第8話 君去りしのち
「君、そう云う事なら、医者は止め給え!」
聞き慣れた通る声が鋭く談義を断ち切る。
(あちゃ、また出た)
思わず額を押さえてため息をついた。
労多く酬われる処少ないと医者修行の諸々に不平を鳴らす若者に対して、父はいつもその一言で一刀両断してしまう。
そのせいで馴染みが薄い相手に冷淡無情だと受け取られ、恨まれることが間間あった。
父が誤解されることのないよう、そんな場面に出くわした時は後輩たちに声をかけ、後腐れのないよう補助することも己に課した務めだった。
頃合いを見て後輩に声をかける。
「すまない、物言いのきつさは大目に見てくれるだろうか?父……秦先生にとって医業は天命だから、どうしても我慢できないらしいんだ。先生にとって、医はドイツ語で言うところのder Beruf、天に呼ばれて就き、身命を賭すべき仕事なのさ。己と家族を養うが為の生業ではなく。先生の傍では、医業を軽んじたり
後輩は口を尖らせる。
「それはそうなのかもしれないですけど。にしても先輩、よくあんな怖い人の息子になろうと思いましたねえ。家でも気が抜けないんじゃないですか?」
「厳しいのは確かだけど、心から尊敬する人だから養子の話を受けたんだ。まあ君、さして違わない年頃の先生の論文を読んでごらん、驚愕する。無駄の無い簡潔な説明、実験の概要と結論を貫く明快な論旨、何より数行の図表と記述を裏打ちしている膨大な実験量」
「そして外国語で過不足なく書ける語学力……違うな、何をどう書くべきか完全に理解しているから、あの文章になるんだ。母国語ではない独語や英語でも」
「『仕事は楽しみを以て進めば苦はない』秦先生の口癖だけれど、言うは易く行うは難し。日々の研鑽の積み重ねはいつまで経っても追いつける気がしない。他者に厳しい何倍も自分に厳しい人だ。同じ世界の先達として、憧れずにはおられないさ」
「まずは、そのワッセルマン反応の記録を済ませてしまおう。読み上げていくから記入してくれるかい?」
「自分の仕事をちゃんとやっていれば、『高くて買えないがこの実験器具が是非欲しい』というような若者の希望に極力融通つけてくれる人だよ、先生は。厳しいだけの人じゃない」
「みなさん、お茶をいかがですか」
「ああ、頼む」
「いただきます」
父母の様子を妻と共に目の端でうかがう。彼らの会話はいつも礼儀正しい。夫婦と言うより師弟のようだ。
父と母は戸籍上では三十年以上連れ添っていたが、最初の十五年は日本と満州、日本とドイツ、国さえ別れ別れに過ごした時間が長かった。
母は父を信頼し尊敬するだけでなく、恐らく好いている。しかし父は母を大事にしていたが、そこに熱情や恋慕はなかった。
父の恩師、故エールリヒ博士が若き日に後の妻、ヘドヴィッヒ嬢に宛てた手紙で「それ(約束の日)まで地球の自転速度をもう少し速くする方法はないでしょうか」と吐露したような、一等沸き立つ情熱は。
北里先生の葬儀が一段落した頃、師の思い出を志賀先生と語りあう父の姿に母がぽつりと「羨ましい……」と呟いていたことを思い出す。
父、秦佐八郎という人間の核は医業と恩師への揺るぎない忠誠だった。
父にとって医は天命であり、導いてくれた師への報恩の念は深く熱かった。
敗戦国となり物資不足のドイツでエールリヒ博士の未亡人が紅茶の入手困難を嘆けば、夫人へ良い茶葉を贈るために父はあらゆる伝手を総動員した。
「お役に立てて何よりだ。そうかそうか!」
夫人の礼状を手にした時の父の笑みは、家族でさえ滅多に目にしない程の破顔だった。折々の手紙も欠かさない。
その敬愛ぶりは夫人から訪独日本人に対して「ドクトル・ハタ、かくも情誼に厚い方は他にない」と言挙げされるほどだった。
また北里先生の死去に伴い担うことになった副所長の責務では、研究所の財政難を打開し運営を安定させるため東奔西走して倦むことがない。加えて日独二人の師の志を継ぎ、梅毒・結核の予防啓蒙活動にも余念がなかった。
その不断の努力を支えるものは、師と分かちあった若き日の情熱、膨大な研究時間、互いの仕事への信頼、何より医で人を救うという信念だった。その絆の強さは余人の割って入れるところではない。
対するに母が父と共有するのはより少ない時間と家族の存在だけだ。法と書類の上では誰より親密な関係で、何人も子がありながら。
親の決めた縁組で生活に不自由せぬなら御の字、博士・教授夫人ともなれば世間体も上々、と割り切れば楽だろうに、家のために
洋行帰りで洋装も板に付いているのに、医学に無関係なところでは常に寡黙で控えめな父は武士のようでもあった。
女遊びや賭け事はせず、晩酌と菊作りと国技館の相撲が数少ない趣味。甲斐性と頼りがいのある硬骨漢。
一方、実の娘であるわが妻が言うことには、生真面目な父が偶に見せる力の抜けた笑顔や含羞の破壊力ときたら、家族でも見惚れる!らしい。鼻息荒く力説されても同意は憚られるが。
そんな男に対し一度思慕を抱いてしまったら、その鈍さ加減ぐらいでは涸れる理由にならないのだろう。
「北里先生が亡くなられてからは、少しも善いことがない!」
「このご時世ですから気持ちは分かりますが……父上、それ家で口にしては駄目ですよ。母上たちに失礼になります」
「ん?ああ、そうか、そうだな……。そこまで気が付かなかった。助かる、ありがとう」
父に気取られぬよう一拍間を置いて嘆息する。
清々しいほど医業と研究所、恩師のことしか頭にない人だ。
浮気亭主より遙かにましではあるが、好意を寄せる女性にとって酷な気性の持ち主。
母上も気の毒に。
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