第9話 魔弾の助手

 「朝夕涼しくなったな。菊も生き生きしている」

秦は目を通し終えた新聞をすっと折り畳んだ。

「今日もお出かけですか?」

「ああ。若い医者が次々戦地へ駆り出されているだろう?常に人手不足でね。こんな年寄りの手でも無いよりましだからな」

無いよりまし、とは随分な謙遜だった。

実際にはノーベル賞受賞者、パウル・エールリヒをして「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験」と讃嘆せしめた正確無比な手腕は還暦を過ぎてもなお衰えを知らない。


 「エールリヒ先生の下のお嬢さんの夫君、ランダウ教授がゲッティンゲン大学を逐われたそうだ。ユダヤ人だという、ただそれだけで。彼こそ『数学と言えばゲッティンゲン大学』というほどに名声を高めた立役者の一人なのに」

「そして先生も設立に関与したカイザー・ヴィルヘルム研究所から、ユダヤ人研究者が幾人も亡命したり辞めたりしているようだ……一体、ナチスは何を考えているのか」

秦は苛立たし気に吐き捨てた。

「今まで考えてみたこともなかったが、そんなドイツを見ずに済んで、先生は早くお亡くなりになって反って良かったのかもしれないな……」

眉間に皺を寄せ深いため息をつく。

実年齢より若く見られるのが常だった彼は、最近白髪と皺が増え、体重が落ち、急速にやつれていた。体力の衰えを気力で補い、働いている状態だ。


 「きっとあなたは、最後はエールリヒ先生や北里先生のことを想われて逝かれるのでしょうね。……私は、医学や研究のことも分からない女ですから」

「突然どうした?」

「すみません、どうかお忘れください。……この頃お体を悪くなさっていて、唯々ただただ心細く、心配しております。それなのに、浅ましく自分の気持ちなど。一番大切になさっているのは医の道だと肝に命じているはずなのに……」

声はだんだん小さくなり、最後は囁くように虚空に消えていく。


 秦は妻をまじまじと見つめる。

自分が各地で研鑽を積む間、若い身空を皇都に独り過ごさせた女性を。

銀婚式をとうに越した連れ合いの白髪や荒れた手を。

夫に仕え、子を産み育て、養子を迎え、孫の世話をする。その年月が過ぎ去り、祝言の頃から一回り小柄になった体を。

傍に居るのが当たり前すぎて、自分に向けられた望みや哀しみを意識したことも無かった伴侶の眼を。

「すまない。苦労をかけて」

正面から顔を見られず、目を逸らして詫びを口にする。彼自身、それが最善の言葉でないことは分かっていた。


 同郷の糟糠の妻は寂し気に微笑む。

開け放たれた障子戸から芒が風にそよぐ音がさやさやと二人の間を通り抜けていく。

菊花の白と黄が目に鮮やかな、秋の彼岸の頃だった。



 「おい、誰か!!心臓マッサージ!急げ!早く!!」

「容態の急変!ご家族に連絡は⁉」

「ご子息の秦君は大陸か……是非もない」

切迫した声が秦の耳へ流れ込んでくる。言葉を発そうにも口は動かず、声が出せない。瞼さえ開けない。


 ――ああ、私は死ぬのか。聞こえるのに声が出ないということは、血管か心臓か……?

65歳か。北里先生には及ばないが、エールリヒ先生の享年をいつの間にか越していたのだな。存外長く生きたものだ。

ああ、北里先生の怒鳴り声が、エールリヒ先生の葉巻の匂いが懐かしい。


 君が言ったとおりだな。最後にやっぱり先生の事を……ドイツでの日々を思い出してしまう。そんなにも君は私を理解してくれていたのに。

古里を遠く離れ、医にかまけて自分を顧みない夫をひたすら支える。

ずっと寂しかったのか、君は……気の利かない男ですまなかった。

それでも私は、どうしても。


 シレジア生まれのドイツ人、パウル・エールリヒ博士。

実験治療研究所所長。枢密顧問官閣下。ノーベル生理学・医学賞受賞者。

輝かしい数々の肩書と栄誉の主。けれど、それよりも。

試験管と注射器が立てる硬質な音、馴染の白衣の感触。朝日に照らされた研究室の明るさ、フェノールとエタノールの匂い。

革靴が廊下を往来するカツカツという響き。

机や椅子の上の書類が崩れ落ちる音。秘書と従僕の諦めのため息。

研究所の誰もが先生に何かしら困らせられ、その何倍も魅せられていた。


 先生。エールリヒ先生。

輝く灰色の瞳。顎髭をしごきながらの独り言。ご機嫌の時の小躍り。強い葉巻の匂い。

ブロックを振り回しながら、わが名を呼ぶ声。

「見たまえ、ハタ君!」

606号。まだ見ぬ世界。

感染症や戦争ではなく、人は天寿で亡くなるのが当たり前。そんな時代がきっと来る、自分もその役に立てると信じられた。

お決まりのあの一節、「結合なくして作用なし!」

医学に化学に生物、領域は更に広がっていく。化学療法の尽きせぬ可能性。

魔弾の夢。

己を知ってくれた人。一緒に研究できて途方もなく幸運だった……!

貴方が居るなら世界を信じられる。幾らでも夢を見られる。出会えたから私は。

エールリヒ先生。今お側に……


 「大丈夫です、エールリヒ先生。私が必ず間に合わせます」

秦の唇が微かに動く。

音のないドイツ語を聞き取った者はいなかった。



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魔弾の助手ーDie Mitarbeiter in die Zauberkugeln― 楢原由紀子 @ynarahara

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