第6話

 十年前、都内の大ホール。

 既に衣装に身を包んだ楓がきゅっと母のドレスの裾を引いた。

「ねえ、お母……舞さん、湊も弾くの? こんなにお客さんいるよ。僕だけで良いよ」

 母は屈んで楓の肩に手を置く。

「楓、あなたも同じことをしたの。それに、湊の演奏はきっと何かを伝えられるわ」

 新井のコンクールが初めて日本で開かれた年。海外で育った楓と湊は久々の帰国だった。

 湊は楓ほどピアノの才能に恵まれなかった。楓と合同のレッスンは過酷で、どんなに幼くても容赦はなかった。楓に追いつきたい一心で湊は一日中ピアノを弾き続け、食事を取らずに倒れることもしばしばだった。それでも楓の圧倒的な才能には少しも近づけなかった。

 それを決定付けたのが、この日だった。湊が弾き終わった瞬間、リハーサル会場が静まり返ったのだ。五分前の楓に向けられた拍手が嘘のように無音だった。

 お世辞も言えないくらい酷い演奏だったんだ。僕は駄目なんだ。

 そこからは思い出せない。飛び出した先で、祖母に泣きついたところまでは確実だ。ああ、そのままここに住みたいって言ったんだ。


 

 その一年後、湊と祖母が住む本家。

「……おばあちゃん、これ使っていい?」

 くたびれたスケッチブックを差し出した湊。

「ふふ、これが欲しいの? じゃあ新しいの買ってあげようね」

 スケッチブックを抱えた湊は村を歩き回り、ある日海辺に辿り着く。

「綺麗な絵」

 湊が数時間ぶりに筆を止めて振り返ると、麦わら帽子を被った少女がいた。

 


***


 


 百合は机から丸まった絵を取り出し、広げてみせた。

「この絵、湊がくれたの。お別れの日に、約束だよって。感動したんだ、驚くほど上手くて……でも初めて会った君は、苦しみながら絵を描いてた」

 どういうこと。声を漏らした湊に百合は苦笑いする。

「何でか忘れたけど、僕はピアノなんか弾けないって言われて。でも知ってたんだ、私。湊が引っ越してきた二日くらい、凄く楽しげなピアノの音が響いてた。そんなことない、私はわかるよって言ったんだけど、湊突っぱねたし」

 百合は湊を真っ直ぐ見つめた。

「私、音楽から逃げてきた君に負けたの。始めたての君の絵が、息を呑むほど素晴らしかった」


 


***


 


「私を描いて」

 湊もいつか言い出そうとしていたから、少年は絵筆をすぐに鉛筆に持ち替えて新しいページを捲った。

 翌日、真っ白な紙に突然少女の姿が映し出された。まだ少しも手を動かしていない少年は、目を見開きながら彼女の方に顔を向ける。

「……ねえ、百合。ここに何か見える?」

 夕焼けを見つめていた少女は首を振った。

「……見えるの? 私に人が輝いて見えるように、湊にも何か」

 昨日からなんだ。百合は湊の隣に座った。「……でも、光ってる人と違う人がいるの。湊は凄く輝いてる、一番。怖いくらい眩しい」

「百合、声が怖いよ」

 低く、躊躇いがちなその声に、湊は笑う。出会った時からやけに大人びていたが、今それが酷くなったように思えた。

「……私、子役になるんだって。今日言われたの。明日、ここから引っ越すって」

「待って」

 湊はその腕を掴んだ。

「一緒の日に帰るって」

「……ごめんね」

 少女は立ち上がって、少年の手を優しく解いた。

「もう、私のこと描かなくていい。ありがとう」

 少女は既に完成された顔を歪めて笑う。

「ばいばい」


 

 その日うまく寝付けなかった湊は布団から飛び起き、夜通し絵を描いた。紙に浮かぶ風景を、そして百合を。


 

 電車のベルが鳴っている。唇を噛んでいる少女を呼び止めようと湊は大きな声を上げた。

「百合!」

 大きな鞄を持った少女は振り返り、大きな目をさらに開いた。

「これあげる」

 湊は絵の具だらけの手で一枚の画用紙を渡した。

「約束して。百合のこと、いつかまた描かせてくれるって」

 肩で呼吸をする湊は一体どのくらい走ってきたのだろう。その目が「絵」を映すなら、私は必要ないのに。

 百合はわかった上で笑った。

「じゃあ、私も約束」

 百合は小指を湊の指に絡める。その柔らかい表情は全てをしまいこんでしまうような、この夏を永遠にしてしまうような、そんなことを物語っている気がした。


「忘れないで」


 両親に手を引かれた百合の目が涙を溜めていたことに湊が気付いたのは、その電車の扉が閉まってからだった。


 


***


 


 絵には悲しく笑う百合の姿が描かれていた。

「これ多分、私が湊に見せた最後の顔なの。酷い表情だよね」

 あの時、君に声を掛けなかったら。百合は呆気にとられる湊と目も合わせずに続けた。

「『平鹿百合』は生まれなかったし、誰かの支えや感動になることもできなかった。あの後気付いたんだ。光って見える人は、その後私に乗り移る人なんだって」

 平鹿百合がカメレオン女優と呼ばれているのは知っていた。彼女はいつテレビをつけても姿を見るほどだが、ドラマにしても映画の広告にしても見せる顔がまるで別人なのだ。

「演技をしてるときの記憶が一切ないのに、監督に指摘されたことがないの。それで気味悪がられるから、逆に忙しい方が他人と会わないし嬉しくて」

「……それで身体壊して、死んじゃうのが本望なの?」

 湊はその細い手首をぐっと引き寄せた。薄い傷が数本残っている。百合は反射的に一瞬合わせた目をすぐに逸らした。

「違う、これは私がやったんじゃなくて。信じられないかもしれないけど、役が抜けなくて。傷付けるわけないじゃん、商売道具なんだよ」

 声を荒げた百合は涙を浮かべた。

「近頃ずっとそう。少し街を歩いただけでたくさんの人が光ってて、すぐに仕事が舞い込んで。出ていかないまま、私の中に何人も入ったまま。主題歌も歌うようになって、自分が求められて……もう自分自身に戻ることがないなら、見つけられないならどうでもいいって思ったの。流れ出す自分の血を見て、ああ、もういいやって」

 百合が湊の腕をぎゅっと掴む。

「……湊は、何で気付かないの? どんな理紗が好きだった? 言って」

 右だけ口角の上がった百合に、湊は悩みもせずに言った。

「明るい理紗が好きだよ。でも、無理してる理紗は見てて辛い。朝以外に会った時とか」

 百合は口の端をきゅっと結んで俯いた。湊はさっきと同じように告げる。

「だから」

 湊は屈んでその細い手を包み込む。

「その理紗を……ううん、百合を幸せにしたい」

 涙の膜の張った瞳が見開かれる。ロボットのような表情ばかりの彼女の初めて見る人間らしい表情。

 湊はふっと笑った。

「そっか、あの日からずっと。僕はただ、大好きな百合に笑っててほしかったんだ」

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