隣人に対する切なる吐露、もしくは妄想癖

平鹿累波

最初で最後

 今となっては、窓から見える荒れた空き地に他ならない。しかしあの空き地は私にとって、非常に重要でほかの誰にも侵されてはならぬ美しい場所だった。

 雨の日も晴れの日も、季節の花々が――今の時期ならチューリップやムスカリ――咲き誇り、可愛らしい一軒家が佇んでその場所を愛していた。

 全ては過去形である、過去形なのかもしれない。順を追って話そう。


 私がこの地域に引っ越してきたのは、5月のはじめ、少し遅れた新生活であった。買い付けた家はいささか古っぽく小さかったが、世俗のことで疲れた私にはぴったりで心地よいものだった。

 長く務めた仕事から退いて、田舎でも都会でもない場所で暮らす。私の胸中は不安と希望がないまぜになっていた。

 我が家のすぐそばには、小川がちろちろとひそやかに流れている。ほとんど水路のようなもので、子供の足でもひと跨ぎで越えられるほどだ。


 その小川を挟んだ向かいに、一軒家があった。クリーム色の壁にやや褪せた赤色の屋根。何年もこの場所にあるのだろう、風景に馴染んだ家屋だ。つまるところ、私のお隣さんである。

 私には、人並みの社会性がある。そう自分では思っている、いた。なので、隣人にタオルでも贈ってご挨拶をと手提げ袋を持って隣家のインターフォンを押し込んだ。

 軽やかな足音が聞こえてすぐに玄関扉が開いた。つくりが古く、そういう趣味なのだろうか、詮索好きな性分が頭をもたげるが即座に叩きのめされた。


 瞬間、この家屋も土地も、愛され祝福されていることを理解した。扉の先にいたのは、ひどく魅力的な女性だった。短絡的だろう、短絡的で浅はかと言ってくれていい。それでも私は、彼女のありように一瞬で心を奪われ精神を支配された。顔の作りが美しいだとか、声が可愛いだとか、それらは後付の理由に過ぎない。ただその瞳を見つけたときに、私の人生は彼女に出会うためにあったのだと、そういった考えで脳が満たされ多幸感に包まれたのだ。


「どちらさまでしょうか?」


 彼女はその瞳をやわらかく細めて問うた。私はしどろもどろで、隣の家に越してきたものだと必死に答えた。不審者だろう、通報されるかもしれない。


「すみません、緊張症で、今後ご迷惑をおかけ、いや悪意などなくて、その、つまらないものですが」


 何を言い訳してるのか。彼女は小首をかしげつつ、タオルの入った、新品のだ、花がらのワンポイントがある、それを受け取ってくれた。私は何度も壊れたおもちゃみたいにすばやく頭をさげて、逃げるように小川を飛び越えていった。小川を越えてやっと頭が冷えて、ああ、あそこが、あの一帯が彼女の場所なのだと妙に腹落ちした。


 それから、私は数度……とにかく迷惑や犯罪にならないようにつとめて、彼女と交流をはかった。彼女は夫をなくしていて、園芸が趣味で、星を見ることが好きだと教えてもらった。

 私といえば、ずうっと数字とにらみ合うような生活だったから、大急ぎで花や星について学んだ。さいわい勉強は好きだったから知識の上ではすぐに覚えたが、彼女の言う「うつくしい」だとか「あいらしい」という丸く形のない感情は今をもって掴むことはできていない。だって花も星も彼女ではない、彼女より「うつくしく」「あいらしい」ものなど、私には想像できなかった。


 彼女が未亡人だとしても、私に欲は浮かばなかった。誓って、やましい、普遍的な肉欲というものを抱いてはいない。崇敬する魂の拠り所を見つけただけなのだ。

 だから、彼女に喜んでもらおうと、慎み深い頻度で花の種を贈り、ときに庭先に出て星を眺める彼女に軽く手を振って挨拶した。私も、彼女のあいする土地の一欠片になりたかったのだ。


