第7話

 夏が終わり、再び百合は多忙な日々に戻っていった。

 二年後のその季節、未だ壊されないその家に住んでいた湊は、彼女を映すテレビを横目にクレーン車を見つめる。

「湊、こっちにおいで」

 物が一切なくなった部屋を抜け、祖母が比較的新しいあの部屋の扉を引く。今まで湊が嫌がることを一切しなかった祖母の意外な行動だった。湊はため息を吐く。

「ねえ、最後とか言って弾かないからね」

「その奥、扉が見えるでしょ」

 指さした先は、グランドピアノで隠れていた空間。重い扉を引いて、湊は目を見開く。

 画材や絵画で埋め尽くされた部屋。間違いなくアトリエだった。踏み入れた瞬間、ある絵を捉えて彼は目を見張る。

「……何でここに」

 湊の目が映したのは、探し求めていた橘秀一郎の絵、「光」だった。

「どういうこと? 確かにアトリエ見つかってないけど……ここなの?」

 祖母は優しく笑った。

「それは、湊がお誕生日にって初めて私にくれた絵だよ」

 何だ、模写か。肩を落とした湊の手の中で、着信音が鳴り響く。画面に表示された名前にため息を吐きながら電話をとった。

「何急に」

「湊、あの、ねえどうしよう」

 やけに上擦った楓の声がする。

「話まとまってから掛けてよ」

 耳から携帯を離した瞬間、祖母が嬉しそうな表情を浮かべた。

「楓? 楓なの?」


 

 二年前の夜のように、今度は祖母に病院へと連れていかれる。おめでとうと駆け寄る祖母のその奥で、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

 全く飲み込めない状況に、湊は最初に浮かんだ問いを口に出した。

「……いつの間に結婚したの?」

「嘘、挨拶しにいったじゃん」

 冗談やめてと笑い飛ばす楓だったが、「は?」と眉間に皺を寄せる湊に本気で焦り始めた。

 やがて楓は幸せそうに談笑する祖母の方をちらりと見て「そういえばさ」と口を開いた。

「何でかよく覚えてるんだけど、湊が生まれた日、おばあちゃん凄い嬉しそうに笑って、でも泣いててさ。ああ、あの人だって言ったんだよ」

「あの人?」

 楓はふっと笑う。


「橘秀一郎。俺たちのおじいちゃんになるはずだった人」


 少し間があってから、湊は苦笑いした。

「ごめん、わからない。楓はいつもだけど」

「秀一郎さんが亡くなった日、知ってんだろ」

「僕の生まれた、次の日」

「うん。でも、それは見つかった日。正確には湊が生まれる一時間前なんだよね」

 混乱する湊をよそに、楓は真っ直ぐに祖母を見た。

「おばあちゃんは、もう会えないと思ってたその人が、生まれ変わって会いに来たって気付いたの」

 湊は目を見開く。

 橘秀一郎と新井ひかりは幼なじみだが、どれだけ想い合っても結ばれなかったらしい。

「別れ際、最後に贈ったのが光だよ。秀一郎さんはその後何度も光を描いてて、最期に描き上げた完成形が世に出てるやつ」

「……うちにあるの? 橘秀一郎の光が?」

「ここにあるの」

 どこから聞いていたのか、隣に座ったひかりは湊の手を包んでいた。彼女は目を細める。

「楓が音楽に囚われてた頃に話したっけ。よく覚えてるね。

 湊。絵を描き始めたあなたは、最初に私に絵を二枚くれたの。有名な風景が描かれた光と、あの人が渡してくれた、私が描かれた光。湊がまだ彼を知る前よ」

 唐突に理解した湊の背筋が凍った。それが本当なら、初めて湊を見た瞬間、彼女は彼が再会できないまま亡くなったことを悟ったのだ。そして彼の魂が孫となって現れて、何を思ったのだろう。

「私がもう一度表に出られたのは湊、あなたのおかげなの。私の消えた神様の代わりになってくれたから」

「……神様?」

 楓が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

「才能を支えてくれる人。そんな風に言うって、ゆりちゃんに教えてもらったんだけど。俺にとっての奥さんで、ひかりさんにとっての秀一郎と湊。もう湊は出逢ってるはずだよ」

 祖母と目を合わせた楓はそこで口を閉じた。代わって祖母が名前を呼ぶ。

「湊が絵を描けてるのは、認められてるのは、あなたが素晴らしい絵を描くからなの。でも、あなたは音楽にだって確かに才能があった」

「あの日」

 食いぎみに告げた楓は眉を下げて笑った。

「湊が新井のコンサートのリハーサルで、突然カンタービレを弾いた日。大人に強いられた湊のピアノは並程度だったけど、その演奏は皆を惹き付けたんだよ。誰も拍手ができないくらい」

 きょとんとした湊は祖母に目を向ける。

「本当よ。でも湊は弾けなくなった私と一緒に日本にいるんだって聞かなくて。あのまま音楽を続けて成功してたら、私はもう舞台に上がれなかったの」

「……どういうこと? つまり僕は」

 あたたかい空間に静かな楓の声が落ちる。到底信じられない言葉を乗せて。

「湊は、橘秀一郎の才能を受け継いだんだよ」


 


 


 一人病院を離れた湊は、遂に明日には取り壊されるというその家を見つめていた。夜風が青年の涙を誘う。

「……ごめん、百合」

 二年前の病室で酷く痛む頭を抱えていた彼女の手を、湊はまた離した。その闇から救ってあげられるのは、自分だけだったのに。

 湊はアトリエに向かい、軽く目を閉じて息を吐いた。真っ白なキャンバスを前にするのは、もう三年ぶりのことだった。

 湊の目は、二人の女子高生を映した。


 


***


 


 数年後、とある番組で百合はその絵と出会った。レプリカが登場し、スタジオには感嘆の声が上がる。

「皆さんご存知『君の住む夏』ですが、描かれた女性が平鹿さんに似ていると話題なんです。平鹿さん、モデルになられたとか?」

 明るいMCの問いかけに、百合は真っ直ぐにその絵を見つめた。

 硝子越しに手を合わせる二人は、鏡に映る一人のようにも見える。しかし一方は涙を、もう一方は笑みを浮かべていた。それに黒子の位置も違う。

 君も、やっと世界に見つかったんだね。

 百合はカメラの前で初めて自然に笑った。

「そうですね、きっと」


 


***


 


 東大に再び声を掛けられた湊はその申し出を断り、海外で学ぶことを決めた。平鹿姉妹を描いた「君の住む夏」は画家・新井湊の代表作となり、一世を風靡した。

 以来、湊の目から「絵」が消えることはなかった。


 


 

 夜十時、橙色の街灯が照らすパリの大通り。タクシーの中には淡々とした声が響く。

「今回も大成功ですよ。次はロンドンで講演の依頼が」

「あ」

 信号で止まった車窓の景色に、湊は思わず声を上げた。

 同じ信号を待つ人混みの中、その中心で一際輝く人。動き出した車からでもわかる艶のある黒髪を靡かせ、ピンヒールをカツカツと鳴らしている。

 そうか、彼女も日本から出てきたのか。

 彼女がほんの少し振り返った瞬間、目が合って確信した。

「何かありました? 降りますか?」

「ううん」

 相変わらず畏まった彼に、湊は心から笑い掛ける。

「早く絵が描きたい」





【君の住む夏】 架織



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君の住む夏 架織 @kaori_apo

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