向けた先では、リスティーが何やら指示を飛ばし、バルザとセランフォード、シェロがそれを聞きながら戦っていた。
それぞれが魔法を駆使し、次々とヘドロの怪物を消していく。
「殿下!」
「おれはいい!シェロはセランと戦って!」
「承知しました!」
「なぁシェロ!いつもの行こうぜ!」
「うん」
そんな一言の会話の後、セランフォードの手からは広範囲に及ぶ青白い稲妻が繰り出された。そしてそれを受け止めるかのように、シェロが魔法を繰り出す。
シェロが手を振りかざすと、彼の背後に巨大な水の竜巻が現れた。そして竜巻は、みるみる龍へと姿を変える。龍の形をした水である。龍は怪物たちを取り巻き、それにセランフォードの稲妻に加わることで、大きな電撃を与えた。
怪物と侵食の液体は浄化され、その範囲には彩りが戻る。ビゼライたちに迫っていた漆黒も消えていた。
「よっしゃ!ありがとな、シェロ!」
「こちらこそ」
二人はお互いの手をかざし、パシっと叩いた。やはりそれなりの友情が築かれているようである。
その後ろでは、リスティーが方角やら戦法やらをバルザに指示していた。
「バル!そっち!」
「分かっている!」
続いてバルザは、ビゼライが先ほど見た白い虎を召喚し、怪物たちを襲わせた。そして自分は、その腰に携えた剣を地に突き刺す。すると、突き刺した部分から大きな魔法陣が展開し、激しい暴風と共に強い閃光が侵食を覆った。次の瞬間には、もう侵食の液体も怪物も消え去っていた。
「浄化完了じゃの」
ギベルクはビゼライを守っていた魔法陣を解除した。全員無事である。
「簡単に片付いたてよかったな」
「うん」
「はぁ…やっぱりおれが現場来ても意味ないよなぁ。侵食相手じゃ軍師なんか役立たないし」
「そうだろうか。お前の指示はいつも的確で助かるが」
「え、バルが褒めてくれるなんて珍し〜」
「…失言したな」
「…すごいな、あんたたち。あんな怪物といつも戦ってるわけ」
戦いを終えて一段落する彼らに、ビゼライはなんともいえない気持ちになっていた。戦う彼らに魅了されたのは事実である。しかし、その姿を見て、ビゼライが秘めていた疑問はより大きく、確実なものになってしまった。
「そうじゃな。侵食の発生頻度は高まってきておる。戦いで一日が過ぎることもあるの」
「それで、聞きたいんだけどさ」
少し大きく響いた声に、全員が視線をビゼライに向ける。
「あんたらに、オレたち人間が必死に祈ってる声って、届いてんの」
全員が沈黙する。風の音だけが耳に残った。
「街があって、店があって、客がいて、買い物して。そういう人間と変わらない生活の中で、あんな怪物とも戦って。自分たちの生活でいっぱいなんじゃないの。オレたちの祈りの声なんて、聞いてる暇ないんじゃないの」
「ビゼライ…」
「やっぱり、神を信仰すれば守ってくれるなんて、嘘だったんだ。そもそも、声なんて、信仰なんてあんたらには届いてないんだ。…なんの意味もないことを、ずっと、オレたちは…」
真相を知ってしまうのが恐ろしくて、知ってしまったらそれこそ、今までの人生と苦しみに、なんの意味もなくなってしまうような気がして、飲み込んでいた疑問。その答えは今知ってしまった。今この沈黙で確定してしまった。
「神王がおる」
「え」
「神王の元には、届いておるはずじゃ」
「神王って…」
「そなたの言う通りじゃ。我らが人間の声を聞くことはできぬ。しかし、そなたが神と交信ができるように、神王も人間と交信ができたはずじゃ。そなたらが祈ってくれた声は、王に届いておるであろう」
「でも神王って人前に出ないんだろ。じゃあ届いてたってあんたら全員には伝わらないじゃないか」
「それは…」
「…やっぱり、神なんか嫌いだ」
ビゼライは彼らに背を向け、帰る道を歩いた。
もう帰りたい。こんな国、早く出て行ってしまいたい。ビゼライの言っていることは、セレタニアでは常識で、完全なる善行で、誰もが正しいと口にすることである。しかし、当の神からしてみれば、ビゼライの言動は自己中心的で、駄々をこねる厄介な子どもに見えるかもしれない。声が届いていなかったのなら、初めからビゼライの言う事は理解できていなかっただろう。昨日出会った時、セレタニアでの常識を軸にして叫んだビゼライに向かって「勝手に期待してバカみたい」と言ったアノンの意見は、もしかしたらビゼライよりもずっと正当だったのかもしれない。考えたくないことが頭をぐるぐると回って思考を占拠し、心を蝕むやりきれなさに鼻先がツンとした。
「神殿はそっちじゃないぞ」
「……セラン」
ビゼライの後を追ってきたのはセランフォードだった。
「昨日来たばっかなのに、一人で歩いたら迷っちまうぞ」
「……オレは、帰るんだ。もうこんなところ、いたくない。神なんて…結局…」
「…ビゼライ」