 数年、楽しく満ち足りていた。もっと短かったかもしれないし、長かったかもしれない。もはや彼女の前で数字など形骸化した記録でしかない。

 突然、彼女は小川を越えて、私の家を訪ねてきた。とうとう彼女があいする土地が広がるのか、私も許されるのか。瞳孔が開いたような心地で、慌てて色付きの眼鏡をを引っ張り出してから玄関で応対する。

 彼女の言葉は今でも覚えている。


「実は、来月に引っ越すことになったんです」


 以降は覚えていない。ただ社会性を被って私は返事をした。完璧だったと思う。もう記憶にないが。

 粛々と、日々は過ぎて、彼女の家の周りは片付いていった。

 花が気の毒だから、と私は残された花の管理を申し出た。貸家だからと返されて、私はすぐに持ち主に連絡をし書類と金を交換して土地も家も手に入れた。

 私は彼女を引き止めたりはしなかった、そんな存在ではない。もう20年若かったら泣いて暴れて縋っていただろうが。


 遠くに越しても幸せに、と手紙だけを、本当に短い言葉の手紙だけを渡した。それ以上でも以下でもない、私は。

 彼女は笑ってくれた、私の勘違いでなければ、少し寂しそうに。


 彼女が越したあとも、私は彼女の思い出を守り続けた。墓守気取りだったのだろう。

 家を修繕し花を育て、まるであたかも……彼女がまだ住んでいるかのように保全をし続けた。ふっと無意識に窓からその家を見るとき、本当にまだ彼女はそこで暮らしていて、自分には見えない生活を送っているのだと脳が感じた。幸福な錯誤だった。


 うつくしくあいらしいその場所の花が、3回ほどそれぞれの当番を終えた頃だった。

 私は新しい花の種や苗を買いつけようと、久しぶりに街まで車を走らせた。年に数回ほどしか大きな街まで出向かないので、きっとこれも運命だったのだろう。


 商店街の一角、たくさんの人混みとかいう有象無象のなかに、彼女がいた。

 私の周囲から、すっかり音や色が消え失せた。時間が止まった……いや、動いたというほうが正しいか。

 彼女はしっかり、私を見つけて嬉しそうに、懐かしそうに近づいてきた。


 たしか、私は社会性を被って会話していたはずだ。私はそれが得意なのだ、自身のおかしさと向き合って生きてきたのだから。そこだけは報われてほしい。

 彼女は今、住み慣れた地域で暮らしていて、新しく寄り添ってくれるパートナーを見つけ、幸福に暮らしていると言った。

 あの、私の隣人であったころ、日々の寂しさをあなたが和らげてくれたと、改めて礼を言われた。


 私は「滅相もない」だとか「どうかこれからもご健勝のこと」だなんて返して笑っていた。まるで記号のような言葉だ、辞書から意味があう言葉を無作為に引っ張り出してきただけの。

 そう、私は心とかいうやつが作る言葉を口から出せずじまいで、ずっと鬱屈としていたことに、そのとき初めて気がついたのだ。


 彼女と別れて帰路についた。見慣れた我が家と、うつくしくあいらしかった隣家は、すっかり夢が醒めてただのありふれた……少しだけ小綺麗な土地になっていた。

 私は自分自身に強く失望し、ついで二度と土地に夢を見られなくなったことを悟り泣いた。子供のように毛布を被って、ひたすらに泣いた。


 彼女は死んだわけでも、私の神になったわけでもない。

 ただ遠くで、当たり前に、生きている。


 私はとうとう花や家の世話をやめてしまった。もうどうでもよくなったのだ。

 家を取り壊して、つまらない空き地にした。夢の残骸があることに耐えられなかった。


 それでも、そこが誰かのものに、私の死後になってしまうことは嫌で。

 考えた末、私はそこに私の墓を建てることにした。ぴったりな場所だ。


 面倒はあるだろうが、新しい生きがいだ。

 今日もまた私は荒れた空き地を漠と眺める。

 私の墓標に彼女は存在しないのだ、私のなかに真実、彼女が存在していなかったのだから。

 

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