第7話 射手の死

 「どうなさったんです!?」

秦は妻の呼びかけで我に返った。動転した声に己が涙を流していることに気づく。

きつく握りしめた新聞はしわくちゃになっていた。その上に忽ちしずくが染みを作っていく。


 「エー……」

口を開くが、喉が詰まって声が出ない。

「先生が……エールリヒ博士が……亡くなったと……新聞に……」

「61……早すぎる……信じられない……」

辛うじてくぐもった声を絞り出す。

「体調が優れないと聞いてはいたが……でもまさか……こんな……こんな……」

声が震えている。言葉を探しあぐね、口を開いては閉じる。

日頃冷静沈着な秦佐八郎という男の、これほどに動揺を隠せない姿は、未だかつて他者が目撃したことがないものだった。

「すまない。しばらく独りにしてくれるか」

一言告げ足早に私室に向かう秦の後ろ姿を、彼の妻は何ともいえない表情で見送った。


 数日後、蒸し暑さが残る夏の夜、志賀が秦家を訪れた。二人はドイツの実験治療研究所での研究生活だけでなく、伝研辞職と北里研究所の立ち上げの経験も共有する同志だった。

その怒涛の日々の最中さなか、仮住まいの劣悪な研究環境においてさえ、秦は闘志を表に見せず黙々と仕事をしていたのだが。

二人の周りには煙草の匂いが仄かに漂っていた。日本人には嗅ぎなれない、癖のある強い匂いだった。

「エールリヒ先生は大変な愛煙家で、一日にハバナ葉巻を何本も召される。お体には良くないのだろうが」

秦が以前、見惚れるほど柔らかい表情で語っていたことが彼の妻の記憶に蘇る。

志賀は炭酸水とビールを持参していた。ぬるくなったその飲物で、二人は共に師を悼むのだろう。

その親密で哀切な空間に第三者は決して入れない。


 リィーリィーン、ジィージィージィー……

虫の声が他を圧する勢いで辺り一帯に響いている。叢竹むらたけが月明りを浴び、微かにそよぐ。

団扇で熱気をかき回す子どもたちを他所に、女主人はうら寒そうに腕でその身を強く抱く。

物思いを払うように首を振り、預かった二人の荷物を風通しのいい窓の近くに置いた。


 「ヘドヴィッヒ夫人の手紙に『余りにも早く我々から去った』と……本当に早すぎる」

「ああ」

「夫人のピアノに耳を傾けながら、上機嫌に鼻歌歌っておられたよな」

「うん」

「せっかちでボタンを留めるのも億劫がって、夫人にスナップに付け替えてもらって」

「そうだな」

「シレジア訛りの『グーテン・ターゴー!』で一日が始まり、『さあ検討を始めよう!』とブロックを眺め、『カーデライト!炭酸水は……もうこんな時間か?あの時計は狂ってるのか?』で終わる……。もう二度とあそこで研究ご一緒できないんだな。なあ、本当に……」


 「信じられるものか!もう世に居られんなど……」

「信じられるものか……エールリヒ先生!!」

不意に、秦がむせびながら師の名を呼んだ。

その声の悲痛さ、身を切るような叫びに、志賀は一瞬息が止まるほど驚いた。

秦は滅多に強い感情を表に出すことはない。ともすれば表情に乏しいと周りから見做されがちだった。

口数少ない友が恩師の死にどれほど悲嘆に暮れているか、志賀は忽然と悟った。

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