彼からの呼びかけを無視して、ビゼライはまた歩いた。帰りたいというのに、もうこんなところにはいたくないというのに、なぜか歩みを進める足が、その一歩一歩が、とてつもなく重かった。足は鉛のようで、身体は水の中を歩いているかのようで、見えない圧力に負けて、進めない。
「ビゼライ。待ってくれよ。なぁ、聞いてくれ」
セランフォードの手が、ビゼライの手首を掴む。
彼の真摯な瞳は今のビゼライには眩しすぎて、顔を背けたくなった。
「ビゼライ。俺は今のあんたにかけられる言葉は持ってない」
「そりゃそうだろうな。あんたらからしたら、オレは駄々こねて、拗ねてるめんどくさい子どもだ」
「…あんたには、自分がそう見えてるのか。…だが、俺たちはそうは思ってないよ。………なぁ、一緒に神殿に帰ろうぜ」
「…は?」
「俺は、この国があんたの第二の居場所になったらいいって思ってる」
「…なに言ってんだよ」
「俺がそうだったんだ。俺は先生に拾われて、官神として生きる世界が居場所になった。それ以前の俺は荒れてて、世界に絶望してた。…あんたにも、居場所を見つけてほしいんだよ」
「…嫌いでも、憎んでも。ほんの少しだけ信じてきた物が、全部崩れ去ったこの国を居場所にしろって?」
「…今すぐには無理でも、いつかはそう思えるようにしたい」
「…なんだよ、それ」
帰る、などと言っても、結局は帰る術などないことをビゼライは分かっている。
ビゼライはセランフォードに手を引かれ、神殿に帰った。道中は、なんの会話一つもなく、ただ街の喧騒が耳を打つのみであった。
「おかえりなさい。ビゼライ様、セラン。話は聞きましたよ。侵食地に向かわれたとか」
「先生。ただいま帰りました」
「沈んだお顔をされておりますね。お部屋に戻って、今日はもうお休みください」
ビゼライは部屋へ戻った。今は何も考えたくはない。しかし休むといっても、まだ昼過ぎである。
ビゼライは窓から吹き込む風を受けながら、賑やかな街の様子を眺めた。あの街で過ごす、今朝官神たちに歓声を上げていた者たちも神なのである。ビゼライは、神というのは、もっと神聖で厳かで、それこそ雲の上に浮いているような、白い布を纏う神々しい存在だと思っていた。そんなものは結局、人間が描いてでっち上げた理想にすぎないものであったと、ビゼライは今になってようやく気づいたのである。
「失礼します。ビゼライ様」
声と共に、シファンが部屋に入ってくる。その表情は穏やかで、逆に何を考えているのかまったく分からない。
「神王様のこと、お聞きになったのですよね。神王様への伝言は私が仰せつかりますので、何かお伝えしたいことがございましたらなんなりと」
「…全部文句だよ。声聞こえてるくせに、とか、なんで出てこないんだよ、とか、あんたが月を復活させればいいだろ、とか」
「ふふ。そうですか。しかし、ビゼライ様が覚醒なされば、いつかは対面の日が来るかもしれないですね」
「…いつだよ、それ」
「すぐに来ますよ」
そんな話をして、シファンは部屋を出て行った。
今、同じ建物の中に、顔の見えない王がいる。なんとも不思議な気持ちである。
「おーい、シビュラのにーちゃん」
「え」
「よ!」
「ちょ、なんであんたがここに!?」
出て行ったシファンと入れ替わるようにして入って来たのは、酒屋のオーナーのロダであった。
しかもその肩には先程購入した酒の箱一ダースが担がれている。なぜ彼がここにいるのか、なぜ酒を持っているのか、ビゼライはわけが分からない。
「いやー、さっきシェロが酒を受け取りに来たんだけどよ。お前さんの姿が見えないから気になってな。…城の面々となんかあったみてぇだな。そんなシケた面して」
「…だったらなんだよ」
「だから、これをお前さんに渡しに来たんだ」
ロダは箱をビゼライの前に置いた。肩を回して大袈裟に伸びをしている。
「な、なんだよ、これ」
「これはお前さんが、自分の手で城に届けろ」
「…は…?」
「じゃ、俺はこれで!城でいじめられたら俺の店に来な!話聞くからよ。ま、アノンも一緒かもしれねぇがな!」
「あ、おい!ちょっと待てよ!」
「早くしねぇとギベルクさんが悲しむぞ〜」
そうしてロダは神殿を出て行ってしまった。ビゼライの足元には酒の箱が一ダース、ぽつんと置かれている。
「重っ…」
重い。これは手伝いが必要な重さである。そして、あの宙に浮く階段も、引いてくれる手がなければビゼライはまだ登れない。
「……くそ…」
「あはは!!いいねその顔!」
「……あ…?」
部屋の窓に逆さまで顔をのぞかせたのは、楽しげに笑うアノンであった。
Prayer Phantasm ー虧月の審判ー 緋川ミカゲ @akagawamikage
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