第11章 転機 その2 父と母
「あら、嬉しい!おまえさん男だねぇ」と女は喜びながらその桃を手に取った。
桃は大ぶりで瑞々しく、濡れているというのに甘い芳香を周囲に放っている。
嬉しそうな目で桃を見ていた女であったが、その目をヤマガのほうに転じると、急に気づいたように声を掛けてきた。
「あら、おまえさん、びしょびしょじゃないの。桃も取ってもらったし、うちに寄っていかないかい。うちには母さんしかいないけど、ちゃんと服も洗ってあげるわ」
普段ならそのような申し出は受け付けないはずなのに、どことなく女に憎めない愛嬌を感じ取り、ヤマガはその申し出を受けてしまった。
彼女の家に行ってみると、そこには彼女の言うとおりに母親がいて、彼女は母から「マミ」と呼ばれていた。
着替えを出されて、服を乾かしていると、先ほど川を流れていた桃が切り分けられて出された。
その桃を食べながら話しているうちに、桃は彼女が川に落としたのではなく、上流から流れてきた物だと教えられる。
「川に流されてきた物にあんな必死な声を上げていたのか」とヤマガが大笑いすると、彼女の母も「マミには変わったところがあって、子供の頃から驚かされることばかり」と笑う。
話は尽きなかったが、桃を食べ終える頃には三人とも急に疲れてしまって、うとうとし始めた。
はっと気づくと夜になっていた。
服は乾いていたが「もう暗くなってしまったから泊まってお行きよ」と母親からも誘われ、普通ならそういう話も頑ななくらいに受け付けないヤマガがどういうわけか、これにも応じてしまった。
妙な話だった。
床についても、どうにも不思議な気分になり、寝付けずにいるうちに外の空気を吸いに出た。
外に出ると、既にマミがいた。
彼女も妙な心持ちで同じように眠れないのだと言う。
「不思議なこともあるものだ」などと話すうちに、そこは闇夜の中である。
ヤマガとマミの若い二人は妙な雰囲気になってしまう。
その夜のうちに二人は契りを結び、夜が明けると母に事情を説明することになった。
ヤマガが見るからに偉丈夫だったし、真面目な働き者だったこともあって、母は何も文句を言わずに住まいを二人に分けてやった。
日を経ずしてマミが身籠もっていることが分かり、知り合って十ヶ月後に生まれたのが太郎というわけである。
残念ながらマミは産後の肥立ちが悪く、太郎が生まれて一年足らずのいちに亡くなってしまった。
男手だけでの子育ては大変と思われたが、マミの母が預かってくれ、ヤマガは猟を続けることができた。
そんなマミの母も太郎が五歳の時に病に伏せるとそのまま亡くなってしまった。
それ以来、ヤマガが猟に出ている時の日中は里の子供達と遊ばせることにした。
そこで太郎はイサセリヒコ(五十狭芹彦)とも出会ったのだが、ヤマガ自身はイサセリヒコ(五十狭芹彦)に会ったことはない。
湯船でマミとの馴れ初めなど思い出しているうちにヤマガはうつらうつらとし始めた。
そんな夢うつつを呼び覚ますように突然として大波が被さってきた。
眠り掛けていたヤマガは驚きで目を覚ますとともに、お湯でむせかえった。
何ものかが湯に飛び込んできたのだ。
咳き込みながら湯を吐き出し「こら、他にも人がいるのだぞ」と文句を言いながら顔を上げる。
その視線を遮る湯煙の先には黒山のような大きな影が立ち聳えていた。
ヤマガは慄然とする。
熊だ!
それもこれまで目にしたこともないような巨大さではないか、と。
山の中では不意に出会った熊ほど恐ろしいものはない。
ましてや、この至近距離である。
チラリと自分が服を脱いだ方を振り返った。
そこにはヤマガの鉈と弓矢が置いてある。
なんて運のない日だ、と猟の不成果と合わせて思い返す。
そんな考えを振り払うように、彼は横っ飛びから身を翻し、自分の鉈を手にしようとした。
だが時を同じくして、熊も勢いよく飛び込んできて、ヤマガが鉈に手を触れた瞬間にその巨大な前脚をヤマガの後頭部から背中に渡って振り下ろしていた。
ざっくりと巨大で鋭い爪が突き刺さり、肉体を切り裂き、えぐっていく。
これほどの痛みは生まれてから初めてだ、と歯を食いしばりながら耐え、ようやく手にした鉈を振り向きざまに切りつけようとした。
その手を熊の反対側の前脚が待ち構えていたかのように遮り、信じられないほどの力で撥ね除けられ、鉈は横にすっ飛ぶ。
万事休す、と下を向くと足下から周囲へと湯船は真っ赤に染まり、なおも血が滴り落ちていくのが目に入る。
「遂にマミに再会する時が来たか」
彼女のことを思い返したのも、この予兆であったのか・・・・・・
そんな考えが浮かんだのと同時に、自分の身体が宙を浮き、そっと湯船の脇に横たえられたのを感じ取る。
何が起きているのかは俄には理解できなかったが、とにかく一旦は窮地を脱したらしい。
その時、心地よい若者の声がヤマガの耳に届いた。
「大丈夫か」
ヤマガにとって、これほど頼もしい声はない。
それは既に父を越えた力強い若者の声であった。
「太郎」と彼が呼びかけると、その声に彼を救い出した人物が驚きで身を震わせるのが分かった。
彼はその声で助けた相手が父・ヤマガと気づいたようだ。
「父上・・・・・・私が遅れたばかりにすみません」
「・・・・・話は後だ・・・・」
太郎の姿を見ると、先ほどの諦めの境地とは打って変わって、ヤマガの心に歓喜が満ちてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太郎もまた、時間があるので湯浴みでもしようかと、父から教えられた温泉に降りてきたのである。
衣服を脱いでしまおうとしたところで只ならぬ物音に、慌てて駆けつけて来たら、人が熊に襲われていたという訳である。
救い出してみたらそれは父親で、襲った方の熊はというと・・・・・驚くほど大きい・・・・・
だが、ちょうど同じくらいの大きさの熊と、ほんの少し前に取っ組み合ったばかりである。
これほどの熊がそうそううろついているはずもない。
となると、これは同じ大熊か?
そんな因縁を確認している暇はない。
獲物をかっさわれた熊は太郎の方を睨みつけながら、やたらと鼻をヒクヒクとさせている。
ややあって熊は凄まじいばかりの咆哮を上げ、怒りも露わに飛びかかってくる。
次の更新予定
2025年1月5日 12:00 毎日 12:00
建国神話と桃太郎伝説 紗窓ともえ @dantess
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