前世ルーレットの罠

秋犬

神は賽子を振る

「思い出してください」


 手を握られて、男は娘に囁かれる。いきなり暗くて狭い土蔵の地下に入るよう命じられてから地上への扉にかんぬきをかけられたのが数日前で、それからずっとこの暗がりに閉じ込められている。


 男を監禁している娘は嫁入りを間近に控えていた。資産家の娘で、間もなく父親が懇意にしている政治家の家へ嫁ぐ予定だった。男はその家の下男として娘の父親に仕えていた。「俺がいなくなって皆が不審がっていないか」と娘に問いただすと「私が暇を出すと伝えてある」というばかりで、肝心なことは何も教えてもらえない。


「私のことを思い出しませんか?」


 娘は夜な夜な男の元へ尋ねてくる。そして、一晩中手を握って問い続け、朝になると消える。男は不思議で仕方がなかった。しかし、思い出そうにも何も思いつくことがなかった。


 男は不思議と逃げる気も助けを求める気もなかった。いざとなれば女ひとりくらい簡単に好きにできるという自負があったのと、彼女が何故こんなけったいな真似を始めたのかを知りたかったからであった。


「お嬢さんは何故こんなことをなさるのですか?」

「思い出すためです」

「そればかりで、他に何かないんですか!?」

「思い出すのです」


 男も彼女に問われるまま、必死で思い出そうとした。しかし、娘の面影にも心持にも思い当たるものは一切なかった。ただ仄かな灯りに照らされた白いおもてを見て、好き勝手にしたい欲望にかられる。


「まさか、俺を好いているのですか?」

「今のあなたは好いてございません」


 娘に冷たくあしらわれ、男はますます訳がわからなくなった。


 そして七日七晩が過ぎた。その夜、一晩中娘は男の手を握り続けた。間もなく夜明けが近づいてくる。朝になれば、娘は晴れ着を着てこの家を出ていかなければならない。


「今夜で私がここへやってくるのは最後になります。思い出しませんか?」

「だから何を思い出すと言うのだ!?」

「私のこと、です。何でもよいのです、この手のひら、この暗がり、この息遣い……」


 男は必死で思い出そうとした。ずっと暗がりに閉じ込められていたせいでおかしくなった目で娘をじっと見る。そして娘の熱い手のひらを握り返す。そして確かに、その手を昔握ったような気がしたのを思い出した。


「……お兄ちゃん?」


 娘ははっと顔をあげ、男の顔を覗き込む。


「そうだ、思い出したか」


 娘は殊に明るい声を出した。そして男は全てを思い出し、絶望に打ちひしがれる。


「何度目だろう、この逢瀬は」


 男と娘は静かに涙を流した。娘は袖で涙を拭う。


「せっかく今世では夫婦めおとになれると思ったのに、全ては手遅れだ。おれは明日、先生の元へかねばならない。それが今世での運命さだめだ」


 二人は互いに手を握り合う。男の魂の中にかつての逢瀬が蘇る。二人は兄妹として生まれ、惹かれあったが夫婦になることはできなかった。


 来世を誓った魂は何度となく巡り会ったが、男と男、女と女、父と息子、母と娘とその巡り合わせで夫婦になれるものはなかった。男女で生まれてきたとしても、出会ったときは死にかけの老人だったり、重い病気を患っていたりもした。


「今ならまだ間に合う、今度こそ、今度こそ!」


 今度こそ、と妹は強く想った。今世は同じ年頃の健康な男女であった。目の前の兄と添い遂げなければ、死んでも死にきれぬと兄に縋り付く。


「ダメだ、おれが行かぬと全てがぶち壊しになる。今世で授かった恩まで犠牲にしたくはない」


 兄は泣き崩れる妹をしっかり抱きしめた。


「また逢おう。何度でも、何度でも」

「もし思い出せなくなっていたら?」


 かつて妹であった男の顔を覗き込んで、娘は涙を流しながらかつての兄の顔で笑った。


「その時はまたこの暗がりで逢おう。覚えていないか、前世ではおれもお前にこうやって思い出させてもらったのだぞ」


 それは朧気な記憶だった。しかし、そんなことをしたような気もする。常に暗いところで手を握っていた。だから暗いところに閉じ込めて、こうして手を握っていれば必ず思い出す。そうして先に思い出した方が後の者に教えてきた。


「わかった、それではまた来世で」


 兄は妹の手を放した。それが今生の別れとなった。


「きっと、またお前を閉じ込める。そして思い出させる」

「いいえ、こちらが先にあなたを閉じ込めてみせる。すぐに思い出すはずだから」


 夜が明け、娘は美しい花嫁装束を着て生家を後にした。残された男は奉公先を出て、遠くの誰も知らない土地に移り住んだ。そしてその後を誰も知らないという。


 神はいたずらに賽子さいころを振る。その目に囚われた二つの魂は来世での逢瀬を約束し続ける。雁字搦めの運命の糸という罠から抜け出す、その日まで。

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